誰よりも野球が好きな人

 野村克也氏が、亡くなった。
 TVの速報で知った。
 サッチーが亡くなって、足が不自由な様子も見られ、心配はしていたけれど、それでもやはり、早過ぎる。

 私は92年からプロ野球を見始め、ずっとスワローズ を贔屓にしてきた。
 きっかけは、簡単に言えば、その時のスワローズ が弱かったからだ。ただ、応援し始めたその年、弱かった燕達はリーグ優勝してしまう。ライオンズと日本シリーズで死闘を繰り広げ、わずかに及ばず、翌年こそ日本一へ、と、気持ちが繋がったことが、私に四半世紀以上も応援を続けさせたのだと思う。
 この、92、93年のシーズンとシリーズで、“野球は面白い”と刷り込まれてしまった。スワローズ の野球が、であり、それはつまり、野村監督の野球が、である。恐らく私だけじゃなく、私が想像する以上に多くの人々も、同じように感じていたのではないか。少なくとも、それまでプロ野球にさほど興味の無かった私にとって、客観的に見て“弱い”チームが、知恵と工夫(いわゆるID野球っていう?)で、戦力が間違いなく格上のチームに勝ってしまう野村野球は、面白かったし、新しかった。それまでの“オヤジが観るもの”だったプロ野球とは、違うもののように思えた。
 
 当時、『ID野球の申し子』=古田敦也であり、古田こそ一番弟子的な存在だったが、キャッチャーというポジション上、それは勿論そうだろうけど、“能力を見出され、才能を開花させた”筆頭は飯田哲也だった。当時の私は、古田選手より、飯田選手を羨ましく思っていたと思う。ぼんやりと“自分の居場所はここじゃないかも”と思って暮らしている時、誰かが、自分の隠された能力を見出して、今の環境から引き抜いて、連れ出して欲しかったのだ。そんな隠れた能力があったなら、そこで燻ってなんかないぞー、自分で自分を見つめ直せって今ならあの時の自分に言って聞かせたいけれど。
 飯田選手はキャッチャーとして努力していたが、今ひとつ成果が上がっていなかった→彼の持ってる能力を活かすには他のポジションの方がいい→センターへコンバート→「打撃には好不調の波があるが、守備と走塁にスランプは無い」→盗塁、走塁、守備で大活躍! 私はその頃から古田選手の大ファンだったが、スワローズ の92年は岡林投手の年であり、私的MVPは飯田選手に(心の中で)授与した。
 
 ファンではあったものの、古田選手に対して、当時すでに社会人だった私は、飯田選手に対してのような羨ましさは感じなかった。野村監督と古田捕手に、指導者と選手の関係性より、上司と部下の関係性を見てしまっていたからだ。勿論、本質は違うが、側から見ていると今で言うパワハラ紙一重だった。
 古田選手に対しては、キャッチャーというチームの要のポジションだし、監督自身もキャッチャーだし、厳しくなって当然だろうが、あれは、私には無理だ、勘弁して欲しいと思っていた。
 だが、何年も二人の様子を見ていると(TVを通して、がほとんどだが)、野村監督は、選手たち、特に同じ捕手である古田選手に“嫉妬”していたのではないだろうか、と思うようになった。
 “今の自分に古田の肉体があれば、もっと上手く、面白く、野球が出来るのに。” 
 “自分がこのチームのキャッチャーだったら、、、”
 
 また、当時のクリーンナップの一人、広沢選手に、「四番を打ちたくないのか⁈」と奮起を促したと聞く。いわゆる“助っ人”外国人ばかりが各チームの四番打者を独占していた当時、“日本人・四番打者としてチームを勝利に導いてみろ、自分なら、やる。やれる。少なくともやろうとする。君は、どうなんだ⁈”
 
 『野球が好きで、出来ることなら、可能であればキャッチャーも四番打者も、自分がやりたい。』
 そう思っていたのではないだろうか。

 野球は一人では出来ない。
 優秀な選手が、必ずチームの勝利に恵まれる訳ではない。あのイチロー選手然りである。野村監督は、スワローズ で4回リーグ優勝し、3度日本シリーズで勝利した。
 野球は一人では出来ない。
豪速球投手一人でも、盗塁阻止率No.1捕手一人でも、トリプルスリー一人でも、いつも勝てる訳ではない。同じように優れた監督一人でも、チームが機能するとは限らない。野村監督はスワローズ を率いた9年間で、監督としての野球が面白くなったのではないか。好不調の波はあったにせよ、あの頃の燕達は、監督の思惑以上、期待以上に、活躍して、成長して、野球が楽しくてたまらなさそうだった。自分の工夫や努力を超えた反応や結果が現れたのだから、監督としての野球も、面白かったに違いない
 その後のチームでも監督として、多くの優れた選手を育てた野村監督だが、チームの優勝はならなかった。
 監督としての野球は、
 楽しくはなかったかもしれない。
 でも、チームは確実に良くなっていた。チームを作り上げるのは、個々の選手を育てるのより、ずっと難しい。
“運”や“巡り合わせ”も絡んでくるから。

 92年、93年のライオンズとの日本シリーズの際、ライオンズ・森監督vsスワローズ ・野村監督を、ライターの永谷修氏が『日本で一番勝つ事が好きな監督と日本で一番野球が好きな監督のと戦い』と称した。“言い得て妙”とはこの言葉のためにあると思った。
 
 誰よりも野球が好きな監督が、亡くなった。
 監督としての野球を好きになった(であろう)スワローズ のユニフォームを着て、旅立たれた。

 合掌

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