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永久保存版!嵯峨天皇を満喫する京都旅

こんにちは、京都で宿屋をやっている下岡です。

読者諸兄は、「京都の天皇」と聞いて、真っ先に思い浮かべるのはどの方でしょうか?桓武天皇?後醍醐天皇?

新たな天皇陛下を奉じて迎える令和初のお正月。note書初めはこの人しかいない!と思って嵯峨天皇について書き出したのですが、その壮大なスケールでいつしか熟成下書きに。。

京都好きを語るなら、この人を避けては通れません。ぜひご一読あれ。

トップ写真:嵯峨天皇によって造られた大覚寺と大沢池。桜の名所でもあります。


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■ 俯瞰で見る嵯峨天皇の略歴

①父・桓武天皇からの期待と神野伝説

「鳴くよ(794)ウグイス平安京」は、歴史嫌いな方々でも耳に覚えのある年号の語呂合わせではないでしょうか?嵯峨天皇は、平安遷都を実行した桓武天皇の息子です。

嵯峨天皇には兄がおり、本来であれば天皇になる系統ではありませんでした。そんな彼が天皇の座に就いた理由は、主に2つ。①四国の石鎚山に暮らしていた高僧、寂仙が「私が死んだ28年後、神野と言う名で皇子として生まれ変わる」と遺言し、まさにその通りとなった(神野親王、後の嵯峨天皇)こと。②実際に神野が、利発で才気に溢れていた皇子であったこと。利発な子供の姿に神憑った出生伝説が加わって、父の桓武天皇は彼に天皇を継がせたいと考えたようです。

②兄・平城天皇との軋轢(薬子の変)

桓武天皇の期待を受けた神野親王ですが、彼には兄、平城天皇がいました。

桓武天皇の死後は、一旦は兄が平城天皇として即位します。しかし平城天皇は体が弱かったり、周囲に流されやすい性格だったようで、せっかく父が成し遂げた平安遷都と言う偉業をひっくり返して、再び奈良に遷都しようとします(その時既に、天皇の位は移行していて、平城「上皇」と嵯峨天皇になっていましたが、上皇も天皇並みの権力を有していたため、二重支配体制が政治的混乱を招いたようです)。

しかし嵯峨天皇の機敏な対応によって、奈良への再遷都は阻止、政治は安定します。政治不安を招いた兄・平城天皇は、政治の世界からは隔離されるものの刑罰を受けることはなく、その後も「太上天皇」として礼遇されます。政治犯にお咎めなしという前代未聞の寛大な処置ですが、平安時代が平安な時代となったのは、嵯峨天皇による兄への配慮、徳のおかげと言えるかもしれません。


■ 嵯峨天皇と仏教

①嵯峨天皇以前の仏教

そもそもですが、嵯峨天皇の父・桓武天皇が平安遷都を思い立ったのも、奈良で仏教が勢力を持ちすぎ、政治への介入が度を超えていたため。それを嫌って、京都内では遷都以前から存在していたものを除いて新たな寺院の建設が出来ないようなっていました。

天皇が桓武から嵯峨に代替わりし、国内政治が安定。特に、遣唐使船にて留学していた空海や最澄らが活躍し、これまでとは違った仏教文化が京都で発展します。

②空海と東寺、雨宝院

日本仏教の風雲児である空海については、また別の機会にnoteに綴ると思いますが、彼も嵯峨天皇と同じ時代を生きた人。空海は、上記「薬子の変」において嵯峨天皇の勝利を祈祷した縁などから、平安京内の数少ない官製寺院(国立大学のようなもの)である教王護国寺(東寺)を預かることになります。嵯峨天皇に般若心経の写経を勧めたり、嵯峨天皇の病気平癒を願って、現在の西陣にある雨宝院(もともとは嵯峨天皇の別荘だった)にて加持祈祷を行うなど、何かと縁が深い。

③檀林皇后

檀林皇后は、嵯峨天皇の妻。仏に仕える僧侶でさえも惑わすほどの美貌の持ち主だったといわれますが、彼女自身は惑わそうなどという意図は持たない、熱心な仏教徒でした。

自分自身の美貌もまた時間と共に失われるものだという仏教的な無常観の持ち主だったため、彼女は自分の死後、亡骸を野に晒すよう遺言しました。肉体の儚さを世の人々にも示すためだったと考えられています。

そんな檀林皇后の死後、亡骸が朽ちていく様子は、「檀林皇后九相図」として、東山の西福寺にて時折公開(8月7~10日、冬の観光イベント「京の冬の旅」など)されています。


■ 嵯峨天皇と文化

①葵祭

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写真:毎年5月15日に執り行われる葵祭。

葵祭と言えば、上賀茂神社、下鴨神社を舞台とする京都の初夏の代名詞。葵祭自体は、平安遷都以前から存在しましたが、嵯峨天皇以前は、一地方豪族のお祭といったニュアンス。しかし嵯峨天皇によって斎王(皇族出身の巫女)がおかれ、両神社は伊勢神宮に匹敵する社格を得るに至りました。

②大覚寺と大沢池

政治の表舞台を引退した嵯峨天皇は、現在「嵯峨野」と呼ばれている京都西部に離宮を造り、隠居生活を送ります。離宮の横には人工の溜池を掘り、中国的な風景のもと隠遁生活を楽しんだと言われています。
その離宮と溜池が、現在に続く大覚寺と大沢池。春には桜の観光名所となります。

③嵯峨天皇と華道

嵯峨天皇が大沢池を背景に花を活けたのが華道の始まりと言われ、現在も「嵯峨御流」として続いています。また華道とは少し違いますが、日本で初めて花見を行ったのも嵯峨天皇(神泉苑)だとか。花を愛した風雅な天皇だったことはよく分かります。

④日本で最初のお茶会

現在に続く茶道は、臨済宗を日本に伝えた栄西が茶の種を中国から持ち帰ったのが最初、と言われています(鎌倉時代)。しかしそれよりも早い平安初期の歴史書「日本後記」に、「永忠という僧侶が嵯峨天皇に近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述があり、これが日本最初のお茶に関する記録だそうです(もっとも、このころのお茶は、現在の抹茶や煎茶と違う、餅茶や檀茶だったようです)。

⑤書道の達人

嵯峨天皇は書道の達人として知られ、空海、橘逸勢と共に、「三筆」と呼ばれています。ちなみに、空海に勧められて嵯峨天皇が書いたと言われる般若心経が、大覚寺に現在も保管されています。
写経から1200年経った2018年に一般公開された、とのことです。次回の一般公開は、いつになることやら。。

⑥源氏物語への影響

平安時代に執筆され、世界最古の長編小説とも称される源氏物語。その主人公である美男子・光源氏には実在のモデルがいるのですが、実はそれが嵯峨天皇の息子である源融(みなもとのとおる)。後世の貴族に憧れられるほど、嵯峨天皇の治世が理想的な社会だったということが、よくわかるエピソードと思います。

⑦(余談)小野篁と紫式部

小野篁は、初め武をもって嵯峨天皇に仕えていたのですが、その野蛮さを呆れられたのをきっかけに猛勉強、時代を代表する文人へと転身を遂げた人物です。小野篁と嵯峨天皇の「無悪善(さがなくてよからん)」「子子子子子子子子子子子子子子(ねこのここねこ、ししのここじし)」のエピソードはあまりにも有名。

小野篁はまた、日中は嵯峨天皇に仕えますが、夜になると黄泉の国へと続く井戸を通って地獄へ赴き閻魔大王に仕えているといった伝説の持ち主でもあります。

で、源氏物語の作者である紫式部。彼女は淫らな色情にまみれた物語を世に発した罪で、地獄送りとなります。それを閻魔大王の腹心である小野篁が惜しみ、口利きをして、紫式部の地獄行きを止めてやった、と言われています(もちろん伝説ですが)。その縁で現在、紫式部と小野篁のお墓は並び祀られています。

⑧他にも色々

二尊院…嵯峨天皇の勅命によって建立された。
梅宮大社…子宝に恵まれなかった嵯峨天皇の妻、檀林皇后が祈念した。

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写真:二尊院。釈迦如来と阿弥陀如来が並び立つ本尊、紅葉、時雨亭(小倉百人一首の選定地)跡など、見どころがたくさん。
地図:今回ご紹介した嵯峨天皇とゆかりの深い観光スポットを地図にまとめました。


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いかがでしたでしょうか?嵯峨天皇がいなければ、京都は1200年もの間、日本の首都として続かなかったかもしれませんね。
京都旅の参考になれば幸いです。




・・・ライター紹介・・・

下岡広志郎
夫婦で1年5か月の世界一周旅行の末、日本文化を発信するための体験型宿泊施設「京町家コテージkarigane」を大徳寺門前町に開業。観光という経済システムを活性化することで、戦争という経済システムを廃棄し、世界平和を実現することを、事業の目標としている。

京町家コテージkarigane

茶の湯の聖地「大徳寺」から徒歩1分、茶道教室として建てられた京町家を、一日一組限定の宿にリノベーション。世界各国からのゲストをおもてなししている。

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