Fukushima50を見て〜震災当日を振り返る〜

香港では、ようやくコロナウィルスの規制も少なくなってきて、映画館も席の間は空けなければいけないが、普段通り映画を見られるようになった。

そんな時に、久しぶりに見たい邦画が香港にきた【Fukushima50】だ。

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日本の友人がSNSに上げているのを見て、気になっていた映画だったので、友人と食事した後、家の近所の映画館のレイトショーに一人で駆け込んだ。

こんな言い方すると失礼ですが、思っていたよりもいい映画でした。

扱うテーマが複雑なだけに、どうなるかと思いましたが、終始涙が止まりませんでした。

この映画のレビューは、色んな人が書いたりYouTubeに上げてくれているので、ここでは詳しくは語りません。

映画上映中、原発の暴走を食い止めようとする作業員や、刻一刻と変わる状況を見ながら、ある事を思い出していました。

今から9年前、東日本大震災当時の自分を。


あの頃、僕はホテルのバーでバーテンダーをしていました。

震災当日、出先で震災の時間を迎えた僕は、今まで体験した事のない揺れを感じ、自転車を降り、揺れが収まるのを待っていた。

この時は、あまりの事に理解ができなかったんだと思う。

そこから近くにあった友人の古本屋を覗き、床一面に散らばった本とAMラジオが伝える無機質な地震速報を聞き、ことの重大さを理解した。

その足で職場に向かったが、その間考えていたことは、友人の古本屋のように床一面に酒のボトルやグラスが散らばった店の状況だった。

慌てて店に入るとそこには、僕が来るのが遅いとぼやく店長と、いつものようにカウンターでビールを飲む常連のお客様の姿だった。

ボトルも落ちていなければ、グラスも割れていない、拍子抜けするぐらいに普段通りの店の姿。

普段と違う点を挙げるなら、いつもビシッとYシャツとベストを着てカウンターに立つ店長がジーパンTシャツ姿だったのと、センスのいい落ち着いた音楽では無く、無機質なAMラジオの音声だったことだった。


その日の営業をどうするか店長と話し合い、悩んだ挙句にその日は様子を見ながら、普段どおりの営業をすることに決めました。

普段通りベストを着て、ネクタイを締め、店の開店準備をする、普段通りの日常。

さっきまでの不安や焦りが全て無かったかのような、日常の風景。

その中でも、AMラジオの音が淡々と震災の被害の大きさを伝えていた。


夜7時を過ぎると、常連のお客様や電車が動かず帰宅困難になった人、ホテルに泊まれなかった人が集まり、店内はそれなりに忙しかった。

どのお客様も会話の内容は昼間の震災のことについてだった。

みんな出来るだけ不安を打ち消そうとしているのか、普段より声も大きく楽しそうに話していたように思えた。


そんな中、お客様を見送りにホテルのロビーフロアに出ると、ロビーの隅で床に座る人達と目が合った。

その時間帯営業しているのがうちの店だけだったが、重厚な入り口のバーだったので入りづらいのもあったでしょう。ロビーの隅に座る人達に「まだ席空いてるんでよかったらどうぞ」と声をかけても、力なくうなずくばかり。

店内も忙しくすぐに店に戻り、そのまま営業を終えたが、店を出る時に見てもその人達はロビーの隅に座ったままだった。

その時、温かい飲み物でも振る舞った方が良かったのか、バーとしての営業をきちんと全うした方が良かったのか。選んだのは後者だったが、今でもどちらが正解だったのか考える日があります…


僕が笑っていた時に、命がけで暴走する原発を止めようとする人がいた。

僕が飯を食って屁をこいていた時に、どうにもならない現実に打ちひしがれている人がいた。

僕が彼女と寝ていた時に、死を覚悟する人がいた。

今こうして香港の自宅で文章を書いている時にも、震災復興やコロナと戦うために動く人がいる。

もし自分の子供ができて大きくなった時には、大きな震災があったこと、福島の原発で戦った人はもちろん、震災復興のために戦っていた人がいたことを語り聞かせたいと思います。

その時には、お父さんはとても怖くて不安だったことや、困っている人達を前に何もできず無力感に打ちのめされたこと、戦っている人達を応援し続けたことも伝えようと思います。

Fukushima50本当にいい映画でした。

まだまだ書きたいことがあるんで、後日また震災当時の話を書こうと思います。




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