7月8日 那覇の日

2013年に沖縄に事業会社を作ったことがきっかけで、これまで那覇には何十回と仕事で行っているので、沖縄や那覇について書きたいことは沢山ある。

まず歴史的に言えば、明治時代の廃藩置県(沖縄のみの話で言えば琉球処分)により日本に沖縄県として併合されるまでは、沖縄は琉球王国という独立した国であったが、小国であったがために他国への入朝や貿易による富国は王国を左右する一大事だった。

琉球の王達は、入朝については中国(清)と日本(薩摩藩)の両方に属国として入朝する、いわゆる二枚舌戦略を採っており、中国からすれば琉球王国は清の属国、薩摩藩や徳川幕府かれしても、琉球王国は属国として見られていたと言われている。
また、同時に島国で周囲を海に囲まれ狭い土地しか持たない琉球王国が国を富ますには、この大陸と日本との貿易を生業とする方針を採っており、その拠点を那覇港に置いていたため王の居住する首里城もこの那覇港の近くに構えることになり、それが貿易と城下町として栄えていき、のちに沖縄県の政令指定都市である那覇市となっていった。


現存する(火災で大部分消失してしまったけれども)首里城が、日本の城と似ても似つかない城なのは、この中華の影響を多分に受けているともいわれているし、首里城の門は中国の方向である西向きに立っていることは宗主国である清の王の方角を向けて建てられたともいわれているので、当時の琉球王国の首脳陣はどちらかといえば自分たちは清の属国だという認識の方が強かったのかもしれない。

また、沖縄の全土に、グスク(いわゆる城のようなもの)と言われる大名達の城が立っているが、こちらは日本の代表的な城の形とも、中国の代表的な城の形とも異なり、石造りを中心とした戦に備えた機能と、沖縄独特の信仰の拠点としての機能を備えた有力者の居住地が点在しているのは琉球王国独自の文化を感じさてくれる。


そのような歴史から考えると、沖縄は歴史的には中国の一部だと言われても仕方がないとも思うが、沖縄県民の心中はかなり複雑で、毎日のように領海を侵犯する中国との最前線にいる彼らは、いわば日本の本土の人間よりも中国に対する抵抗感・危機感も強く抱えており、一方で過去の大戦の中で、やむを得ない状況であったのかもしれないが、いわば「日本の捨て駒」にされ、亡くなった方、蹂躙された県民がいたその背景から、日本に対しても、米国に対しても、やはり同じく複雑な感情を抱えているように感じる。

米軍基地は沖縄県の本土で言えば約15%を占めるが、その土地は沖縄県民が土地を貸していることになっており、その土地から沖縄県民の地主に入ってくる収入も、米軍が存在することによる経済的なメリットも、その感情を複雑にさせる一つの大きな要因になっている。(ちなみに、地主が主張し国が支払っている借地面積を合計すると、米軍基地の実面積よりも大きな面積を貸していることになるらしいが、敗戦後のドタバタで誰も正しく証明できないので、基地が全部返還されたら、このあたりの地権整理も大変そうだ。)

そのような沖縄県民は、僕のような内地の地方都市の出身者とはやはり大分感覚が違い、僕からするともちろん生まれた金沢も、育った新潟、福井もそれぞれ大事な土地だとは思うが、それよりも日本のためにという、日本>生まれ育った土地という優先順位の感覚なのに対して、沖縄県民は、まず沖縄>日本という優先順位で非常に沖縄という地元に対する愛情、愛着が大きい。

そんな話を何度も沖縄に行く中で、沖縄生れの社員や、飲みに行った居酒屋などで話を聞いて知った。
そんなお気に入りの居酒屋の一つに「あっぱりしゃん」というお店があり、ここのマスターはそんな話のあとに三線を鳴らしながら島唄を聞かせてくれた。

そして、すでに泡盛とマスターの話ですでにしこたま酔った僕は、必ずその後マスターが歌う「島人ぬ宝」で泣かされるんだ。

また、行きたいな。

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