無門関第五則「香厳上樹」②

 第五則「香厳上樹」について綴ります。
 今回は主に、評唱と頌についてです。
 現代語訳はこちら。


 いわゆる禅問答などをみると、思うんですけど。
「弁舌で相手をやり込められたら勝ち」みたいな風潮、ないですか?
 昔は特にそうだったイメージがあります。

 経典を片っ端から暗記し、その知識量と弁舌で相手を圧倒できたほうが偉い、とされる感じ。
 もちろん、真に優れた禅僧も、たくさんおられると思うんですけど。

 で、無門は、当時の禅を取り巻くそういう現状が、いやだったんじゃないかと思うのです。

 経典に書かれていた知識を丸暗記し、それを相手を殴るための武器にする。そんなことを繰り返してきた禅僧は、弁舌を奪われたら、何にも出来なくなってしまうでしょう。
 第三則で指を切り落とされた小僧が、最初は泣きわめくことしか出来なかったみたいに。

 でも、真に悟った禅僧なら。
 たとえ弁舌が奪われても、きっと何か他のやり方で、伝えようとするはずなのです。
 黙って指を一本立て続けた、倶胝のように。

 そして、もし、樹の下の人が、弁舌の優劣だけを競う僧ではなく、真に悟りを目指す僧なら、樹の上の僧の動きを見たとき、きっと何かを得ることができるはずなのです。
 第四則で、髭のない達磨を見た、或庵のように。

「禅の真髄は、知識量の多さや、トークバトルの強さではないだろう?」
 と、無門は多分、言いたいのだと思います。

 これを理解できれば、「とても優れているのに、口下手なせいでなめられていた草食系和尚」のことを、実は超優秀だなと見抜けるだろうし、「禅の境地からはほど遠いのに、弁舌だけでのし上がっている僧」に対しても、「たいしたことないじゃん」と見抜くことが出来ます。

 で、何か解らないことを、誰かに訊ねたくなったら。
 その相手は、やっぱり、その境地をより解っている人がいい。
 受け売りが上手い人ではなく、確かな中身を教えてくれる人。
 それは、その辺の修行僧や和尚に訊くよりは、衆生を救ってくださるという弥勒に直接訊くほうがいいということでしょうけどね。
(※知識における誤りが判明したので一部編集しました)

 しかし、です。
 頌で無門はひとつ、クギを刺しています。
 今から書くこと、ものすごく重要なことだと思います。

 知識を丸暗記し、それを自分の血肉としないまま、受け売りで語ることの脆さを、香厳はこの公案で、気づかせようとしました。
 その考え方は、素晴らしいと思います。
 でも、この公案を何も考慮しないで考えさせたら、僧侶の習熟度合いによっては「言葉を用いることは、『劣った方法』なのだ」と解釈するかも知れません。

 香厳は、自分が悟っているから、言葉に依らずとも、物事を理解し、他人に伝えることが出来ます。
 しかしそれは、悟りに至っていない人には、極めて難しいことなのです。
 けれど、悟りに至っていない人は、悟りと、それに至った人への強い憧れから、その言動と行動の上っ面を、真似したくてたまらなくなるものなのです。
 第三則の、小僧のように。
 私自身、この感情には、覚えがあります。

 その結果、経典を最初から軽視した修行法に偏る修行僧が、増えてしまうかも知れないのです。

 無益どころか、有害ですらあります。
 このことを懸念して無門は「香厳は妄言を吐いている。有害なること限りが無い」と言ったのではないか、と私には思えるのです。

 いくら「目分量で、自由に、料理を作れるようになりたい」と思っていても、基礎が出来ていない間は、信頼できるレシピの通りに何度も作る方が、はるかに有益である、ということと、多分同じです。
 禅の基礎ができるまでは、やはり、経典にしっかりと向き合って、理解を深めるのが、結局は一番の近道なのです。

 というわけで、頌の部分に関しては、世間でよく言われているらしい「逆説的に褒めている」ではないと、私は考えます。
 無門は「悟りに至れば、仏に出会えば仏を殺せる」と、初っぱなの第一則に書いた人です。
 高僧の権威など、屁とも思わないでしょう。
「よくない」と思ったことは、スパッと「よくない」と言うと思うんです。

 だいたい、無門が、言葉による教えを一段低く見ている人なら、そもそも無門関を編もうとは思わないでしょう。
 なぜなら、当時は、碧巌録という、無門関の倍くらいの分量の公案集が、すでに存在していたからです。
 言葉の教えを軽視している脳筋なら、公案集を、収録する公案を厳選し、初心者ガイドまでつけて、新しく編み直すなんて、わざわざそんな苦労をしようとするはずがない。

 実践も、知識も、どちらも大切なんです。
 リンクしてないのがダメなんです。

「香厳の教えた内容が誤り」なのではないんです。
「香厳の教え方次第で、誤りに繋がる可能性がある」んです。
 無門はそこに気をつけろと言っているんだと、私は思う。
 誰が最初に「逆説的な賛辞だ」と言い出したんだろうなあ。

「香厳のしたことに間違いは絶対にない。
 だから無門も正しいと思うはずだ。ならばこの表現は、逆説表現だ」
 と、自分で考えた上で、そう思う人は、それでいいと思います。
 その代わり、私がそうではないと思うこと、読者の立場に寄り添った発言を無門はしていると考えることを、否定しないでください。

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