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【短編小説】カレンダーが赤い日に@3000文字チャレンジ

「エビの尻尾って、先の部分を落とさなきゃいけないんだよ」

 油が跳ねちゃうから。得意げに言ったわりには危うげな手つきで、咲幸(さゆき)は尻尾の先端を切り取っていく。俺はふうんと頷き、親指ほどあるエビの背につまようじを突き刺した。

「全部切っちまえよ、面倒くせえな」
「えー、しっぽも食べるでしょ?」
「食わねえよ。そんなゴキブリの羽と同じところ」
 咲幸はむっと口を曲げ、おそらく人類最凶の敵を擁護し始めた。
「美味しければゴキちゃんだっていいもん」

 それは良くないだろう。とはいえ初めて彼女の家で振る舞われる手料理だ。うっかりすると俺も妙な節足動物を口にしかねない気分なのは、否定できなかった。

 むくれた咲幸の頬は血色が良すぎて、風呂上がりにも見える。ウェーブがかった髪は肩にも届かないのに無理やり括ったせいか、あちこちに遅れ毛が飛び出している。そのどれもが汗ばんだ首筋に貼りつき、ときどき鬱陶しそうに肩で拭った。

 およそ風通しは最悪といえる、窓のないダイニングキッチン。そのうえ油など使い始めたら、どれほど気温は上がるのか。
 リサイクルショップで買ったという扇風機が気だるげに首を回しているが、火事場をうちわであおぐようだった。

 今さらだが、エビフライはないだろう。
 数時間前の自分を叱る。それこそゴキブリとでも言っておけばよかったのだ、という冗談はさておき、例えば素麺だとか。しかし俺はどこまでも欲望に忠実で、咲幸もそれを知っているから「失敗しても食べてよ」と頷いたに違いない。

「なあ、そっちと変わってくれよ。このままだとエビが二度死にしそうだ」
「え? もー。健一くんはぶきっちょなんだから」

 握りつぶされたはんぺんのようになったエビの山を見て、咲幸が俺からつまようじを奪った。大学生になり二ヶ月半。すでに自炊は諦めた俺だ。

 受け取った包丁で、容赦なくエビの尻尾を切り落とす。俺に代わって背ワタを取り出す咲幸の手つきはよどみない。

「なんか慣れてるな」
「これはウチで手伝わされたもんでねえ」

 山間の、小さな民宿が彼女の実家だった。

「あんたは包丁を使わないことだけやってろーって」
「料理も出してたのか、家」
「そう、母さんの希望でね。母さん、昔は料理人だったから結構好評なんだよ? でもねえ、あたししょっちゅう怒られとったなあ。こういうのは妹の方が上手なの」

 てへへ、とお馴染みのだらしない笑みを漏らす。
「あたしよりも足早いし、頭賢いし、落ち着いてるし。姉としてのイゲンってものがないねえ……」
「小学生だよな? 妹」

 たんぽぽの綿毛のような姉を、年の離れた妹はきっと好いているのだろう。家族の話をする咲幸の目を見ると、そう思わずにはいられなかった。俺はおそらく、自身の妹たちを語るときに同じ目はできない。
 少しだけ無遠慮で砕けていて、けれど手が届く範囲にあるものをしっかりと握り締めていようとする光が宿る。

 いつか、この瞳で誰かに俺を語る日がくるのだろうか。勝手な妄想は鼻をむず痒くさせた。すると今、ふたり並んで立っている時間も、遠くはない未来を覗きにきたような錯覚を起こしてしまう。

 幸福な想像は痛みだ。
 心臓を掴まれたような苦しさと、暮れていく町並みたいな切なさが混ざり、どことなく甘い。

「なあ、咲幸」
 行き場のない気持ちを飲み込んで、つま先で咲幸のふくらはぎを突いた。
「ん? なあに」

 振り向く咲幸に合わせて、ポニーテールがぴょこりと揺れる。

「……結婚しようか」

 ふと口をついた言葉は流星で、一瞬の輝きのあと、まばたきをしたら跡形もなく消えていた。エビを握りながら言うことじゃねえだろ、と呆れる。前髪なんて、咲幸から借りたピン留でちょんまげになっているのだ。

 咲幸は咲幸で、驚いた拍子にエビを真っ二つにちぎってしまっていた。それも縦にだ。何をしたらそうなる。

 古びた換気扇が甲高い音を立て、それがまた四畳半の空間にやたらと響く。哀れっぽい鳴き声が俺を嘲笑っているようだった。
 ガラガラキーキー、ガラガラキーキー。
 俺の心を読んだのか、背伸びをした咲幸が無言で換気扇を止める。そんなところより今の心情が伝わって欲しかったけれど、どうやら望み薄らしい。

「簡単に言ったらいけんよ」

 まな板を見つめて発せられた声は、少し掠れていた。さっきまでの砂糖菓子のような甘さは控えた、涼しさの混じる声。

「健一くん、大学はどうするの。あたしだって今の仕事、契約更新できるかわからんし」

 明日が来たら俺たちの間には三百キロの距離が横たわり、俺は彼女のいない街で、彼女のいない大学へ通う。途端自分の発言が子どもじみていたことに気づかされ、「今すぐにじゃねえし」と誤魔化した。

 咲幸は俺よりずっと勉強はできなかったが、生真面目で、本当は俺なんかより地に足を着けて生きている。

「でもねえ」

 俺がふてくされたと思ったのか、咲幸は向き直る。

「うれしい。……うん、うれしいよ。いつかそうなれたらって、あたしも思っとるよ?」

 どんぐり眼が三日月になると、長いまつ毛がそっと降りた。さっきよりも上気した頬。厚ぼったい唇から、小さな八重歯が覗く。

「だでね、もっと大人になったら、もう一度言ってほしいな」
「……お、おう」

 エビと包丁で両手が塞がっていなければ、俺は腕の中に咲幸を入れていた。サイズの合っていないTシャツが貼りつく肉付きのよい身体を堪能して、そのまま押し倒してしまってもいい。
 生臭い台所の剥げたフローリングでも、俺は彼女を抱ける。

 俺の気など知らない咲幸は、水の張ったボウルに手を入れ、人さし指を回していた。すいすいと中をエビが泳ぐ。彼女は照れくさくなると、手遊びに逃げる癖があった。耳たぶは火を通したエビと同じ色。

 俺はそんな赤や、水中でくるりと輪を描く黒を見つめながら、ふと春に実家で見つけた卒業文集のことを思い出していた。

 どうやら俺は昔、ビッグになりたかったようだ。十二歳の俺が考えたビッグとは『NBAプレイヤー』を指すらしい。あの頃のヒーローは田臥(たぶせ)で、彼に次ぐ者になる予定だった。

 けれど中体連の地方予選で負けた十五歳の俺は、そんな夢を投げ捨ててありふれた成功者になりたいと等式を書き換えた。進学校から有名大学へ進学し、大企業に入る。芝生が敷かれた庭付きの家に、ガレージには星のエンブレムがついた外車。狭苦しい文化住宅で育ったがゆえの、俗的な裕福層への憧れだった。

 そして十九歳の今。
 NBAプレイヤーも金持ちも、俺の中では色褪せている。

 俺の将来は月並みでいい。特別でなくてもいい。

 何年後か、俺は同じ言葉を彼女に告げるのだろう。今度はままごとみたいなものではなく、今よりもずっと度胸がいるのかもしれない。
 面倒な手続きに辟易し、思いやりと呼べる心が薄らいでしまったらどうしようか。少しだけ憂鬱になる俺は、下らない質問で紛らわせる。

「なあ、咲幸はどんな家に住みたい?」
「へ、家? 窓がある家、かなあ」
「いや、もっとあるだろ。他に」

 やがて家を買ってもいい。思い出の残る田舎町に、ありふれた一軒家。芝生やガレージはなくても、窓はある。
 ローンやべえと嘆く俺は、建ち上がっていく家に幾度も足を運んでは、仕方ねえなと呟くのだ。雨のたびに家は大丈夫かと騒ぐ俺に、「健一くんは心配性だねえ」と咲幸は間延びた声を出す。

 俺たちは、週末に近所の公園やイオンモールをふらつく家族になる。掃いて捨てるほどいる世界の一部になるのだと思う。そんな毎日は期待するほど心躍るものではなく、日々は河原の土手を歩くような退屈さで流れるのかもしれない。

 しかしどことない、愛おしさがあった。

 バスケ選手にはなれなくてもいい。卒業文集に綴った夢は夢のまま終わらせていい。十五の俺は嘲笑するかもしれないが、今日の延長線上に彼女との生活が築けたら、俺は世界で一番幸福な男になれそうだ。

 湘南乃風も赤面して逃げ出す心の内を飲み込んで、隣を覗き見た。
 咲幸の意識はもうエビに戻っていて、透き通った内蔵をゆっくり引っ張っている。彼女は集中すると唇が少し捲れ、それがまたアホ面を助長していて、俺は好きだ。

「俺、頑張るから。咲幸を幸せにするために」

 恐ろしい重力を発揮する男になる俺に目を向け、咲幸は三秒ほど小さく唸る。

「じゃあ、あたしは健一くんのために何をすればいいかなあ」

 厚い唇をへの字に、左右の眉を上下に。教師から指名をされた時と同じ変顔をする。この顔をした咲幸が、まともな回答にたどり着いたことがあっただろうか。
 呆れる前に俺は教えてあげようと思う。いつだってノートの隅に答えを書いて合図した、高校時代(あのころ)のように。

「咲幸はずっと俺のことを好きでいてくれればいいよ」
「なにそれ。あたしの方が簡単で、ずっこいねえ」

 にんまりと笑い、咲幸は再び換気扇に手を伸ばす。ガラガラキーキー。変わらないはずの音は、もう生活の一部に戻っていた。

「あ! 健一くん、尻尾全部落としたでしょ」
 エビの貧相な姿に、ようやく気付いたらしい。

「ばれたか」
 踵で俺の脛を優しく蹴りながら、小さな手で尻尾をかき集めはじめる。

「もーいいよ、尻尾だけ揚げるから」
「意味わかんねえ料理だな」
「健一くんにはあげなーい」

 いらねえよ、の声を無視して咲幸は鼻歌交じりに冷蔵庫へ歩いていく。
 つまるところ俺が望むのは、こんな日々だった。
 彼女の声で微睡みが終わる、カレンダーが赤い日の朝。不恰好なエビフライが並ぶ食卓。油臭さが染みついた空気を吸って、少しだけ明日を憂いてみたりする夕暮れ。

 俺はそんな人生でいい。
 そんな人生が、俺はいい。

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昔書いた小説の一部を切り取って改変したものです。
彼女の家で夕飯を食べて、夜はコンビニでアイスでも買って、ゲオでDVDを借り、ベッドでいちゃいちゃするようなデート。
大学生は脳に海老噌かハッピーターンが詰まっていそうだからこういう思考回路だろう、という私の独断と偏見により書き上げました。

……でもまあ、結局この二人は半年後に別れるんですけどね。

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3000文字チャレンジ参加の文章です。

公式アカウント:(@challenge_3000
中の人・なかの氏:(@nakano3000
公式WEBサイト:http://3000moji.com/

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