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コロナ騒動から感じる『適切』の重要性

連日、コロナに関するニュースが飛び続け、会話の中心もコロナ、スケジュールもコロナ次第と、本当にコロナを中心に世界がまわっていることをひしひしと感じています。
今朝は、志村けんさんの訃報があり、コロナウイルスがより身近なものであるということを感じました。引っ越し前、地元で過ごす残りわずかな時間ですが、お世話になっている方々への挨拶まわりもやめて、電話等で連絡させていただいています。

このコロナ騒動の中で感じている、思っていることがあります。

その中で最近感じているのは、「コロナは現在の社会の在り方に対する警鐘」だということ。
(あくまで個人的な感じ方、考え方です。)

今の社会の多くは過度になりすぎている。無駄が多い。何事も適切・適度を目指すべき。

では無いのでしょうか?

もし、ここまでの都市一極化が進んでいなかったら、、、
テレビ会議や講義等、オンライン化が進んでいたら、、、
普段から必要最低限の物資を買い、必要最低限の備蓄ができていたら、、、
みんなが「足るを知る」を考えられていたら、、、
たら話をしてもしょうがないし、良くないと思いますが、もう少し感染力は弱かったかもしれない… そう思います。

もちろん、都市・地域によって規模の大きさに違いがあって、違いがあることでそれぞれがそれぞれの役割を果たせるということもあります。
けど、人口が集中しすぎることも、逆に過疎化が進みすぎることも、こういった病気が蔓延するときには深刻な問題へと繋がります。

また、今はコロナ対策ばかりが考えられていますが、こうしている今も突発的な自然災害が起こる、取り返しのつかない環境問題が進む、可能性だってもちろんあるわけです。コロナ対策を最優先に考えつつ、防災や環境についても考慮はし続けるべきであると思います。
人口集中、過疎化は防災問題、環境問題にとっても大きな懸念材料なはず。

どうにかこの過度な人口集中、過疎化が進む社会を、適切・適度に持っていく方法は無いのだろうか。と、強く思います。

今回のコロナでわかったことですが、都会や学校に行かなくてもオンライン授業で勉強はできるし、欲しいものもネットで買えることがほとんどです。打ち合わせや会議だって、環境悪化や交通渋滞の原因になる車を使わなくてもオンラインで出来ます。

それぞれのまち・ひとにとって「ちょうどええ」を社会全体がつくっていけたら、どんなに住みやすく、安全で、心地良くて、麗しい世の中になるんだろう。

僕は、人に会うことが、人と話すことが、集まることが、大好きで、SNSも大事だけど結局は直接会って目を見て会話をすることが大切だと思っています。
たしかに、直接会って、経験しないと出来ないことも沢山あります。
けど、コロナをきっかけに、今やっていること全てがそうではなかった、もっと無駄をなくして、テクノロジーを活用して、適切・適度を目指すことはできたはずだ、と感じています。

コロナが治ったころには世の中全体がちょうどええに向かっていけてたらなと思います。

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