「読書が好き」は「国語ができる」ではない

保護者の方がよく言うのが
「うちの子、読者は好きなんですが、国語があまり得意ではなくて…」
という言葉です。

結論から先に言うと
【読書が好き=国語ができる】
ではありません。

もちろんそんなことは分かっていてあえてコミュニケーション的な意味でそう言っている方もたくさんいるとは思いますが。

今からお話する内容は、実は普段の授業でも子どもたちに(どちらかと言えばお家の人なんですが)伝えたいことです。
ですが、限られた時間の中で国語の力を伸ばそうとすると、余談の部類に入ってしまうためカットしています。

あと、中には受動的な姿勢で授業を受けている子もいるため、「読書は意味ない」と受け取ってしまう可能性もあるため話さなかったりもします。

そして、「○○先生が読書は意味ないって言ってたよ」と本質から離れた拙い表現で保護者に伝える可能性が高く、運悪くそうなってしまうと次の日か早ければその日のうちに塾の電話が鳴ります。

「うちの子最近ようやく読書するようになってきてたんですが、今日の授業で○○先生に水を差すようなことを言われたみたいなんですが。もちろん先生もそういうつもりがないことは分かっているのですが…」という一見クレームではない雰囲気をまとったクレームが来ることにもなります。

そしてさらに運悪く空気の読めない人が電話を取った場合、
「△△さんのご家庭から電話がありましたよ。あ、でも口調は穏やかだったんで、別にすぐ折り返さなくてもいいと思いますよ」とか言ってきて、次の日家庭に電話したら火種が大きくなっていて…
という負のピタゴラスイッチみたいなことになったりもします。

僕も普段は組織の中にいる人間なんで、やはり会社に迷惑をかけてはいけないという意識が働いてしまいますから保守的にならざるをえません。

ですが、このNOTEでは本名は伏せていますし、この文章を読んでくれている方は意識が高い方が多いと思いますので、そのあたりの心配はせずにお話できそうです。

では、話を戻しまして。

そもそも「読書」は、物語文の「読解」とは大きく異なります。

「読書」している時、子どもたちは何を意識して読んでいるのかというと「ストーリー」や「話の展開」です。
ぶっちゃけ「何が起こったか」「誰がどうしたかorどうなったか」というようなことしか気にしていません。
だから、読むスピードが速くても意外と読めてしまいます。速読ってやつですね。(ここから「うちの子、読むスピードは早いんですが解き終わらなくて…」という勘違いも生まれたりもします)

ただ、読書は、たくさんの言葉に触れる機会になるので語彙力の強化には役立ちます。
本にもよりますが、教養も増やせます。

だから読書自体は否定していませんし、むしろ推奨します。

ただ、「読解」とは違うんですよ、ということなんです。

だって物語文の問題で次のような問題はほとんど出ませんよね?

・どのようなお話でしたか。
・主人公は何をしましたか。
・話を起承転結に分けて説明しなさい…etc.

ここに【読書が好き=国語ができる】わけではないと言った理由があります。

では、「読解」とは何なのか。

ここで物語文の出題はどんな問題が多いか考えてみてください。すぐに思い浮かぶはずですから。

・気持ちを答えなさい。
・理由を答えなさい。
などの問題が浮かんできますよね?

そうなんです。
つまり、物語文の読解とは何かをズバリ言ってしまうと、「登場人物の心情」や「行動や心情の理由」などに注目して読んでいくことです。
これが読解です。
読んで字の如く「読んで解く」ためのものです。

もう少し細かく言うと
「人物の性格」や「特殊な情報(例えば、最近の入試では“親が離婚している”などの文章が多く出題されています)」も心情や行動の理由に関わってくるので注目していったほうがいいです。

で、これらを読み解くためには、それなりにじっくり読まないと読み取れません。ストーリーや展開を追うだけでは見落としてしまいます。気持ちは登場人物の置かれた状況や性格や起こった出来事によって変動していくので、“なんとなく″では見落とします。気をつけながら読みます。これを精読と言います。

読書はストーリー重視、読解は心情重視。
読書は「天空の城ラピュタ」で、読解は「耳をすませば」なんです。

物語文を読解する上で、まずはこの意識を持つことが大切だと考えています。

これを読んでくれている保護者の方は、今後「うちの子読書が好きなのに国語ができないんです」は極力言わないようにして、読書は語彙力アップ、そして息抜きのため(意外とこれも重要)だと割り切りましょう。

ここまで読んでくれてありがとうございました。


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