見出し画像

渋谷の歴史 vol.10「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツの地図を再現してみた」

戦後の歴史はあまり公にされていない部分がある。現在の、のどやかな代々木公園に800世帯以上の米兵のためのアメリカ住宅と小さな街があったとは誰も想像できないのではないだろうか?
渋谷の歴史をいろいろな地図から調べている。そのきっかけとなったのが、性社会・文化史研究者・三橋順子先生のブログを見て住宅地図に興味を持ってからである。私が賃貸で借りている一室のビルが元々は「モダン・クラッシック」なホテルだった事がわかり衝撃を受けた。渋谷と千駄ヶ谷は♨旅館だらけだったそうだ。
仲の良い渋谷の不動産屋さんから不動産業界には「運気の良い不動産」というものがあり「出世ビル」「出世マンション」と呼ばれる人気物件があると教えてもらった。渋谷にもいくつかあり人気物件は順番待ちだそうである。有名な所で言うと「金王八幡宮」の参道の入り口のビルは有名だ。今、借りている物件も「縁起の良い物件」と言われていて嬉しい。事故物件の逆パターンである(笑)  そんな事があり、過去や土地の由来が気になってきて、それからよく地図を見るようになった。
占領下の東京の地図も複数あって、以前照会したものもオーストラリアのライブラリーで閲覧することができた。
こちらは以前も紹介した1947年の占領時のワシントンハイツの地図である。


City map, central Tokyo / prepared under the direction of the Engineer, GHQ, FEC ; by the 64th Engineer Base Topographic Battalion 1948

これを見ると現在の表参道から神宮橋を渡ってワシントンハイツ内を通って北参道へ抜ける道はYOYOGI STREETと呼ばれていた。現在は代々木公園内に当時の道路はない。井の頭通りは33TH STREETからG STREET、30TH STREETは明治通りとファイヤー通り。宮下公園下の明治通りはまだできていない。AVE "F"は道玄坂~宮益坂~青山通りである。

1962年ごろのワシントンハイツの地図を再現してみた

そんな過去の住宅地図を見ていると、何故か主権回復後の1962年の「日米地位協定による駐留」の時代のワシントンハイツの住宅地図もあった。返還前なのに何故日本の地図に米軍の住宅の番号が書いてあるのか不思議だったが(住民税徴収のため?)、これにより色々なことがわかってきて大好きな代々木公園をより深く知ることができた。1962年当時の住宅地図を入手した。図書館に収蔵されている住宅地図も原本ではなくコピーのため、線も文字も掠れて判別できない部分がかなり多かったため、地図をスキャンしてトレースし、現在の地図と合わせてみた。住宅地図は見開き1枚で1つの著作物となるため公開は一部しかできないが、全体をつなげて見てみるとその凄さに圧倒される。
地図は国の基本図の縮尺が数回変わっている上に、当時の地図は手書きであり、それをトレースしたので正確ではないことと、若干ズレていることはご容赦頂きたい。


①参宮橋から現国立オリンピック記念青少年総合センター付近


①参宮橋から現国立オリンピック記念青少年総合センター付近。参宮橋から現国立オリンピック記念青少年総合センター付近。このエリアに見える独身男性将校寮BOQ(bachelor officers' quarters)があった。2012年に亡くなられた加瀬竜哉氏のブログに掲載された写真でみると鉄筋コンクリート作りの集合住宅だった。


2012年に亡くなられた加瀬竜哉氏のブログ。そちらから転載させて頂きました。

2012年に亡くなられた加瀬竜哉氏のブログ no river, no life 第六章・熱中時間がくれたもの 第六章・第三節/旧道と島状緑地 の渋谷区内の河川の研究が凄い。そちらから写真を転載させて頂きました。


②原宿駅付近


②原宿駅付近。地図にHARAJUKU GATEの「守衛室」の文字が見える。写真がその守衛室だ。ちなみに山手線を跨ぐ橋は原宿駅周辺に3つあり、神宮橋は大正時代、水無橋は明治時代にかけられた橋で、五輪橋は1964年の東京五輪が開会する2カ月前にかけられたそうだ。五輪橋が通る都道413号赤坂杉並線の五輪橋から代々木公園交番前交差点から環八井の頭交差点までの道路はワシントン・ハイツ返還後に作られたので1964年にはまだ無い。この地図の上部に257とあるが、こちらが現存する257号室である。

原宿ゲートの写真
③現渋谷区立 はるのおがわコミュニティパーク、代々木深町小公園、駐車場付近


③ こちらは現渋谷区立 はるのおがわコミュニティパーク、代々木公園駐車場付近の地図。Y.E.S. MAIN BUILDINGとあるのは、YOYOGI ELEMENTARY SCHOOL、ワシントン・ハイツ内の「代々木小学校」である。この小学校の元敷地に現在、はるのおがわコミュニティパークと代々木公園管理事務所がある。地図には表記はないがこのエリア内に「十四烈士の碑」もある。当時のハイツ内に小学校を作るときのやりとりが「占領軍住宅の記録」にあったが、文化の違いというものはこういうものか、と考えさせられた。 現在の名称は不明だが代々木公園交番前交差点から参宮橋交差点までつながっている旧都道419号代々木淀橋線がワシントン・ハイツ返還前はワシントンハイツの周囲を沿うようにG STREETがあり、返還後に直線に整備され、飛び地のような公園が2箇所できた。一つは渋谷区立はるのおがわコミュニティパークで、もう一つが渋谷区立代々木深町小公園である。こちらのトイレは現在外国人観光の観光スポットになっているそうだ。


ワシントンハイツ代々木小学校の完成予想図


④現NHK放送センター、渋谷区役所付近こちらは現NHK放送センター、渋谷区役所付近。

④現NHK放送センター、渋谷区役所付近こちらは現NHK放送センター、渋谷区役所付近。M.T.M.A.(Military Traffic Management Agency、軍事交通管理局  )の場所が現在のNHKや渋谷区役所と神南小学校がある場所だ。ガールスカウトU.S.A.の建物の部分は現在はシビルガーデンとLINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)である。地図がズレているが、バス停のマークのある付近の島のような部分に現在ネーミングライツで渋谷区で初めて命名された「区役所前トイレ診断士の厠堂」がある。こちらももともとワシントンハイツの敷地だったが、岸記念体育会館前からNHKセンター下まで通じる道路が作られた際に分断された模様。ワシントン・ハイツ返還前後に作られた道路だ。

ちょうど現在の代々木公園、通称「ビクトリーロード」の入り口付近にあったゲートの写真。
現在のヴィクトリーロード最終エリア、ケヤキ並木通りの入り口

ヴィクトリー・ロードとは?その由来

公園通りはヴィクトリー・ロードと一部の音楽関係者の方から呼ばれているそうだ。1964年に現在の代々木公園からNHK、渋谷公会堂一帯のエリアが日本に返還され、旧渋谷区役所と旧渋谷公会堂が誕生した。その当時は公園通りではなく区役所通りと呼ばれていた。その後1973年にパルコ(イタリア語で公園の意味)のオープンの頃に公園通りと名付けられた。

バンド経験者ならおわかりだと思うが、バンドを始めてまずジャンジャン、渋谷屋根裏などのライブハウスから始まって、公園通りを登るとまず「egg man(収容人数:約400人)」、その向かいに「LINE CUBE SHIBUYA (収容人数:約2400人)」、その先のケヤキ並木通りに「NHKホール(収容人数:約3500人)」、そしてその向いの奥に「代々木第一体育館(収容人数:約10000人)」まで公園通りからケヤキ並木通りを登っていくコースは、坂を登るにつれてハコも大きくなっていくことで「ヴィクトリー・ロード」と呼ばれているそうである。

参考文献
City map, central Tokyo / prepared under the direction of the Engineer, GHQ, FEC ; by the 64th Engineer Base Topographic Battalion 1948
東京都全住宅案内図帳 渋谷区(西部) 昭和37年改訂版 1962年 住宅協会地図部
渋谷の記憶 写真で見る今と昔 渋谷区教育委員会
デペンデントハウス : 連合軍家族用住宅集区 1948年

参考サイト
National Library of Australia
加瀬竜哉.com no river, no life
ライブハウスをめぐる〜渋谷の街と音楽文化〜 | シブヤ大学 |
神宮橋
五輪橋(東京・渋谷) 新しい文化と歴史が交錯 - 日本経済新聞
水無橋|東京都渋谷区の歴史
Browse Items · The Oliver L. Austin Photographic Collection
【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?