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短歌「にする」という言語行為

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「スイミング・スクール」の新しくなさ

平英之「短歌にとっての〈語り手〉」という記事を読んだ。

この文章は、井上法子「「夜明け」について 第二回笹井宏之賞大賞受賞作を読んで」(『現代詩手帖 2020年5月号』所収)を読んだうえでの平の感想のようなものらしい。井上の「「夜明け」について」は私は未読だけれど、どうやら鈴木ちはねの「スイミング・スクール」を題材にした評らしい。「スイミング・スクール」については(この記事を書いている時点ではまだ未発表だが)縁あって評を書いたところだったので、こういう話なら何か書けそうだなと思った。だから、ちょっと思ったことを書いてみたい。

ネタばらしをしてしまうと、私は「スイミング・スクール」を、語り手としての〈わたし〉が、語りだされる〈私〉を他ならない〈自分〉として引き受けるためにつくられた連作として読んだ。その詳しい読み筋については、まあそちらの文章を読んでもらうとして、それ自体はなんというか、それほど目新しい試みではないのではということを指摘しておきたい。むしろ近代短歌の歴史を鑑みれば〈わたし〉が〈私〉について語ることとそれを〈自分〉として引き受けることとは長らくワンセットだった経緯があり、荒っぽい理解をすると、その自明性を突き崩そうとした点で意義をもっていたのがライトヴァースとかニューウェーブとか呼ばれる動きだったのではないかと考えている。

これも荒っぽい言い方だが、前提として、「スイミング・スクール」における主体は時間についてあらかじめ微分された〈こまぎれ〉な自己イメージをもっているようなところがある。この〈こまぎれ〉な自己イメージをもっている主体こそが、おそらく井上や平が注目する語り手としての〈わたし〉に他ならないだろう。一方で、そういういまここにおける語り手としての〈わたし〉に対して、ある程度の歴史性というか、時空間的にもう少し広い幅をもって存在するような自己イメージというのもあって、ざっくり図式化していうと、私たちはそういう自己イメージをさしてこそ〈私〉と呼ぶことが多い。

「スイミング・スクール」の語り口が見る人によっては少し新鮮に(というかたぶん少し奇異に)映るのは、語り手が〈こまぎれ〉な自己イメージを所与としている地点から手癖で語ってくるような感じに由来している。

いま何を聞かれても口ごもるだろう いつ 何を どうして どこまで
/鈴木ちはね

こういう語り口は、井上のことばを借りれば「パフォーマティヴ」なもので、あるいは本田一弘が渡辺松男の短歌を引いて評した「多重人格的」みたいな評がふさわしい気がする(本田一弘「私性とは何か」による)。

吾のなかの何人の吾かなんにんの吾のなかの吾か秋うろこぐも
/渡辺松男

ただ、この渡辺の例のようにいまここにおける語り手として複数の「吾」が、まるでひとつのマイクを取り合うように、真なる語りとしての〈私〉の座を争うような多重的な語りというのは、まあ、しばしば存在する。平も引いている佐クマサトシの歌などもそういう作品だろう。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
/佐クマサトシ

あるいは、やはり平が引用した斉藤斎藤の次の作品もそうだ。

アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました
/斉藤斎藤

この歌では、短歌にするということが、複数の語り手のなかから真なる語りとしての〈私〉を決めるレースであるという気づきが裏がえしに適用されている。言うまでもなく、斉藤のこの歌は、短歌にしたことによって語られた〈私〉が本心として解釈されるという、この文芸の備える機能を逆手にとった皮肉である。

短歌「にする」という言語行為

すごく後知恵っぽいのだけれど、実際、鈴木は次のようなことをつぶやいているし、たぶん似たようなニュアンスのことを受賞に寄せたコメントのなかでも述べている。

「短歌を書くときにそれによって再定義される自己認識がある」というのはつまりその通りで、私たちは認識した真実を短歌にしているのではなくて、短歌にすることが〈わたし〉の認識を真実として決定づけるのである。別の方のツイートだけれど、あるいは次のような言い方をしてもよい。

この人は、短歌において〈私〉を決定づけし続けることが歴史性をそなえた私性である〈自分〉の「あるべき有り様」だという言い方をする。それが本当にそう「あるべき」ものなのかは短歌に対する個人の信仰によるところだろうけれど、少なくとも慣習のうえでは、短歌という文芸は語られたことを他ならない語り手自身による真なる語りとして決定づける言語行為として機能しているように見える。また、立場にもよるだろうけれども、その語り手という存在はその語りを世に送り出した生身の人間である作者と同一視されることが多い。

これは憶測だが、短歌という文芸がこういった機能を果たしうる言語行為である意義を重く見ている人ほど、短歌でフィクションを描くということについて慎重な立場になりやすいのではないだろうか。イメージとして、結婚式における「誓いのことば」のようなものを想像してみるとよい。それを語ることが語られたことを真実にするというのは、愛を誓いますかという問いに対して「誓います」と宣誓するそのことが、まさしくパフォーマティヴに、そのことばを真なる語りにするという状況とよく似ている。そういう慣習のある場にフィクションの語りを持ちこむということが、慣習の果たす機能を破壊してしまうだろうことは容易に想像できるだろう。「誓います」とは答えたけれど、あれはいわばフィクションであり、この〈わたし〉の本心から出たことばではなかったのだから実際には何も誓ってはいませんなどと言えてしまう世界では、何かを誓うという営みのもつ効力は無化されてしまう。それと同じ理屈で、短歌という文芸として語ることが語りを真なる語りにするという機能は、短歌に但し書きなしでフィクションが描かれるのがふつうになるとおそらく失われてしまうのである。

短歌するという選択

短歌にすることが〈私〉の立ち位置から見える(〈私〉自身を含む)世界のあり方を真実として決定づけるという点について、ほとんど執拗なほどに自覚的な描写を繰り返しているのが、第二回笹井宏之賞の受賞作でいくと、乾遥香「ありとあらゆる」だろう(以下、乾の短歌の引用は『短歌ムック ねむらない樹 vol.4』による)。

幽霊を見たことがない 幽霊を見たことがある人がいるのに
/乾遥香

この連作では、たぶんほとんど全部の短歌において、実際には真実として決定づけられなかった線における、もしかしたらありえたかもしれない可能性の世界が幻視されている(というか、そういうものとして読んだほうがおもしろいような気がする)。

あなたにはあなたの世界と言われてるわたしを酔わせないレモンティー
/乾遥香

したがって、たとえばここで描かれる「わたしを酔わせないレモンティー」もおそらく反実仮想であり、まなざされているのはむしろその不在だろう。

観覧車に乗らなかったらあの歌がわたしのものになると思ったんです
/乾遥香

個人的な感想として、この歌が「リアリティの重心」で話題になった吉川宏志の例の歌の変奏のような構造をしているのはなかなかおもしろいと思う。結局のところ、この〈わたし〉はそれでも観覧車に乗った〈わたし〉なのか、それともだから乗らなかった〈わたし〉なのか。しかしいずれにせよ、「あの歌」における〈私〉とは語られたことこそを真実として決定づけるというレトリックが見せる幻である。真実として決定づけられているのは「あの歌」における〈私〉ではなく、他ならないこの歌に描かれているように「あの歌」を「わたしのもの」にできなかった線における〈私〉だ。

ところで、いま私は、ありえたかもしれない可能性としての〈私〉について「語られたことこそを真実として決定づけるというレトリックが見せる幻」だという言い方をしたのだが、実際、ありえたかもしれない可能性というのは可能性という言い方をしてはいるものの、未来に開かれているものではない。可能世界論みたいな話だと、(たぶん)いまここの世界からその世界まで到達可能であるような事態について「たしかに起こりうる可能性がある」みたいな言い方をするのだろうが、ありえたかもしれない可能性というのはすでにどうしようもなく過去であり、私たちの生きる時間の進行のしかたが不可逆である以上、これから実際に起こりうる可能性は微塵もない。

私たちは短歌における個々の表現の「選択」について、しばしばその交換可能・不可能性ということを考える。

夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね
/五島諭

この佐々木朔による評論は『緑の祠』から引いた五島の歌の下句について「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」があるという持って回ったような言い方をするのだが、はたして「交換可能に見える」とはいったいどういうことなのだろうか。それらのありえたかもしれない可能な表現というのは、他ならないそのような表現が真実として「選択」されたという事実の見せる、無数の幻のようなものではなかったか。あるいはすなわち、私たちが実際に真実として語りだされた以外の〈私〉を引き受けることがありえたかもしれないという他行為可能性とは、本当に〈私〉をそのように語りだしてしまう以前から未来における可能性として開けていたものだったのか。

身も蓋もないことをいうと、私自身はいま、それは違うのではないかと考えている。つまり、真実として「選択」するというそのことが、ありえたかもしれない可能性を「選択」されなかった無数の過去として浮かび上がらせるのであって、何かを短歌にするということは実際にはしばしばはじめからそれしかないような選択肢を主体的に「選択」したものとして引き受けていくような行為なのではないか。

また会ってもらうと決めてたこやきを食べるとたこやきは無くなった
/乾遥香

この歌で「また会ってもらう」と決めることは「たこやきを食べる」ことと重ね合わされている。たこやきは食べるとなくなる。だから、「また会ってもらう」と心に決めたことは、たこやきが残されていたかもしれない無数の過去を立ち上がらせる。

斉藤は「私の当事者は私だけ、しかし」でどこまで〈わたし〉が〈私〉の当事者でありうるのかを問うたというが、たとえ〈わたし〉が〈私〉の当事者でないような地点においても、私たちはこうして何かを短歌にすることができる。そして、むしろそういう地点においてこそ、それを主体的に「選択」したものとして引き受けていくことの価値が示されるように思う。

追記

乾の「観覧車」の歌の解釈についてTwitterでアンケートをとった。

以下、この歌の解釈についての個人的な見解。なお、書いている当人も混乱して書き間違えているが、「それでも乗らなかった」という部分は「それでも乗った」が正しい。

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