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『嫌われた監督』に引き込まれた人の感想文

落合博満。現役時代には史上唯一となる3度の三冠王に輝き、監督時代には8年間で4度のリーグ優勝、1度の日本一を成し遂げ、野球殿堂にもその名が刻まれている男。野球を愛する人であれば、誰もが手放しで賞賛するような実績を誇っている。しかし、落合に対する世間の評価は、賛否両論だ。それはひとえに、落合博満という男は謎多き人物だからである。「オレ流」とも言われる独自の道を貫き、常に表情を変えず、周囲に何かを発することもない。冷徹、不気味、異質ー落合に対してつきまとう言葉の多くはこのようなものだ。そんな落合について描かれた本が、この『嫌われた監督』である。あの不気味なまでに強かった中日ドラゴンズの、そんなチームを作り率いていた落合のリアルを一プロ野球ファンとして知りたくて、私はこの本を手に取った。

文章は、落合に人生を変えられた12人の「キーマン」の視点と、落合を取材し続けた記者で本書の筆者でもある鈴木氏の視点とを、互いに少しずつ動かしながら進んでゆく。彼らの視点を介して、落合という人物の実像を、当時の中日ドラゴンズという球団の変化を追うという構成である。
本書で取り上げられた12人の「キーマン」は、立場も年齢もバラバラだ。選手もいれば、コーチやフロントもいる。日本人もいれば、外国人もいる。落合に育て上げられた選手もいれば、落合に終わりを告げられた選手もいる。ただ一つ、共通している点は、「落合に運命を変えられた」ことだ。ここからは、その「キーマン」を中心に、本書について掘り下げることにする。

「キーマン」の1人目は、川崎憲次郎だ。川崎は、ヤクルトでエースとして活躍し、高額契約で中日に移籍。だが、移籍直後に投手としては致命的な右肩の故障を患い、3年間一軍のマウンドから遠ざかっていた。どんな手を尽くしても肩は癒えず、暗闇でもがく男に、監督就任から間もない落合は衝撃の一言を告げる。「開幕投手はお前で行く」。なぜ落合は、他にエース級の投手もいる中で、川崎を自身の監督人生最初の投手に選んだのか。その答えに辿り着いたとき、本来は有り得ない選択も正解に見えてくる。開幕戦の戦い方はその一年をどのように戦うかを周囲に示すある種の所信表明だと私は考えているが、この選択はまさにそれに当てはまるのではないだろうか。
「キーマン」の2人目は、森野将彦。練習では目を引くような打球を放ちながらも、試合になると活躍できずベンチを温めていた森野に、落合は球団のレジェンドである立浪の聖域を侵させる。なぜ落合は、卓越した打撃技術を持ち圧倒的なリーダーシップを誇っていた立浪を、周囲から批判されることを承知で外したのか。落合はどのようにして、森野をレギュラーへと変貌させたのか。落合を名将たらしめた観察眼の高さと、プロ野球では避けては通れない「世代交代」のリアルが描かれる。辛いのはレギュラーを奪われる側の人間だけではない、そのような視点を持ってプロ野球を見ると、レギュラー争いへの見方も変わりそうだ。
3人目は、福留孝介。当時の最強打者であった福留と、かつての最強打者であった落合は、どのような野球観、人生観を持っていたのか。その共通点と相違点、そして二人の関係が描かれる。一流をも越えたものにしかわからない境地が、本という舞台で展開されていく。「一流ってのはな、シンプルなんだ」—これはどんな世界でも当てはまるかもしれない。
4人目は、宇野勝。現役時代は強打で鳴らした、落合監督時代の打撃コーチだ。落合中日といえば極端なまでに守りを重視した野球を展開していたが、その裏で打撃コーチがどのような思いであったかを知ることができる。そして、現役時代は最強の打者だった落合がなぜ監督時代にはそれほど守りにこだわったのかも見えてくる。
5人目は、岡本真也。当時セットアッパーとしてリリーフを支えていた岡本を通して描かれるのは、落合が最も世間を揺るがしたといっても過言ではない、「日本シリーズ完全試合継投」だ。王手をかけた2007年の日本シリーズ第5戦、落合は、わずか1点のリードを背に8回まで一人のランナーも許さない完全投球をしていた山井をマウンドから降ろすという、普通に考えると絶対に有り得ない采配を振るう。なぜ落合は、そんな采配をしたのか。その背景を知ってからもう一度、その試合の映像を見返すと、かつて見たときとは心なしか違って見えた。
6人目は、中田宗男。当時のスカウト部長である。落合に対する批判としてしばしば見受けられるのが「若手育成をあまりしなかった」という点だが、そこについて切り込んでいく。今勝つための戦力が欲しい現場と、将来的に大成しそうな素材が欲しいスカウト。現場は勝たなければ首が飛ぶため、そのように考えるようになるのは致し方ないのだが、球団はその先もずっと続いていくため、そのバランスをとることがどれほど難しいことか考えさせられる。
7人目は、吉見一起。落合監督の下で柱へと成長した投手だ。「今は十勝したらすぐエースって言われるだろう。エースってそんなもんじゃないよ」ーそう語る落合は、どのように投手を評価していたのか。エースとはそう簡単に与えられる称号ではないと考える私は、頷きながら本章を読み進めた。
8人目は、和田一浩。西武から移籍してきた遅咲きの強打者は、実際に落合の下で野球をする中で、落合野球をどのように感じたのか。そしてなぜ、和田は38歳にして打率.339、37本塁打という驚異的な成績を残せたのか。落合から「レギュラー確約」を言い渡されていた和田だからこその苦悩には、プロの厳しさを感じた。
9人目は、小林正人。クビを覚悟していた左腕を、落合はある一言で変貌させる。そして小林は落合政権において、トランプにおける「2」のように、特定の場面のみ最強のカードとなる。やはりワンポイントリリーフはプロの世界には欠かせない、私は改めてそう感じた。
10人目は、井手峻。当時の中日の取締役編成担当だ。球団の戦力補強に関わるトップの人間にあたる。そんな井手は、能力があるにも関わらず、全てを落合に任せていた。周囲に何を言われても、「落合に任せておけば大丈夫です」と答えていた。なぜ井手は、それほどまでに落合を信用していたのか。その背景には、落合がかつておこしたある事件が関係していた。
11人目は、トニ・ブランコ。圧倒的な打棒で落合中日を支えてきた大砲ウッズの抜けた穴を埋める代役として、2009年に獲得された外国人打者だ。しかし、開幕前から不安が目立ち、ブランコ本人も自信を失いかけていた。そんなブランコに、落合はたった一つの声掛けとアドバイスをする。いきなり二冠を獲得した最強助っ人を生み出した落合の一言が明かされる。私は、本章を読んでいて、外国人選手の難しさを改めて感じた。国内間の移籍が少ない日本では、どうしても外国人選手がペナントの大きなカギとなるが、だからこそ周囲の接し方やモチベーションの保たせ方などがかなり重要になるのではないかと思った。
最後の「キーマン」は、荒木雅博。同僚でショートの井端弘和とともに「アライバコンビ」を結成していた、セカンド守備の名手である。そんな誰しもが認めていたセカンドを、落合は突如ショートへとコンバートする。この「アライバの入れ替え」はなぜ行われたのか。そこには、本人すらも気づかない、またしても落合のみが気づいた「ある変化」があった。セカンドで築き上げたものをショートでほとんど失った荒木が、それでも失いたくなかったものとは何か。一見どこからどうみても「有り得ない」ことの裏に、きちんと意図がある。語られないが、理由がある。最後まで「落合らしさ」を感じるエピソードである。

面白いのは、上記の12人に筆者を加えた13人やその他大勢の人物、そして中日ドラゴンズという球団までもが、落合によって人生や歴史を変えられている点だ。しかも、落合本人は全然変わらないのにも関わらず。また、読み進めていると、何度も同じような言葉や表現が出てくる。それによって落合の考え方や価値観が我々読者の印象にも残りやすくなっているのだが、同時に落合という人物がいかに確固たる考えを持っているかの証明でもあるだろう。

ここまで語っておいて今更だが、私は落合の野球は好きではない。もちろん、阪神ファンである私にとって、落合はライバルの一つである中日を強くした張本人なのだから当然ではあるのだが、仮に阪神の監督になるといっても、私は否定の側に立つだろう。野球は点取りゲームであり、仮に点を失っても点を取れば解決すると私は考えており、極端に守りを重視する落合野球は性に合わないのである。しかし、本書を読み、なぜ落合がそれほどまでに守りを重視したのか、どのようにチームを強くしたのかを理解することができた。この考え方ややり方で、落合は野球を極めたのだ。『嫌われた監督』という本は、野球というスポーツで一つの「答え」に辿り着いた男を描いた一冊である。

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