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フリーランスになるきっかけ はじめての仕事

フリーランス・デザイナーの井上新八です。

今回はフリーランスになるきっかけになった
最初の仕事について書いてみます。

バブル崩壊後、就職氷河期の大学4年生が小さな一歩を踏み出す話。

何年か前に「スティーブ・ジョブズ」(2013年)
という映画を見てあることを思い出した。

同じタイトルの映画が2本あるけど、アシュトン・カッチャーが出ている方。
スティーブ・ジョブズが自宅のガレージをオフィスにして、
アップルを設立して巨大企業にしていく映画。

この映画を見て感じたのは、
振り回してくれる人の存在って重要だってことだった。
「0」を「1」にする人の重要性
始めに旗を立てる人の存在というか、
何もないところに波風を立てる能力を持った人の存在だ。

始まってしまうと周囲をかき回して、
ただのやっかいな人になるのだけど、
それでも強烈なビジョンを持ち続けて揺るがない人
スティーブ・ジョブズはまさにそういう人だ。

一緒にアップルを立ち上げたスティーブ・ウォズニアックは、
もちろん天才ではあるけど、ジョブズが旗を立てなければ、
何も始まらなかった。
そういう人に人生で出会えるかどうか、
それが大きく人生を左右するなと思った。

それで学生時代のひとつの出会いが、
実は人生ですごく重要なことだったんじゃないかと、
ある人との出会いを強烈に思い出した。

忘れていたわけではないのだけど、
ものすごく意味があることだったんじゃないかと改めて思い直した。

アップル創設のような大きな話ではなくて、
本当にショボい話なんだけど、
名刺を作ったことではじまった小さな出来事。
何かをやろうと旗を立てる人との出会いだった。

学生時代に苦し紛れに作った
「映像作家 井上新八」という名刺。
何も作ったことのない映像作家。
自分で考えても意味が分からない。
案の定、ほとんど誰からも相手にされなかった。
当たり前だ。

でもその中で、真面目に話を聞いてくれる人がいた。
バイト先で働いていた5つ年上の人だ。

ぼくは大学時代の4年間、児童施設でバイトをしていた。
児童施設で夜の間、子供たちの面倒を見る仕事。
夕方に行って、朝学校が始まる前に仕事が終わる。
夜間指導員という職名だった。
彼はぼくが大学4年になる頃に入ってきた職員だった。

彼のことは“エンボス”くんと呼んでいた。
実家が印刷のエンボス加工業をやってると聞いたので
そうあだ名をつけて呼んでいた。
見た目が猿っぽくて、子供たちにも人気があって、
お山の大将的な雰囲気があったので、
「猿大将」と書いて“エンボス”という当て字にしていた。

夜間のバイトだったので、
夜は職員と2人で泊まることになる。
そこで夜な夜な彼と話をしていて、
就職を諦めたこと、
映像の仕事をしようと思っていること、
まずは名刺を作ってみたこと、
何ともつかない話をしていた。

「そうか〜、しんぱちくんは映像の仕事をやりたいのか〜、
それはちょうどよかった〜」

確か、そんなノリで始まったのだと思う。

何がちょうどよかったのか。

彼は働きながら心理カウンセリングの勉強をしていて、
大学の有名な先生のもとでワークショップをしたり
熱心に活動していたのだけど、
支持している先生のメソッドを
ビデオ教材として商品にできないか考えていたらしい。

「映像作れるなら一緒にやらない?」

正直、なんだかよくわかならない話ではあった。

福祉にもそれほど興味がなかったし、
教材ビデオなんて作りたいものでも何でもなかった。

ただ目をきらきらさせて、
何かしようと本気で語りかけてきた。

何もないところに、旗が立った気がした。

他にやることも何もなかったので、
ものすごく軽いノリで、やってみましょうか?!
って返事した。

こうしてぼくにとっての初めての仕事が始まった。

なんだかよくわからないけど、
家にVHSのビデオカメラは持ってるし、
これでビデオ撮って作ればどうにかなるだろうか?
細かいことはエンボスくんがやってくれるんだろう、
そんな軽い気持ちで考えていた。

作る教材の内容は福祉業界において、
職員が職員に対して行う
面接やカウンセリングの指導法のようなもので、
「スーパービジョン」と呼ばれるものだった。

先生と話をするために大学を訪問した。

臨床心理の研究者でテレビにも出ていたりする先生。
ものすごく緊張していた。
テレビに出てるってだけで、
もうレベルの違う人のように感じた。

軽い気持ちでやるって言っちゃったけど、
なんだか本気で動きはじめてしまったことに恐怖を感じた。
「映像作家」なんて名刺を渡しちゃったけど、
何も作ったことないし、
何ができるかわかりません
とはとても言えなかった。

こりゃ、やばいな…
ちらっと、エンボス君を見ると
純真な目で熱心に先生の話を聞き込んでいた。

そしてこちらを見て満面の笑みを浮かべて言った。
「よし!じゃ、あとはよろしく!」

え!? 何、よろしくって何?
ほとんど丸投げだった。

「スーパービジョン」
まるでスーパーパワーか何かの名前みたいだけど、
中身はそれほど複雑でも超絶的でもない。
福祉の現場で困ったことがあった時に、
それが具体的に「どんな困った」ことだったのか、
「何に困っているのか」などを、
職員同士で話しながらケアしていく、
要するに面接法だ。

教材ビデオか〜。
でも面接を撮ればいいんでしょう。
できそうな気もするし、う〜ん。
考えてもどうなるかわからないし、
とりあえずやってみるしかない。

撮影してみることにした。
撮影用のワークショップを開いてもらい
自前のカメラを持っていってそれを撮影した。

どうしていいかわからず、
ただあせりまくっているぼくの横で、
なぜかエンボス君はやりきった感のある自信満々の顔だった。
「もうできちゃった」くらいの余裕のある顔だ。

これからどう作るか相談しても
大したアドバイスがもらえないことが何となくわかったので、
まずは自分でできることを全力でやってみようと思った。

撮ってきた映像をビデオカメラとビデオデッキをつないで編集してみた。
今のようにパソコンで編集できたりはしないし、
撮影した機材もショボい画質のホームビデオの映像だ。
一応マイクもつけていたけど音もきちんと拾えてない。
うすうす、これはダメだなと思ったのだけど、
ビデオ画面に文字を書き込める機械を買ってきて、
テロップを入れたりタイトルをいれたりして、
自分なりにできる限りのものを作ってみた。

できた!
とりあえず、できた!
確かにできた!のだけど、
出てきたのは冷や汗だけだった。

これは、とても人にお見せできるようなものではない。
ましてやこれを売るなんて。

ワークショップまで開いてもらって、
時間も人も使って…
どうしよう。

真っ青になりながらエンボスくんのところへ行った。
「わーーこれはひどいね、やめようか」
そんな言葉を言われて、終わりになるかと思った。
内心はそうなることを少し期待していた。
結局何もできないで終わり。ま、そんなもんだ。

けど意外な言葉が返ってきた。

「いいね!これで何が必要か分かったから、
これを元にちゃんとしたのを作ろう」

そういう返事だった。

話し合った結論としては、
商品にするために映像はプロに頼む
ただ自分たちには予算がないから、
販売してくれる会社を探して予算を出してもらう
そのために企画書を作ってプレゼンをする。
今回作ったビデオはプレゼン用の資料にする。
そういうことだった。

はじめからこうするつもりだったのかはわからない。
とにかく大きく話しは変わっていた。
ただ、やることが明確になったのは確かだ。

やることが決まれば、あとはそれをやるだけだ。
そこからは細いツテをたどって、人に会う作業が始まった。

人づてで紹介してもらった映像プロダクションに行って、
教材ビデオを撮影するためには何が必要で、
いくらお金がかかるのかヒアリングしつつ、
実際請け負ってくれるか交渉した。

これがけっこう安くない。思っていたよりも高い…。
値引いてもらってもやっぱりそれなりにする。
当時は機材も高かったし、
編集もスタジオを借りてやらないといけない
当然と言えば当然だけど、予算がかかることがわかった。

それと映像だけでは教材として不足するので、
テキストブックもつけることになった。
これも今みたいに簡単に作れるものではなかった。

予算はけっこうかかる、それをどこに出してもらうか。
教育商材を作っているところに持ちこむのが一番早いのではないか。

また細いツテをたどって話を聞いてくれる会社を見つけた。
ちょうど福祉ビジネスに興味がある会社だった。
その会社に企画を持ちこむために
生まれて初めて「企画書」というものを作った。

企画書の書き方についても分からなかったので、
何をどう書いたらいいか、
以前編プロで企画を作っていた母親にヒアリングして書いた。
「企画概要」「見積もり」「販売方法」「採算ライン」など、
今までの人生で一度も使ったことなかった単語を駆使した。

その間、エンボス君はほとんど何もしていなかったのだけど、
彼の力はプレゼンで発揮された。

とにかく語りがうまいのだ。
この教育商材がどれほど価値があるのか、
このメソッドが広がることでどれだけの福祉の現場が救われるのか、
その会社と福祉ビジネスの展望についてなどの話しも盛り込みつつ、
熱っぽくしゃべるのだ。
何となく周囲を巻き込んでしまう、協力したくなるようなオーラがあった。

そして映像プロダクションと教育商材の会社を巻き込む形で、
いや、委託する形で商品制作が始まった。

始まってしまえばあとはプロたちの仕事。
こちらでできるのは撮影場所を確保したり、小物を揃えたり、
撮影や編集の経費を抑えるために雑用を手伝うことくらいだった。
そしてソフトはできあがった。
「堀之内高久 実践福祉スーパービジョン」
ぼくの名前は企画としてクレジットされた。

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当初、ビデオを撮って編集すればいいんでしょう?
っていう軽い考えから大きく変わって、
プロダクションを探したり、
企画書を書いたり、
予算を見積もったり、
プレゼンしたり、
撮影場所を探したり、
雑用係をかってでたり、
当初考えていたこととはまったく違うところに転がってしまったけど、
商品づくりのはじまりから終わりまでをまるっと体験する
ジェットコースターのような仕事体験になった。

これが名刺を作ったことで踏み出した二歩目。
はじめての仕事だった。

旗を立てる人と出会って、思う存分かき回された。
当時は「こいつ口ばっかりで、何もしないじゃん」
って思うこともあったけど、
この出会いがすごく大きいものだったと今になって思う。

そしてこのエンボス君とはじめた別の活動がきっかけで、
ぼくは初めてデザインというものに触れることになる。

<つづきのはなし>

<前回のはなし>





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