無門関第五則「香厳上樹」①

 第五則「香厳上樹」について、綴ります。
 今回は主に、本則についてです。
 現代語訳は、こちらをどうぞ。

 香厳が、お弟子さんたちに、ちょっと突拍子もないシチュエーションを持ち出して考えさせている、という場面です。
 しかし、今までの公案に比べると、まだ考えやすいように感じています。

 とりあえず、「いったいなぜ、そんな状況に」と、双方につっこみたい気持ちで一杯なのですが、それはひとまずこっちに置いておきます。

「何故達磨は西からやって来たのですか」
 こう訊いた樹の下の人は、おそらく禅僧なのでしょう。
 普通の人ならまずは「お坊様、何していなさる。危ない。早よう上がりなさい」とでも言うでしょうからね。
 そして、禅僧がこのようなことを訊ねる相手なら、樹にぶら下がっている人間も、やはり禅僧なのでしょう。

 ところで。
「何故達磨は西からやって来たのですか」
 これ、こんな状況ではなく、普通に言葉が話せる状況でも、答えるの、難しくないですか?
 素直に答えるなら「衆生に仏の道を伝えるため」とでもなるでしょうか。
 しかし、一般人向けなら、その回答でもいいでしょうけど、禅僧相手なら、この答え方では、多分全然足りません。
 その程度の「知識」は、禅僧ならとっくに知ってるはずだからです。

 おそらく、樹の下の禅僧は、単なる知識ではなく、「達磨の目指すものを示せ」と問うている。
 そして、ぶら下がっている禅僧に「お前はこの絶体絶命の状況をどうする」と同時に問うている。つまり。
「お前の禅を示せ」と迫っている。
 そんな状況だということになりそうです。

 じゃあ、私が樹にぶら下がっている立場だったら、どうするか。
 ちょっと考えました。
 私は、悟ったとは言えませんけど、それでも、私なら。

 樹の下の人を、見ることが出来る角度なら、その人をしばし見つめます。
 出来ないのなら、そのまま、しばし目を見開きます。
 その後、目を閉じます。

 今の私なら、多分こうします。
 これでいいのか、ダメなのかは、自分では解りませんが、ダメと言われたところで、私にはこれが精一杯です。
 倶胝なら、指を一本立てるのかもしれませんね。

 倶胝のパクリだろとか言うんじゃない。
 パクリじゃないです。
 この行動に私なりの意味はあります。地上に戻ったときに「どうしてああいう行動をしたの?」と訊かれたら、一応説明できますよ。
 その説明に「やっぱ、まるっきりダメじゃん」と言われたら、もう仕方がないですけどね。

 次回は、評唱と頌に関して、綴ります。

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