無門関第四十二則「女子出定」②

 無門関第四十二則「女子出定」について、綴ります。
 今回は、本則や評唱、頌の内容に添って考える予定です。
 公案の現代語訳は、こちら。

 文殊菩薩は、智慧の菩薩です。
 この世で、自分ほど智慧や分別のある者は数えるくらいしかいないだろうと、そんな自負も持っていそうです。
 確かに、智慧は並外れてあるのだろうと思います。
 ただ、問題は、分別のほうでね。

 ずっと釈迦の近くで瞑想状態に入っている女性を見て、「私ですらそんな傍には寄れない。皆離れて戻っている。なのにどうしてその女性はずっとそうしているのか」と言います。
 これ、私は正直なところ、ピンとこない物言いです。

 この文句、悟入前の阿難あたりが言ったというのなら解ります。
 文殊菩薩が言ったというのがよく解らない、ということです。
(追記:菩薩は悟りに至ってないらしいので、後日多少は理解出来ました)

 お釈迦様はえらい。自分もそこそこえらい。女性はえらくない。
 ならば、女性は、お釈迦様のことを、私が感じている以上に恐れ多く感じるはずであり、そうあるべきである。
 なのにどうして近くで、皆が立ち去った後も、立ち去らずにいられるのか。
 何て厚かましいんだと言わんばかりの雰囲気です。
 何だか「常識」「知識」「世渡り術」の固まりという感じ。
 それ以外の基準がないとすら思えるほどの堅さです。
 文殊が釈迦の傍に近寄れないことと、女性が近寄れることには、本来全く関係がないはずなんですけど、文殊にはそれが解らない。

 で、お釈迦様に、「解らないのなら、自分でこの女性を起こして、訊いてみたら?」と言われて、起こしにかかります。
 このときの文殊菩薩、もしかしたら「女性は愚かな生き物だから、お釈迦様の尊さがよくわからないし、自分の好き勝手にせずにいられない程度の知性しかないのだろう」と考えたのではないか、という気がするのです。
 だから、文殊は女性に、自分の清浄な気をあびせてみたり、俗世からはるか離れた天人界に連れて行ってそこの空気をあびせてみたりした。

「この女性の本来の性質とはレベルが違うものを浴びせたら、その大きな変化に目は覚めるはずだ」と思ったからこその行動だったんだという気がするんですよね。
 女性は、愚かなのだから。自分は、愚かではないのだから。
 自分なら女性を起こせるはずだと信じて疑わなかったからこそ、行動に移したのでしょう。

 しかし、これでは女性は三昧の境地から起きては来ませんでした。
 その理由を文殊は、このときおそらく理解出来ていません。
 文殊には気づけないんでしょうかね。
 女性が釈迦の傍で三昧の境地に浸りきったままでいられるのは、女性が愚かだからではないということに。

 大いなる悟りを会得した人間は、凡人、或いは愚者に見えることがある。
 字面だけでなら、以前もたびたび公案の形で登場したことです。
 しかし、それが本当に理解出来ているかどうかが、おそらく本則で試されます。

 果たして、女性は、無知煩悩の菩薩である罔明菩薩が、近寄り指を一度鳴らしただけで、三昧の境地から起きてきます。
 清流のせせらぎにうっとり聞き入っていた最中、突然、地震の緊急速報アラームを聞いたかのように。
 女性がいかに煩悩の境地から離れきっていたかの現れです。

 文殊菩薩が何千人集まろうと、女性を三昧の境地から引き戻すことはできないでしょう。
 でもそれは、女性が愚かだからではないし、文殊が無能だからでもありません。
 文殊が、素晴らしい世界に住まう菩薩だからこそ、この女性を起こせなかったのです。
 罔明菩薩は、何をするでもなく、女性を三昧の境地から引き戻しました。
 でもそれは、罔明菩薩の不徳の致すところとは言えません。女性を起こすことがこのとき必要だったのですから、罔明菩薩の能力もはたらきもまた、大切で必要なものなのです。

「この女性は愚かではない」
 本則の現象は、結局、この事実をお釈迦様だけが理解していた、ということに端を発するのだと、私は思っているのです。

 でも、この公案を、当時の修行僧達が読み考えたら、きっと文殊菩薩の視点に立って考えただろうと思うので、その多くはもしかしたら「知識を詰め込んだだけでは、愚かな女性の目を覚ますことすらできない。愚かさの中に大いなる真理が」などという考え方をしたのだろうかと、そんなふうに思うと、やっぱりちょっとモヤモヤする。

 自分が相手の愚かさを受け入れよう、と考える必要は全くないのです。
 そんなこと考えるやつは、そんなことしなくたって、充分愚かなのです。
 そうではなく、相手の尊さに気づくこと。
 これが肝要なのではないかと思います。

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