作中の、慣用句や小道具の使用と寿命

 チラシの裏的な文章。作中の慣用句や小道具について。

 小説、ドラマ、映画、戯曲、まあ何でも良いんですが、その世界で表現したいテーマがまず幹としてあるとすると、その世界の背景を彩る枝葉として、何らかの小道具があります。

 小道具。例えば、ダイヤの指輪が入ったリングケースを、カプッと開いて見せると、プロポーズだねとなるし、全員ちょんまげだと、現代じゃねぇな何時代だろとなる。中世ヨーロッパ風の空間にでかい恐竜や昆虫みたいなのが現れると「異世界なのね」となるのは日本特有らしいですが。

 例えば「夜の虫の声」「荷台に農機具の乗った軽トラ」「道端に茂る草花」だと、のどかな田舎の描写になるだろうし、食事の舞台が「フードコート」か「サイゼリヤ」か「喫茶店」か「銀座久兵衛」かだけでも、その一単語にいろんな背景を込められる。

 あるいは、直接表現を間接表現に言い換えるのに使われるもの。
 例えば不倫の関係を示すのに「人目を忍ぶ」とか「薬指の指輪を外す」なんて言い方をしたりとか。しませんかね?「薬指、むくんじゃったの?」とかそういうことじゃないです。シチュエーション次第で、風情のある言葉に変わったりする。
 まあいろいろあるわけです。非常に便利です。

 こういうのは、共通概念として慣用句化すると、より効力を発揮しますし、その逆も言えます。
 現代日本の舞台設定で「薬指の指輪を外す」の代わりに、いきなり「被っていた布を取って髪を見せる」を使うと、何言ってんだこれ? とわからないでしょう。頭の布云々は今私が適当に考えました。

 で、「共通概念の範囲」と同時に重要になってくるのが、「共通概念の寿命」だと思うのです。

 さて。「ダイヤル式電話」って、御存じですかね?
 本当は、画像を探して貼り付けたかったんですけど、私は著作権とかよく解らないビビりなので、各自調べてください。
 私が幼い頃は、電話と言えばこのダイヤル式でした。年寄りとか言わない。誰だって皆生きてりゃ歳はとるんです。自宅の電話も、赤やピンクの公衆電話も、当時はダイヤル式以外の電話なんかありませんでした。当然全部有線。
 なので、歌謡曲の歌詞でも「ダイヤルを回す」というフレーズが頻繁に登場しました。「電話をかける」という意味です。

 しかし、私の10歳ほど年下の従姉妹達は、全員、この電話器の使い方を知りません。私は、ダイヤル式電話で電話をかける必要が生じた従姉妹達に、電話のかけ方が解らない、と呼ばれ、代わりにかけさせられたことがあります。
 「ボタンがない」「穴しか開いてない」「いくら穴に指を入れても、呼び出し音に変わらない」と、彼女たちは頭を付き合わせて途方に暮れていました。

 彼女たちにとって電話というものは、ボタンを押し込むプッシュ式であり、フラットディスプレイを触るタッチ式なわけです。

 でも、それでも彼女たちは、「ダイヤル式の電話というものがある」というのは知っています。ですから「ダイヤルを回す」と言っても、「電話をかけることね」と、一応理解は出来るだろうと思います。
 しかし、生まれたときからタッチ式しかない世代、それ以外の電話がかつて存在したなんて想像もつかない世代の場合は、「ダイヤルを回す」と言われても、ほとんどピンとこないだろうと思うのです。

 これがつまり、「ダイヤルを回す」の寿命です。
 慣用句化すればまた別ですけど。

 チャンネルを回す。ポケベル。巻き戻し。チンする。
 私は自作中にたまに使いますが、「携帯」もいずれ寿命は来るでしょう。
 そういう、慣用句になり損ねた記号は、無数にある。

 ピンとこない表現を、それでも作中に盛り込みたければ、その理解の補助となるサブの共通概念を、読者と共有する必要があります。
 で、「解らない自分の無知が悪い」と考える読者を想定するのなら、単語、慣用句、時代背景、歴史、それにまつわる小道具、そういうものを、読者が調べて、ちゃんと理解しようとしますから、それで伝わる。
 一方、「解るように書かないお前が悪い」と考える読者を想定するのなら、作中に補助説明を盛り込むか、解る共通概念に置換える必要が生じます。

 例えば時代劇で、時代考証を徹底すると、その時代の空気感は色濃く出るんだけど、ついて行けなくて脱落する視聴者が増えてしまったりする。
 現代の着付け教室の、着崩れは万死に値すると言わんばかりのきっちりした着方しか知らない視聴者は、いくら「当時はこういう着付けが普通だった」と言ったところで、だらりと着崩れた着物には拒否反応を示すでしょう。けれどそれは罪ではないです。強いて言えば相性の問題。

 なので後はもう、「作りたいものを作る」と「売る」の線をどこに引くかの制作側の問題で、そこから先は価値観の問題ですから、正解はありません。選択肢は多いに越したことはないので、色々なものがある方がいい。
 私はプロではありませんから、何一つ想定せず、好きな言葉で、好きな世界を、好きなペースで、好きなように書きますが(流石に文法の間違いがないようにする程度には気をつけてます)、売らねばならないプロは大変でしょうね。

 結局の所、幹さえある程度しっかりしてれば、枝の2~3本くらい折れても大丈夫だと思います。根幹のテーマに普遍性があれば、枝葉に違和感が多少あっても、違和感をできるだけ減らした物語の構築が脳内で出来るかも知れない。面倒くさがりなので、そういう読み方は、余程のことがなければやりませんが。
 個人的には、必要な違和感は大好物ですが、余計な違和感はあまり好きじゃないです。余計な違和感が大きければ深掘りするのは諦めることが多い。好みの問題です。
 一方、枝葉そのものを主題にしてるタイプの作品は、花瓶の生け花みたいなもんで、その枝葉を現実が追い越すほどの時が過ぎたら、枯れる。あるいは変質する。
 ある程度残すか。短い期間で消費するか。どっちが上下の問題ではないですし、やっぱり好みと価値観の問題。

 じゃあ、幹って何? っていう話になるかもしれませんけど。
 そこはまあ、個人で捉えていただくということで。

 何が言いたいかというと、今あるモノを、きっと昔から存在していたに違いないと勘違いするほど、ずっとこの先も不変のものだと思って、疑いもしない人達が、馴染んだスマホも電子マネーもサブスクも、さっさと次世代の別物に取って代わられて、古い人達扱いされる日が早く来るといいなあ、という話だったりもします。
 電話も、テレビも、録画機能も、音楽再生機器も、通信も、ついでに言えば言葉も概念も価値観も、身の回りのすべてが、想像もつかなかった完全な別物に一気に置換わってしまい、あっという間に姿を消す衝撃はわかるまい。
 でもそれは、とっても愉しいことでもあります。たとえ馴染んでいたそれらを従姉妹に古代の遺物を見るような目で見られても。

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