無門関第二則「百丈野狐」②後半

 百丈野狐、後半について綴ります。
 公案の現代語訳については、前々回をご覧ください。

 その晩、百丈が昼間の出来事を弟子の皆に話して聞かせた。
 すると、黄檗という弟子が、百丈に質問を投げかけた。
 百丈がそれに答えようとした。
 そしたら、黄檗が百丈をいきなり張り倒した。
 百丈はそれを笑って喜んだ。
 簡単に言うと、こういう流れです。
 普通に考えると、多分わけがわからない。

 ここで、前半部について考えたことが、結構重要になってきます。
 この中身を踏まえて綴りますので、よろしければ、お読みください。

 黄檗は、百丈の弟子の中でも、ずば抜けて優秀なお坊さんです。
 後に、百丈の後を継ぎます。要するに、一番弟子です。
 でも、他のお弟子さんたちは、みな黄檗ほど出来がいいとは限りません。
 いろんな人がいたろうと思います。
 師匠の説法に対する理解力も、ピンからキリまでだったでしょう。
 師匠の説法の真意を、あれこれ説明しなくてもピンとくる弟子もいれば、「???」と首をひねる弟子もいる。

 黄檗自身は、あれこれ言われなくても、多分「老人が野狐に生まれ変わり続けたのは、誤答に端を発する因果ではない」ということは理解できていたんだと思うんです。
 しかし、おそらく弟子の中には、「誤答により野狐に身を落とした。なら、なんと答えてたらよかったんだろう?」などと考える人も結構いたんだと思います。
(※現実の私は、私以外の人が抱くかもしれないこの発想を、否定するつもりはありません。あくまでも、この文中における表現だとご理解ください)
 そして、その多くの弟子は、それをストレートに師匠に尋ねることはおそらく出来なかった。「自分で考えろ」と叱られるなら多分いい方で、場合によってはどんな目に遭うか解らないからです。公案集の中ではいろんな人が散々な目に遭っています。

 これらの状況の全てを、黄檗は、瞬時に把握したのだと思うのです。

 だから、多分、敢えて自分が尋ねてみせたんじゃないのかなあと、私は思ったんです。
「その老人は、自分の弟子に誤った答えをしたために、500回野狐として生まれ変わることになった。ならば、誤った答えをしなかったら、どうなっていたのでしょうか?」
 これ、黄檗自身の質問ではないと思うんですよ。
 つまり、わざと、こう尋ねてみせている。

 他の凡百の弟子がした質問なら、「こいつ本気でこんなことを考えて尋ねていやがる」と受け止められるかもしれない。そうしたら、もうどんな事態に発展するかわかりません。
 けれど、総領弟子である黄檗が口にしたなら。
 もしかしたら師匠は「他の弟子のために敢えて火中の栗を拾いに来たな」という受け止め方をしてくれるかもしれない。
 或いは「ボケを一発かまそうとしてやがるな」くらいの空気にしてくれるかもしれない。
 いずれにしろ、もう少し突っ込んだ話をしてくれるかも知れないし、そこまで酷い事態には繋がらないだろう。
 そういう背景のもとで為された質問のように、私には思えるのです。

 漫才なんかでよくあるボケのパターンの一つ、みたいな感じ。
「いやいや、ちゃうやろ」というツッコミを誘うためのボケ、みたいな。

 で、ここで、百丈が「お前、何言うてんねん」と笑いながら、パカーンとツッコミの一つも入れたら、それを見ていた他の弟子も、「あ、なるほど、誤答による因果という話じゃないんだ」となんとなく理解することが出来るし、まあまあ上手いこと収まったんじゃないかと思うんですよ。
 しかし。
 百丈は「こっちにこい。お前と、あの老人のために、教えてやる」と黄檗を自分の所に呼ぼうとした。

「おいおい、お師匠さん、まさか本気で俺が解ってないと思ってんじゃないだろうな」と、思ったかどうかは解りません。
 しかし、話の流れとしては、黄檗のかましたボケに、百丈は、ツッコミではなく、ボケを重ねて返してきた。そういう構造に、なってしまっている。
 …なってるでしょ?

百丈「かくかくしかじか、こういう話が、あったのだぞよ」
黄檗「ええと、それは、こういうことですわな?(バカのふり)」
百丈「おおっ? お前はそんなことも解らないのか。それはな(バカのふりに突っ込まず話を重ねようとする)」

 ピンと来ませんかね。ええと、つまり。

林修「かくかくしかじか、こういう話があったんですよ」
伊沢拓司「先生それは、こういうことですか?(ピントがずれまくりの質問。わざとであることは丸わかり)」
林修「あれっ、伊沢くん。こぉんなことも、わからないんですか? しょうがないですねぇ。じゃあ教えてあげますから、しっかり聞いててくださいよ? それはね?」

 こうです。
 ボケにボケを重ねている。何となく伝わりますかね。
 伊沢くんは林先生にビシッと突っ込んでもいい場面でしょう?

 かくして黄檗に張り倒された百丈は、笑ってその弟子の行為を喜びます。
 師匠の発言がちゃんとボケだと理解できるのは、師匠の説法の真意を理解できている弟子だけだからです。
 凡百の弟子なら、真剣にその先の言葉を待ってしまったでしょう。


 因果律から脱することと、因果を明らかにすること。この両者は密接に関わりがあります。
 因果を正しく明らかにしなければ、因果律の苦しみから脱することはできないのです。それは例えば先程の老人のように。

 しかし、因果を明らかにすることと、因果律から脱すること。
 この両者には、やはり大きな違いがある。
 因果を明らかにすることは、その因果を避ける行動に繋がります。ひいては、そこから生まれる苦しみを避けることが出来る。
 けれど、因果律のない世界に行くということは、これまでの経験則が全く通用しない世界に行くということです。
 そこは、本当に苦しみのない世界なのだろうか?

 さきほどの老人は、「何度転生しても野狐に生まれる」ことを苦しんでいました。最後には大悟して解脱しましたが、それまでの「因果の誤解による不必要な苦しみ」は、「因果律がない世界に順応できないという原因」から生まれたのではないかと、私は感じるのです。

 だから、禅の世界では、小さな因果律が一見外れているように見える内容の公案を幾つも解いたり、座禅をしたり托鉢をしたりする中で、因果の外れた世界に順応するための訓練を、行っていくのかも知れません。

 以上が、後半部分について、私の脳内に降りてきた内容です。
 公案に関するあれこれって、ほぼ全ての内容がいきなりまとまって降りてくることが多いです。これは本当に不思議です。
 まあ、その内容の出来がどうであるかは、また別の問題だと思いますが。
 こんなふうに読めちゃったんだから、しょうがないですもん。

 余談ですが、この公案に取組んでいる間、私は、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中の「地獄」という一節を思い出しました。
 関係あるかどうかは、解りませんけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?