無門関第三十八則「牛過窓櫺」②

 無門関第三十八則「牛過窓櫺」について、綴ります。
 今回は、「水牯牛の各部位は何の見立てであるのか」を考える予定です。
 公案の現代語訳は、こちら。

 前回、私は、本則の全体像を、「水牯牛の死後の体を、人間が、食える部位と食えない部位に分類しようとしている。それを、水牯牛の魂が眺めているのではないか」と書きました。
 こんな奇怪なとらえ方をしているのは、おそらく私だけなのだろうと思いますが、私は無門関の構成を「虹のグラデーションのように、前後の公案が密接に関連しながら続く構成になっている」と捉えているので、三十五則あたりから三十七則までをヒントにしようとすると、まずは上記のような景色が私には見えてしまいます。
 見えてしまったからには、これを元にして考えます。

 水牯牛の尾は、普通の牡牛の尾に比べると、長さが短い傾向があるのだそうです。
 去勢すると、どういうわけか、尾があまり伸びなくなるみたいです。
 長さが短い分、動かせる範囲が狭くなるので、普通の牡牛の尾の動きに比べると、比較的大人しく見えるかも知れません。
 蠅などの虫を追い払う効率も、ちょっと下がってしまう、ということもあるかも知れませんね。

 しかし、尾は、完全になくなってしまうと、すぐに命に関わるわけではないでしょうが、それでもかなり困ったことになるはずです。
 断尾を施された牛は、虫を追っ払うために、四六時中頭をぶんぶん振ったり、せわしなくうろうろしたりするようになるそうです。虫や虫が運んでくる病原菌から身を守るために、尾の代わりに別の部位を動かし続けなければならなくなるのでしょう。
 たとえ短くはなっても、尾は、牛自身にとっては、自身を守るためには簡単に捨てるわけにはいかない、必要な部位なのです。

 水牯牛が僧侶の見立てであるのなら、いずれ人に食べられる水牯牛の胴体や、捨てられる角や蹄や、「意外にも」食べられる尾は、何の見立てなのか。
 私は、今のところ、こんな風に考えています。

・水牯牛 :昔のすごい僧侶
・胴体や足:伝えようとした仏法
・頭   :水牯牛僧侶が生きていた頃の世間の、古い価値観や倫理観
・角・蹄 :水牯牛僧侶が生きていた頃の世間の、古い行動様式
・尾   :水牯牛僧侶自身の自我というべき何か

 牛の尾って、四六時中動いてるんです。虫が来たら追っ払うべく動きが大きく、或いは素早くなりますが、寝てるときも尾だけは、ぱしぱし動いていることがあります。
 牛自分の意志だけで動かしているわけではないように見えるわけです。
 この辺りに私は、僧侶自身の、真底とまではいかなくても、それに基づく自我や、当人本来の感性、そういったものを感じています。


 仏僧の多くは、仏法を多くの人に伝えたいと思っているのだろうと思います。自分の血肉となった素晴らしい教え。いつの世であってもきっと人の血肉となり得る不変の価値を持つもの。
 これが、同時代の、或いは後の世の、人々に伝わることを、心から望んでいるでしょう。

 一方、世が移り変われば、良しとされる考え方や行動の仕方も変わってしまうことがあります。
 すべてが劇的にひっくり返るとまではいかなくても、古い価値観に囚われることは、必ずしも伸びやかな生き方に繋がらない場合がある。
 ならば、これを何が何でも伝えたいとは、仏僧の多くは考えないでしょうし、人がそれぞれの頭で必要な価値観を覚え、それぞれの角で障壁を避け、それぞれの蹄を使って道を歩いてゆくことを、温かく見守ろうと思うはずです。

 しかし、僧侶自身の自我とでもいうべき何か。
 禅僧の多くは、所謂世間智、世俗的な価値観を手放す修行を積む過程で、「無」という境地を目指すあまり、個性や自我の一部も「脱ぎ去るべき不要なもの」と解釈することがあるように、私には感じられます。
 しかし、多くの人にとっては、僧のこの部分も、きっととても大切なものなのです。

「私がどんな人間であろうと、伝える仏法の尊さが、それで変わるわけではあるまい?」と、禅僧の多くは思うかも知れません。
 けれど、実際は全然そんなことはなくて、「それを伝えてくれた人がどんな人だったのか」は、多くの一般人にとってはとても重要です。何気ないエピソードから僧侶のひととなりを読み取り、そのエピソード自体から何かを得ることもあれば、「そんな素晴らしい人が仰ることなら」と、教えをより真剣に受け止めるようになることも、しばしばあるわけです。
 逆も言えます。
 僧侶がどんなに素晴らしい教えを人に伝えようとしても、その僧侶自身のひととなりが受け入れられなければ、その教えは多分すんなりとは伝わらないのです。「うさんくせぇ」などと思われておしまいです。

 自身は「不必要だ」と思い込んでいても、本当に捨て去ったらまずい場合もあると思うのです。

 無の境地に憧れ、自我を徹底的にそぎ落とす修行も、ある側面においては必要なのかもしれません。
 でも、「自分自身がどういう人間なのかは、他の人にとってはとても重要なことなのだ」ということを理解して、いわゆる人間味をほどほどに残しておくと、苦労して自分を産み育ててくれた父母は一層喜ぶだろうし、世間の人も、そして後世の人も、自分の伝えたいことをより一層大切に受け止めてくれるようになるんじゃないかという気がしています。

 ただこの人間味というやつは、まるっきり軽視するのはダメで、かといってこればかり重視しすぎても、それはそれで僧侶としての在り方そのものがダメになるので、そのバランスが難しいんですね。
 僧侶といわれてピンとこない現代人は、例えば医者、弁護士、教師などに置換えて考えたら、この辺りのことが納得しやすくなるんじゃないでしょうか。

 でも、このことは、いわゆる知的な職業の人に限ったことではなく、どんな人も、他の人からそのように思われることはあるのだという気がしてきます。
 つまり、自分も。
 お釈迦さまがみんなに大切に思われ続けているのは、その教えの中身が素晴らしいからだけではないと思うんですよ。お釈迦ですらその人柄がほどよいものだったのに、私が自分の人柄をそうしなくていいなんて話はないでしょうからね。気をつけたいと思います。

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