無門関第十四則「南泉斬猫」①

 無門関第十四則「南泉斬猫」について綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 久々に来ました。糸口が掴みにくい公案。
 内容自体は、公案の中ではそこそこ有名なので、御存じの方も多いのではないかと思います。

 この公案を難しくしている最大の要因は、「背景が全く読み取れない」ということにあると感じています。

 まず、「東寮と西寮の修行僧たちが、子猫のことで争っていた」というのが事の発端なんですが、これが初っぱなから、わかりにくい。
 どんな争い方をしていたのか、全く書かれていません。

 現代の日本人がこれを読んだら、多分ほとんどの人が、「子猫ちゃんのあまりの愛くるしさに、東西両堂の間で奪い合いになった」と、一発で思い込むんじゃないでしょうか。
 でも、これ、必ずしもそうだとは限りません。
 なぜなら、「猫」という動物は、常に愛玩動物として扱われてきた生き物ではないからです。

 時代や地域によって、猫の扱われ方は、全然違います。
 神の使い。愛玩動物。ねずみ取り。魔女の手先。害獣。
 本当に、いろいろです。

 とりあえず結論から言うと、この僧侶達は、猫の所有権を争っていたのではなく、猫を題材に、禅の討論をしていた、と私は想像しています。
 その根拠を、これから説明します。

 仏教では、生き物は、生前の行いにより、魂の次の行き先が決まるとされています。
 その行き先は全部でざっくり六つ。これを六道といいます。
 上から、天上界、人間界、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄。
 下に行くほど苦痛が大きくなります。
 天上界は、天人が住む世界。極楽浄土とは違います。

 基本的には、生前よい行いをしておくと、何かポイントが貯まって、上のランクに上がりやすくなり、悪い行いをすると下に落とされる、というシステムのようです。

 人間は、人間界にきた魂が、この世に生まれたもの。
 猫は、畜生界にきた魂が、この世に生まれたものです。

 一方、当時中国では、穀物や書物をネズミに食い荒らされる害が頻発していました。
 なので、ネズミを捕ってくれる猫は、ネズミに悩まされる人々から大切にされていたようです。

 つまり。
 「仏典を守る動物」でありつつも、「魂は人間より2ランクも下」。
 これがおそらく、猫に対する、当時の禅僧の一般的な認識です。

 それを踏まえて。
 日頃、悟りに至るためなら命を賭けても構わないとすら思っていそうな禅寺の僧侶たちは、この日、子猫を巡って、どんな争い方をしていたのか。
 彼らの多くは、犬を見たとき「可愛いな」より先に「こいつには仏性はあるんだろうか?」と考えるような人達です。

 「オレが撫でる!」「いやオレが!」じゃなさそうな感じが、してくるでしょう?

 ところで、評唱で、無門が「趙州の行動の意味を、ズバッと一言で言い表してみよ」と煽っているので、身の程知らずは承知で挑戦します。
 今の私なら、こう言います。

「盲導犬の最終試験」

 全世界のあらゆる人にズバッと伝わる表現でなくて、申し訳ありません。
 公案に関する具体的な考察は、次回から綴ります。

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