見出し画像

「自立」と「共存」の島暮らし──大野佳祐さん・大野祥子さんに聞く、海士町で暮らし、つくる6年間

日本海の島根半島沖合に浮かぶ隠岐諸島、その島のひとつが海士町である。まちづくりに関心がある人は、もしかするとすでに知っているかもしれない。この島にある島内唯一の高校・隠岐島前高校は、人口減少に伴い生徒数が激減。一時は存続も危ぶまれた。しかし、隠岐島前高校魅力化プロジェクトを発足し、全国から生徒を募る「島留学制度」や「地域課題解決型学習」などの取り組みを実施、生徒数はV字回復し、学級増にまで至った。
──そんな隠岐島前高校で、学校経営補佐官として働く大野 佳祐(おおの けいすけ)さん。妻の祥子(しょうこ)さんと共に6年前に東京から海士町へ移住し、高校と地域のために尽力している。一方の祥子さんは、海士町の素材を使ったオリジナルグラノーラ「あまのーら」を開発。あまのーらをはじめ、水引を使ったアクセサリー作り、手づくりのパンやマフィンを販売する「アヅマ堂ベイクショップ」を運営している。そんなおふたりに、海士町への移住に至る経緯や心境の変化から、島で暮らし、つくる日々、そして家族のこれからについて聞いた。
(聞き手:戸田耕一郎、文:宮武優太郎)
大野 佳祐(おおの けいすけ)
東京都日野市出身。19歳のときのバングラデシュへの旅をきっかけに、海外での支援活動をスタート。大学卒業後は早稲田大学に職員として勤務。2014年、海士町に移住し、隠岐島前高校魅力化プロジェクトに参画。よりよい公教育の場作りを志し、様々なプロジェクトを手掛けている。

大野 祥子(おおの しょうこ)
静岡県森町出身。東京にて広告営業、インテリア雑貨のプロモーション、PR担当などをしていたが、海士町で働きたいという人に出会ってしまい、移住し結婚。現在一児(2歳。娘)の母。現在amanola PROJECT代表として、島の素材を使ったグラノーラ(=あまのーら)の製造・販売、島ぐらしをイメージした水引アクセサリーブランド【amairo】の制作・販売、島内向けパンやマフィンを販売するアヅマ堂ベイクショップの店主をしながら、島暮らしにほんの少しの “わくわく” と ”美味しい” を提供する仕掛けを日々模索している。

結果よりもプロセスを大切に

2014年に海士町に移住した佳祐さんは「隠岐島前高校魅力化プロジェクト」に参画し、「地域課題解決型の探究学習」や「島留学」のプロモーションなどを担当。生徒たちが主体となって、地域の課題に対する解決策を思考・実践するという学習プログラムを先生たちと協働しながら構築してきた。約6年が経って、仕事に対する手応えや気持ちの変化はあったのだろうか。

正直もうちょっと早く結果が出るかなと思っていました。でも最近は、それは都会的な価値観に縛られているだけだったと考えるようになりました。東京で働いていたときは、どこか結果さえ出ればなんでもいいと思っているようなところがありました」

しかし海士町で暮らし、地域の人々と接するなかで少しずつ気持ちが変わっていったという。

「ちょっと前の時代には、より大きいもの、より高いものを求めるような価値観があったように思います。しかし、これからの人口が減っていく時代に私たちが幸せに自分らしく生きていくためには、小さくともしなやかな人々のつながりが必要ではないかと考えるようになりました。こういう価値観に気づかせてもらったことを、この島に恩義を感じています。最近は生徒や保護者さんと話していても「小さいからこそ得られるメリット」という話を聞くようになりましたね。

ですから一番嬉しいのは、生徒たちが小さな挑戦を乗り越えたとか、些細なことでも自分の意志で踏み出したとか、そういう瞬間に立ち会えたときです。そういった一つ一つの積み重ねによって、彼らは自信を持って自分らしく次のステップに進むことができる。それが最も大切なことだと思います。この島が大切にしてきた価値観は、結果よりもプロセスなのではないかと

リーダーたちのビジョンに触れる

海士町に移住し、高校魅力化プロジェクトに関わって成果を出す一方、自分自身も変化していった佳祐さん。そんな佳祐さんは、どうしてこの島に惹かれたのだろうか。

「私の最初のキャリアは大学職員だったので、教育には元から関心がありました。しかし、島暮らしなんて考えたこともありませんでした。興味を持ったきっかけは、大学職員をやめて教育関連で起業しようと考えていたときに、海士町に住む先輩を訪ねたことがきっかけで、島に暮らす方々から「一緒に仕事をしないか」と熱心に誘っていただいたことでした。初めて島を訪れた時には、着いて30分で海遊びに連れていかれました(笑)。その海遊びのメンバーには、役場の課長がいたり、当時の教育プロジェクトのリーダーがいたり。仕事で関わる人たちとこんなにフランクに遊べる環境っていいな、そう思ったことを憶えています。

海遊びをしたあと、当時在職中だった山内道雄元町長と隠岐島前高校の校長、町の教育委員会の教育長という島の3人のリーダーたちから海士町の教育の方向性について伺いました。なにより驚いたのは、3人の意見が見事に一致していたことです。一般的に言って、町と高校、教育委員会の三者はそれぞれの目的を持って動いています。そのため、同じ方向を向くことは簡単ではありません。しかし、海士町では同じビジョンを持っていました。私にとってこれはとても新鮮で、日本中を見渡してもこんな地域は少ないのではないかと思いましたね」

海士町のリーダーたちの想いとビジョンに触れ、海士町での教育の可能性を感じた佳祐さん。関わりたいという気持ちが日に日に強くなり、ついには島に住むことを決意する。そして当時まだお付き合いもしてなかった祥子さんに、想いを伝えることに。

「海士町から東京に戻ってきたその日の夜、「付き合ってくれないか」と告白したんです。そこまでは良かったのですが、「2ヶ月後に海士町に移住します」と続けました。すると、「端的に言うと.…..それって責任を取って私と結婚してくれるということでいいよね?」と逆に寄り切られてしまった(笑)。「あ、そういうことになりますね」と返しまして。なんだかよくわからないけれど、告白と同時にプロポーズをしたということになりました」

東京から隠岐島へ──「離島に暮らすなんて経験、そうそう出来ない」

佳祐さんの告白を受けたその日のことを、祥子さんはこう振り返る。

「当時、彼はすごく楽しそうに海士町のことを話していて「ああこの人、海士町に行くな」というのを薄々感じていました。せっかく仲良くなったのに寂しいなと思っていたのですが、あるとき晩ご飯を一緒に食べていると、告白してきたのです。それについては嬉しかったのですが「海士町に行くから」と言われてしまって、いや待て待てと(笑)。そろそろ結婚もしたい年齢だったので、それはどういうことか分かってるよね、責任とってくださいねって言いました(笑)。すると責任とってくれると言うので、私も行くことに決めました」

広告業界で働いていた祥子さんにとって、東京から隠岐島の海士町への移住はまさに青天の霹靂だっただろう。移住するにあたり、不安な思いはなかったのだろうか。

「当時は携わっていた仕事が軌道に乗っていたので、もう少しやりたかった気持ちは正直ありました。でも、離島に暮らすなんて経験、そうそうできないですよね。私はこれまで何度か転職してきました。仕事を変えるたびに、その分野の仕事に夢中になったり、居場所をつくることができたり、そういった経験があったので、新しい環境に適応することには自信がありました。きっと海士町でも楽しくやってけるだろうって」

変化を受け入れ、それを楽しむ。そんなしなやかな感覚を持ちながら海士町で暮らし3年。祥子さんはある事業を手がけることになる。

「あるとき、すごくグラノーラが食べたくなったんですよ!(笑)。しかし食べたいグラノーラは島には売ってない。調べてみると、どうやら自分でもつくれるらしい。せっかくだったら、島で育てた素材でつくったら面白いかなと思いまして。オリジナルグラノーラ「あまのーら」を始めるきっかけは、自分で食べるためでした。

つくっているうちにだんだんハマっていって、友達に食べてもらいながら改良を重ねていきました。試しにフリーマーケットで販売してみると、意外と好評でした。もうちょっと本格的に商品化したいと思ったのですが、それには保健所の認可がある工房が必要です。けれども、条件に適した工房が海士町にはない──誰もつくらないなら、自分でつくるしかないか。そう思って空き家を改装し、工房兼ベイクショップとしてオープンさせたのがアヅマ堂です」

ふとした思いつきでつくり始めたグラノーラ。それを本格的に進めるための工房とベイクショップの開業。話はトントン拍子に進むが、実際に工房を開くためには改装費用が必要だ。祥子さんは改装費用を募るため、夫と一緒にクラウドファンディングを始めることに。

「クラウドファンディングについて、最初は乗り気ではありませんでした。自分たちがやりたいことに対して人様のお金を使うという点に、なんだか違和感があって。自身の私財を投じてこそ、やる側の覚悟に繋がるんじゃないかという考えがあったのです。でも、「あまのーらを商品化してほしい」という声をたくさんいただくなかで、この工房やベイクショップをやることによって、島にも新しい価値を提供できるんじゃないかと気づかせてもらいました。それならばその期待に応え、責任を果たそうじゃないかと思い直しました。夫は面白がっていて「いいじゃんそれ、やってみなよ」と言うノリでしたが(笑)」

島暮らしにほんの少しのワクワクと、美味しいを提供する

期待を背負ったクラウドファンディングは無事に達成。そうしてオープンしたアヅマ堂ベイクショップは、どんなコンセプトで運営されているのだろうか。

「アヅマ堂ベイクショップのコンセプトは「島暮らしにほんの少しのワクワクと、美味しいを提供する」です。商品ラインナップも基本的に島内の方向けにと考えています。ただ、大前提として心がけているのが、私自身が本当に食べたいものをつくるということです。

私はこれまでずっと営業職をやっていました。営業は物を売る仕事ですが、自分が本当に好きなものや心の底からお勧めしたいと思えるものじゃないと結局は売れなかったんです。だから私は自分が食べたいものをつくるし、「おいしいから食べてみて」とほかの人に勧めれられるものをつくっています

自分自身の愛するものを通じて、島の人々を幸せにする。祥子さんはアヅマ堂ベイクショップを通じて、地域の人々と交流する機会も増えたという。

「基本的にお店の運営は私ひとりでやっています。ですから、お客さんはもちろん、ご近所の方や仕入れ先の方など、多くの人と接することになります。島に来て6年目になりますが、周囲の人との関係性の価値を日々実感します。そのことが幸せで。

アヅマ堂ベイクショップの営業日は週2回ですから、「今日は金曜日だ、アヅマ堂の日だ」って楽しみにしてもらえるようなお店にしたいと思っています。家庭のおやつのような素朴さもありつつ、いつも食べているものよりは少し特別、でも手軽に買ってもらえるお値段。そんな商品をこれからもつくっていきたいです」

移住してから5年、アヅマ堂を開業してから2年。海士町に移住してからの日々を振り返ってもらった。

「この5年間は、びっくりするくらいあっという間でした。私は今40歳ですが、30歳の頃は海士町も知らないし、夫も娘もいませんでした。ましてや自分がベイクショップを始めるなんて、夢にも思っていませんでした。もともと私は静岡県の田舎出身で、都会に憧れて上京しました。それが今では、地元以上の田舎に暮らしています。そのうえ縁もゆかりもなかった島で、地域のことを思って働いている。不思議なことばかりだなと思います。

海士町に来てからというもの、帰省した際にも「あ、地元にもこんな産品があったのか」と気がつくことが増えました。ものの見方がすっかり変わったみたいです。今はアヅマ堂ベイクショップでも、地元産の食材や地元の作家さんの器などを使ったりしています。

支え合いながら自立するコミュニティ

佳祐さんと祥子さんがニ人三脚で歩んできた海士町での暮らし。地域に溶け込むまでになにか工夫や苦労はあったのだろうか。佳祐さんはこう語ってくれた。

「地域の人たちとのコミュニケーションでは「ちゃんと甘える」ことを意識しています。たとえば、以前自分で草刈り機を買ってしまったことがあったのですが、本当は草刈り機なんて島中にたくさんあるから、買わなくてもいいんですよね。移住してきたばかりで右も左もわからないなら、気兼ねなく「教えてください、貸してください」って言ってみるほうがいい。そのお礼にお酒でもお返しに行く方が、コミュニケーションも続くし、うまくいきます。もちろん、距離感を間違えて甘えすぎたら怒られちゃうかもしれませんが(笑)。都会では「自立しなさい」と言われて育った気がしますが、「支え合いながらお互いに自立していく」という考え方が地域では大切だと思います」

依存せず、ちゃんと頼る。自立しながら、共存する。佳祐さんの気づきは、島暮らしに留まらない人付き合いの本質のようにも思える。祥子さんはどうだろう。

「海士町は教育分野での取り組みが有名だったので、私もそういうイメージを持っていました。まちづくりに関わらなければいけないのではないかというような、変なプレッシャーを勝手に感じている時期もありました。しかし、あるときから「私は私、こういう移住者がいてもいい」と考えるようになり、そのおかげで今があるように思います。最近では教育分野だけではなく、いろいろな切り口で島に移住する方が増えてきたように思います。色んな方面で活躍する方々が増えるのは嬉しいですね」

大きなやりたいことを探すために不幸にならなくても良い

祥子さんの言葉を聞いていると、「移住」という言葉の重みが軽くなるように感じられる。

「移住してみたいと思ったら、やってみたらいいと思います。「やりたいことがないから難しい」とおっしゃる方もいますが、私も同じで、やりたいことがあって移住したわけではありません。目の前にあった小さなやりたいことを積み重ねていった結果、いまのようなかたちに落ち着いたのです。私はたまたまグラノーラを食べたいと思いましたが、チョコレートを食べたいなら食べたらいいし、みかんが食べたいなら食べたらいい。大きなやりたいことを探すために、不幸にならなくてもいい。それらしい理由をつける必要もない。気構えずにやりたいことをやる、その積み重ねが大切なんじゃないかと思います」

やりたいことをやっていくうちに、少しずつ変わっていく。佳祐さんも、そんな変化の大切さを語ってくれた。

「移住する際には、その人自身が変化を楽しめるかどうかかが大切だと思います。とりわけ金銭以外の価値が自分のなかに増えることを抗わずに受け入れられる人であれば、移住先でどんな仕事に就いても喜びを感じられると思います。逆に変わることが苦手で、今ある立場や収入を手放せない人は、もし移住して希望の仕事に就いたとしても、なかなかうまくいかないのではないかと思います」

家族3人で食卓を囲める贅沢

そんなふたりの島での暮らしぶりは、どのようなものなのだろうか。

「島に来てから子供が産まれました。子供との時間をしっかりつくりたいので、夕方5時半には家に帰ります。帰ったらお風呂に入れて、ご飯を一緒に食べて、寝かしつける。こうすれば9時くらいまで子供と一緒にいられます。夏には散歩しに田んぼの畦道を歩いて、天気がいいと「月が綺麗だね」って話す。そんな時間がなによりも幸せです。

最近になって畑をお借りして始めたので、子供と一緒に野菜を植えて収穫し、家に帰って調理しています。こういったことを家族で一緒にできる。きわめてシンプルで当たり前の暮らしのようにも思いますが、東京にいた頃は想像もできませんでした。こういった時間を大切にしたいですね」

いまの家族の在り方について、祥子さんにどう感じているか尋ねてみた。

「満足してますよ、85%くらいかな(笑)。残りの15%は、夫に多めに家計負担してもらっていることです。私ももう少し家計に貢献できるようになりたいですね。今は夫婦2人・子供1人の家族ですが、子供が大きくなったり、もしも新しい家族が増えたりしたとき、今の仕事や暮らし方ににこだわらず、柔軟に対応していける家族になりたいです。

それでも、なにより幸せなのは、夫と子供がいて、3人一緒に夕飯の食卓を囲むことができることです。お皿に盛ってあるのは、お米・お野菜・お魚・山菜。自分たちで採ったものや頂き物も多いです。そういった食卓を見ると「なんて豊かなんだろう」と思えます。都会にいたら夕方6時に家族みんなで晩御飯の食卓を囲むことはきっと難しいですから。時間的なゆとりが幸せに繋がっていると思います。いまは小さい娘に振り回されているので、必死でもありますけど(笑)」

最後に祥子さんは、この島で育つ娘の未来について語ってくれた。

「娘が生まれてから、子を持つ当事者として教育に興味が湧いてきました。島暮らしのなかでは、目にする大人の数や職業の数が限られます。彼女の可能性を狭めないためにどうしたらいいのかなと考えますよね。もちろんここでしかできないこともたくさんあるので、いろいろな体験をさせてあげたいです。娘にとっては、ここでの暮らしが人生で初めての経験です。海士町を故郷だと思えるように育ってほしいと思っています」

自立しながらも共存し、支え合うコミュニティの大切さに気づいた大野夫妻。佳祐さんは島の子どもたちの未来のために、祥子さんは島の人々の幸せのために。アプローチは違えど、2人の視線は同じ方向を向いている。

──そして、大野家にはもう一人。彼女はこれからどんな未来を選択をしていくのだろうか。大人になって思い悩み立ち止まったとき、ふと思い出すかもしれない。月夜の晩に虫の音と草の匂いを感じながら、家族3人で手をつなぎ、散歩した日のことを。