無門関第三十六則「路逢達道」

 無門関第三十六則「路逢達道」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 路上で、向こうから誰か歩いてきます。
 何やら只者ではない様子です。
 さあどうする。
 何か言う? 黙ってやり過ごす?
 いやいや、やられる前にやるんだ!

 犬かよ。

 「弱い犬ほどよく吠える」と言うでしょう。あれ、本当です。
 どうしようもなく弱い犬は最初から尻尾を巻き、それより少し強い程度の犬は、ウーワンワンと吠えてきます。
 しかし、さらに強いボス格の犬は、吠えません。
 本当に強い犬は、しばらくは静かに様子を見ますが、怒るといきなり噛みつこうとします。猛犬注意。

 犬で語弊があるなら、ヤクザでもいいですよ。
「ンダコラ、ヤンノカ、オー」などと威嚇してくるのは案外下っ端で、大物は必要以上に口を開かない。しかし、いざというときにビビって腰が引ける下っ端と違い、必要とあらば、あっさり躊躇いなく危害を加えてくる。

 ヤクザもちょっと…というのであれば、武道や格闘技を嗜んでいる人。
 彼らは「自分の持つ技術を人に対して振るってはいけないと戒められている」という事情もありますが、そこを差し引いても、いざ有事の際、肝が据わって落ち着いているという印象があります。
 むやみに威嚇しない。本当に強い人ほどそういう感じです。


 路上で、何か強そうな人があちらから近づいてくるとき、なんとなくこちらに伝わってくるものがあるじゃないですか。
 何も言わなくても、「こいつヤバい」と思わせる何か。
 態度、表情、オーラとでもいうしかないもの、その他。
 これらが、ここで言われている「言葉でも沈黙でもないもの」なんじゃないでしょうか。

 実際、「禅の達人らしき人が道の向こうから歩いてきた」と感じたということは、相手のヤバさは、相手が何かアクションを起こすまでもなく、自分に伝わって来てるわけですよね。
 だったらその時点ですでに、自分のことも、きっと相手にある程度伝わってますよ。
 ならば、「どう対応すればいいか」っつってもね、その動機が「少しでも達人として見られたい」だったとしたら、その動機ごと伝わるだけのような気もするんですよね。
 それはそれで、カッコ悪くないですか?

 特別な行動に、実際に移す必要も、もしかしたらないのかも知れません。
 修行して、魂魄のレベルが上がれば、強く思うだけで、現実に何か作用を与えられることもあるわけですよね。離魂記のように。
 昔の剣豪や武芸者などはこれを「殺気」などと呼んだんですが、そういうの、飛ばせばいいんじゃないの?
 僧侶なら、慈愛とでもいうような、そういうオーラを纏ってりゃ、それ以上の作為は要らないんじゃないでしょうかね。そういう人なら、例えば軽く会釈をするだけでも、或いは普通に声をかけても黙っていても、何をしても「すごい」って多分思ってもらえますよ。

 というわけで、「こういう場合、どうすればいいか?」の私の答えは、「どうすればいいんだろうと悩むうちは、まだ修行が足らん」です。
 本当にモテる人って、「どうすればモテるんだろう」みたいな悩み方、あんまりしないっぽいでしょ。
 体裁だけ繕っても、思ったほどの成果は上がらないことも多いんじゃないでしょうかね。

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