49日を終えて、納骨

姉の家で過ごしていた父の遺骨も49日と共に納骨となり、ようやく納まるところに落ち着いたのかなと。僕らのドタバタも一息着く様な気がした。

父の位牌をどうするか問題がここで立ち上がる。位牌を預かることの重さを姉も僕も感じていて、出来るならばお世話になっていたお寺に納めたい。それが僕らの希望。

祖父母の位牌は叔父、叔母に確認することにする。実家は空き家状態になるので、手入れ出来ない仏壇に納めたままでは申し訳ない。ただ、自分の両親に関しては自分たちの家に納めるべきでは?とも思うけれども・・・

例えば、姉の家に納めると僕がお参りに行きにくいかなと。逆も然り。遺骨はお寺にあるのでお寺にお参りすれば良いって感じになる。となれば、位牌も同じ場所が良いのでは?とか思ったりもする。
なにより、普段の生活の中で仏壇のある生活がイメージできない。インテリア的にとかではなく、花を備えたり、水を変えたり。そういうのが疎かになるくらいだったら、預かるべきではないのでは?というのが、姉と僕の希望なのだけど。皆どうしてるんだろう。

ちょっと預かる責任って考えると重いよね。

宗教とか信仰心とか、距離のある感覚は時代なのか世代なのか。

お寺の装飾を見ていると雲がモチーフになっているモノが多い。ということは天国(死後)は雲の上という発想なのだろうなと、お経を聞きながらそんなことを考えてた。
飛行機に乗っても、衛星写真見ても、そんなのひとかけらも見えないのにね。

大学時代にとある先生が癌を宣告されて、そのタイミングで宗教に参加したって話を聞いて「やはり死を意識するとそうなるのかな」なんて話をしていたけれど、周りの友達も何人か癌を宣告され亡くなってしまった人もいる今、僕らもそうなのかな?とその点に疑問を持ったりもする。

人はいつ、どうしたら宗教へと救いを求めるのだろうか。

癌を宣告された友人達は自分のペースで現実を受け止めて前を向いて最後の一秒まで自分らしく生きようとしている様にみえる。僕も同じ状況であれば、宗教よりも友や家族への気持ちを強く持つ気がする。時代もあるのだろうけれど、宗教って日常からとても遠い存在になってしまった気がするよね。

祖父母、そして今回父がお世話になったお寺は祖父母が元気だった頃からのお付き合い。戦争の混乱を生き延び、日々理不尽な状況の中で情報も乏しいとなった時、人は救いを求めるのではないだろうかと。
それも、仏様や神様に救いを求めるのではなくて、そこに集う人のコミュニティに繋がりと希望、勇気や助け合い、楽しみを共有したりがあったんじゃないかな。
言い換えると、今の「SNS」が「お寺」みたいな話。

どちらにしろ、念仏やお経を唱える生活がイメージできない。それよりも好きなことをしていたいと思うのはワガママでしょうか。
親に恨みはないし、感謝の気持ちはある。ただそれ以上のことは無いんだよね。難しいね。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。