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1万円札が渋沢栄一に。その意味は?

紙幣を刷新へ 1万円渋沢栄一、5000円津田梅子、1000円北里柴三郎

キャッシュレスの時代だというのに紙幣の刷新。おいおい、と思うかもしれない。ただ僕は、独自の文化をつくるためには、元号もそうだけどこういう非合理的な物事が重要だと考えている。むしろ、こういう遊びを楽しめる人間でありたい。

さて、紙幣というのは面白いもので、たった3つの枠しかない。つまりここに描かれる人は、日本史という表彰台に乗る人、つまり日本を代表する人だ。

だから描かれる人は基本的にみなさん素晴らしい偉人なのは間違いないが、個人的には近年の変遷が興味深い。

【1万円紙幣】
聖徳太子→ 福沢諭吉→ 渋沢栄一

【5000円紙幣】
新渡戸稲造→ 樋口一葉→ 津田梅子

【1000円紙幣】
夏目漱石→ 野口英世→ 北里柴三郎

流れをざっくりと読み解くならば、思想家から文学者へ、男性から女性へ、文学者から科学者へ、文学者から学校設立者へ、そして実業家へ。

歴史的な評価は遅れて付いてくるものだから、今の時代感覚とは時差があるけど、それでもこのトレンドは確実なものだと感じる。社会構想家から社会実現家へ。

そしてその姿も変わっていくだろう。いずれ文学者は漫画家になるかもしれないし、実業家だけではなくアスリートやアーティストになるかもしれない。科学者も医学からエンジニアリング、そして生物や宇宙分野などになるだろう。そして何より、1万円紙幣は女性になるに違いない。きっと国の主役はどんどん変わっていく。

こうやって職業を俯瞰してみると、その職の代表者は片手で数えられるくらいしかいないこと気づく。いないわけではなく、みんなのイメージとして残れるのが5人くらいだということだ。例えば、国民的なサッカー選手、国民的な漫画家って考えても、そのくらいしか思い浮かばない。そして、彼らは大体そのジャンルにおける開拓者だ。みな道なき道を歩みきったことで、代表的イメージとなり社会的な信用を得た。

そう考えると、ある種の後発者である僕らは、もうイメージの仕上がった職業で同じように戦ってる限り、日本代表にはなれない。まだ誰も目を向けてないジャンルや職業をやっていることは、(それがまだ世間からまともな仕事だと認知されてなくても)可能性に満ちた誇らしいことだ。僕は紙幣を見るたびに、そんな物語を感じ、勝手に生きる勇気をモチベートされている。