無門関第二則「百丈野狐」①前半

 今回は、老人が成仏するまでの前半について、綴ります。
 公案の現代語訳については、前回をご覧ください。

 私は、仏教についてはあまり詳しくないので、そもそも、悟りを得たらどうなると考えられているのか、よく知りません。
 仏教の開祖である釈迦は、「この世の出来事には全て、原因がある。それを正しく理解すれば、苦しみを避けることが出来る」というようなことを教えた人だと、私は勝手に解釈しているんですが、この、苦しみとその原因の法則のことを多分「因果」と呼ぶんでしょう。
 そして、悟りに至ったら、釈迦のような、苦しみのない境地に至れる、という考え方が、あるのでしょうかね。

 さて、今回、百丈和尚のもとに訪れた老人は、釈迦がこの世に生を受ける遙か昔、弟子を多く抱える僧侶でした。
 そして、「悟りに至った後でも因果に縛られるのか」との問いに「因果律に落ちることはない」と答えたところ、野狐に生まれ変わり続けました。
 これをなんとかしてほしいと、老人は百丈に教えを請いにきたわけです。

 つまり、この老人は、
①因果律に落ちることはないという答えが間違いだった
②間違った答えを信じたため、野狐に生まれ変わった
 と解釈しているわけですね。
 だから、「正しい答えを得られれば、この因果律から脱することが出来る」と考えている。

 でも、これ、本当にそうなんでしょうか。

 多分この老人は、正しく悟りに至ったら、極楽にいる仏様の化身のような存在になれる、と多分思ってたわけですよね。
 だから、野狐に生まれ変わったことを、「罰を受けた」のだと思ってる。
 それをつらいと思う、その気持ちは、理解できなくもありません。
 でも、私、ここで、よくわからないことがひとつあります。

 この老人は、「悟りを得る」ことで「因果律に縛られない世界に行きたかった」んですよね?
 でも「正しい答えを出し続けたら、尊い存在になれる」って、これは「因果律のひとつ」ではないんですか?

「尊い存在になるために、正しい答えを目指し続けよう」と考えることは、私には「因果律に縛られない世界に行きたいと言いながら、別の因果律に縛られたがっている」ようにしか見えないんですよね。

 で、百丈和尚は、老人に言うんです。
「不昧因果」。因果を明らかにしろ、というような意味らしい。
 これ、老人に対して、「野狐に生まれ変わった原因を、誤解している」と言ってるんじゃないのかなあ、という気がするんです。
 何をどう誤解しているのか、までは、説明してくれていません。
 ここが前半の肝なんだろうと思うんですけど。

 悟りを得たら因果に落ちずに済むという発想が間違いだったというのが、老人の考えなんですが、どうやら、そうではないと百丈は言ってる。
 少なくとも私にはそう見えます。
 では、何が誤解なのか。

 弟子にそう教えたことが良くなかったのか。
 それとも。
 本当は罰なんか受けてないのに、罰を受けたと勘違いしているのか。


 偶々起ったことにも、意味を見いだそうとしがちなところ、人間にはあるじゃないですか。
「500回続けてサイコロの1の目がでた」となると、これはもう何かの運命だ、そうでなければ絶対に何か原因がある、と思ったりしてしまう。
 鉄火場でそんなことが起こったら、まずはイカサマを疑わなければならないシーンでしょうから、この場合は、グラ賽と思しきサイコロを割って確かめる必要があるでしょうね。そうすれば隠れた因果を明らかにすることができるかもしれません。
 しかし、イカサマではなかったとしたら、それは、もしかしたら、ただの偶然だったのかもしれないでしょう?
 1の目が続けて500回出た。500回続けて野狐に転生し続けた。
 それだけのことと言えば、それだけのことなのです。

 それに、因果律に縛られない世界であれば、それこそ「正しい選択をし続けた結果、仏の化身ではなく野狐に転生した」が成立したって、別にそこまで不思議じゃないでしょう。
 私はそう思う。因果律の消滅って、そういうことじゃないの?

 老人が生まれ変わった先の世界は、もしかしたら、前世で心底望んでいた、因果律に縛られない世界だったかもしれないのに、老人はそうと認識しないでずっと苦しんでる。
 本当に因果律から脱したかったのなら、老人はこういう状況を、楽しんで然るべきだろ、とも思ったりしますね。

 そんなにメソメソしてないで「ああ! まーた野狐かよ!」くらいの感じで、ネズミやウサギをもりもり食って、ついでにメスの狐と仲良くしてりゃ良かったんですよ。そしたら「苦しみの少ない、楽しい野狐ライフ」を満喫できたかも知れないじゃないですか。
 肉食も女犯も、僧侶の時は禁止されて出来なかったことなんだから、ある意味では、むしろボーナスステージでしょ。
 私が禅僧じゃないからそう思うだけなのかな。

 いずれにしても要は、因果を取り違えると、望む結果は、多分訪れないんですよ。
「因果を正しく見ろ」というのは、そういうことなんじゃないんだろうか。
 正しくない因果に囚われて、無駄な苦しみを続けることは、大した益は生まない気がする。
 このことは確か、仏教の開祖である釈迦も生前言ってたことです。…と認識していますが、嘘だったら後でこのくだりだけこっそり削除します。
 でも実際、この老人はただ苦しんでるだけですもんね。

 だから「因果を明らかにしろ」と聞いた途端、老人は、ああ、と悟って、いきなり野狐としての今生を終えたんじゃないでしょうか。

 野狐としての生は、誤答に対する罰ではなかった。
 ならば、野狐であることに「耐え続け」ればいつか「報われて」極楽に行けるわけでもなかった。
 自分が考えていたような因果はなかった。
 そう思ったから、唐突に成仏したんじゃないですかね。
 次、輪廻の輪を外れて極楽に行くにしろ、別の何かに生まれ変わるにしろ、きっともうこの老人は、そこまで苦しまずに済むのではなかろうかと思います。

 こう考えると、無門の「この老人の500回もの転生も、なかなか風流だったことが解るだろう」という言葉にも、一応理解が及びます。

 私は以上のように考えることで、前半には一応の満足を得ました。
 次回は、後半について綴る予定です。

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