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ステイタスの不安

ひとつきほどまえ、およそ三十年以上の付き合いになる友人「Y」(その間20年ほどは疎遠だが)から急に電話があって上京してるから一杯付き合えと言われた。東京に来るのは20年ぶりだとか。
最後に会ったのは五年ほどまえの京都だったか。

ま、数秒でも数分考えても思いつきで、そしてダメ元で連絡してきたことは明白だった。本当に会いたかったら前もって連絡するはずだから。
そして一癖も二癖もあるやつなので何か別の思惑もあるんだろうなとも思った。以上の理由から僕が彼の急な呼び出しに応える理由は皆無だった。しかし、「イレギュラーの採用」を提唱する僕としてはむしろ会いに行くべきで、パートナーの制止を柔らかく振り切って23時を回って家を出た。

僕が指定したバー(客はわれわれだけ)に現れたのはYとその連れで、二人ともほろ酔いだ。連れの方は自らYの弟子と名乗り、Yもそれを吝かではない感じだった。

無用にYを褒めちぎるその連れの態度に一抹の不安を感じつつも注文を済ませ一通りの社交辞令を交わす。数分も立たないうちに自分がYのどこにストレスのようなものを感じていたのかを思い出す。

ざっくり言うと話しの中心が彼自身であることが全体の70%以上を占めて、自慢話しとそれらを覆すような自虐オチを繰り返すのだ。
そしてそれらが興味深いものであるならば僕はむしろ進んで話を聴く姿勢を取るだろう、でも多くは話の途中で結末が見えてしまい最後まで集中して聞けないのだった。

後悔さきに立たずなのは家を出る前にわかっていた。そして朝読んだとても詳細な星読みによるとその日の僕の星回りは、活力と決断力に富み、場合によっては好戦的で身近なひとと口論に発展する可能性もあり、自分や他人を傷つけてしまう危険性があると記されていた。

それらを理解した上で理性的な言動を保つことを心に誓いこの場を迎えているので、ある意味とてもスッキリとしたマインドセットで終始いられた気がする。

話のディテールは割愛するが様々な考察と分析を経て、僕とYの合意のもとの結論として、彼はとても自己愛が強くかつそれを隠すことをしないタイプだということが分かった。しかしながら2時間に及ぶ会話の中でおそらく5~6回は「俺大沢くんに嫌われてる?」と聞いてきたのは他人からの愛情にも多少未練があるのだろうか?僕は正直に冷静に対話する努力を最大限にしていたので、この質問にも誠実にかつ率直に答えた。

「嫌ってはいないよ、嫌っていたら多分ここにいないよ。でも大好きかと言われるとそうは言えないし、第一僕の記憶では僕らは親友と呼べるような付き合い方をしたことはないと思ってるよ」

もちろん僕を含めて人間の記憶の曖昧さはここで言うまでもない。
しかし、彼の昔話の中に出てくる僕はどうにもこうにも自分らしくなくて腑に落ちない。

それどころか自分の中で正反対の言動をしている僕がそこにはいて、なんとも気持ちが悪い。
もちろん若いときの自分なんて他人に誇れるような部分はほとんどなくて、思い出すのもいやなくらい自己嫌悪を誘発する。しかし、それと自分の感情的記憶のすり替えとはわけが違う。

ともあれ彼の自慢話しやお涙頂戴話しは絶妙な塩梅の自己憐憫を含んだ承認欲求で覆われ、彼による我々の歴史的事実の改ざん疑惑も含みつつ終焉を迎えた。

そしてそんな彼に僕が読んで欲しいと思った本のタイトルを告げようとした時彼が言った、
「それ数年前に大沢くんに勧められたよ」

はい、僕の記憶力も当然ながら劣化してるのであった。
しかしながら、僕の感性の反応が数年経ってもぶれていないことには少しうれしくなった。おあとがよろしいようで。

PS 本はこれ
もうひとつの愛を哲学する ―ステイタスの不安




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