誰かの中で生きている
今月は記録的な暑さに振り回された北海道。秋風吹いた今日、ようやく下書きの氷漬けを解凍。記録を延命、古くなり再生に不具合が生じやすくなってきた記憶を補助装置にバックアップ。踊らされながらも一石二鳥。今月頭のこと。
「明日ライブがあるんだけど、どう?」
昨日の今日、蘭越へ行くことになった。片道2時間半。
なんだか似たような事が前にもあった。10年ほど前の沼津行きだ。
深夜の飲みの席。「明後日ライブがあるんだけど、伝説に残る夜になる気がするんだよね…来ちゃえば?(日を跨いでいるから実質明日)」
誘われた個人事業主の我々ふたり。僕はちょうど定休日、もうひとりはスタッフに任せられる。
彼は畳み掛けるように言い放った。
「熱だよ。熱。大事なのは、熱で動く事だよ。」
直線距離100km、高速道路で1時間半くらい。
当時の距離感覚では「ふらり」と行ける距離ではなかったが、お尻に火をつけて東京を飛び出した。
打ち上げが終わり、深夜3時頃に沼津を出て、眠気の限界を超えてヘトヘトで日の出の東京に辿り着いたのは、今も色褪せない思い出だ。
これから行く蘭越は峠を超しつつの160km、約3時間。今の距離感覚ではちょっと気合を入れる必要はあるけれど、お尻に火をつけるほどではない「ふらり」。
あっさりと行くことを決めたのは距離感覚のおかげではない。
「熱だよ」
あの夜以来。目の前に天秤が現れた時、いつも瞼の裏に彼が出てくるようになってしまった。
あの頃ギュッと数回会っただけ。それ以来会っていないし、会うこともなさそうだけれど、私の中でいつも生きている。
さて、あれから1週間。日を跨ぎ1時頃に帰ってきた。
力尽き、でも、満たされてベットに倒れ込む。疲れてぼんやりとした頭にはっきりと響くあの声「やっぱり、熱だろ」
幾度となく(勝手に)聞いてきたこの言葉、煮え切らない人の背中を押す時に使わせてもらっている
あの人が死んでも、私の中で生きている。
私が死んでも、きっと誰かの中で生きていく。
そして、またその先も。
" 誰かのなかで生きる "
ありふれたような一文だけど、ある人の特別な長文が詰まっている。あの日目にして以来、私の中で生きている。
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