マガジンのカバー画像

無門関・考察

73
無門関の公案の、個人的な考察です。
運営しているクリエイター

2022年5月の記事一覧

無門関第四十則「趯倒浄瓶」①

 無門関第四十則「趯倒浄瓶」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  潙山の行動に対する無門の評価は、「一世一代の大勝負に出たが、それでも、百丈の掌の上だったな」です。 「惜しい。方向性は悪くないけど、もう一息」という感じでしょうか。  何が足りなかったんでしょう。  それを考えるには、まず、このシーンにおける潙山の意図を読み取る必要があります。  百丈のお題は、浄瓶を用いたものです。  私は最初、「浄瓶」という単語を見て、そこそこ広口のピッチャーかデキャン

無門関第三十九則「雲門話堕」②

 無門関第三十九則「雲門話堕」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  今回は、張拙の句について。  僧侶はいったい、何を訊ねようとしていたのか。  この辺りのことを考えます。  張拙の句の全文は、現代語訳の注釈に付記してあります。  直訳まではしてあります。  結構難解な句です。具体的な意訳までは付記していません。  張拙は、科挙に挑戦した人です。  相当頭が良かったんでしょうね。  周囲の期待を背負って育った人でもあったんでしょう。  まずは、「出世コー

無門関第三十九則「雲門話堕」①

 無門関第三十九則「雲門話堕」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  前回の「牛過窓櫺」で、私は、「伝えたい仏法と、それを伝える僧侶の人間性は、しばしばセットになる」と書きました。  人間性の素晴らしい僧侶の教えは、すっと受け入れられやすくなる傾向にある。  逆に、人間性に難があると見なされた僧侶がいくら素晴らしい教えを伝えようとしても、多くの人には受け入れられにくいと。  では、人間性に難がある僧侶が、素晴らしい教えを語る、とはどういうことなのか。  人

無門関第三十八則「牛過窓櫺」②

 無門関第三十八則「牛過窓櫺」について、綴ります。  今回は、「水牯牛の各部位は何の見立てであるのか」を考える予定です。  公案の現代語訳は、こちら。  前回、私は、本則の全体像を、「水牯牛の死後の体を、人間が、食える部位と食えない部位に分類しようとしている。それを、水牯牛の魂が眺めているのではないか」と書きました。  こんな奇怪なとらえ方をしているのは、おそらく私だけなのだろうと思いますが、私は無門関の構成を「虹のグラデーションのように、前後の公案が密接に関連しながら続く

無門関第三十八則「牛過窓櫺」①

 無門関第三十八則「牛過窓櫺」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「ウミガメのスープ」みたいな公案だなあというのが第一印象でした。  まあ、時系列的には、ウミガメのスープがずっとずっと後に考案されているので、この感想は厳密に言えば変なんですけど。  こういう感想は「それが誕生した時系列」ではなくて、「それらを自分が知った順序の時系列」に添って生まれるのかもしれませんですね。  自己弁護はこの程度にしておくとして。 「ウミガメのスープ」は、一般的には水平思考

無門関第三十七則「庭前柏樹」

 無門関第三十七則「庭前柏樹」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「なぜ達磨はインドから来たのか」  この問い、前にも誰かが投げかけてましたよね。  確か、口で木にぶら下がっている坊さんに対して、問うていた。  何なんでしょう。どうせ今回も、歴史の雑学を尋ねているわけではないのでしょうし、これ、禅僧の間では、半ば慣用表現のようになっているフレーズなんでしょうか。  これに対する趙州の答えは、 「庭先のビャクシンの木」  です。 「この真意をズバリ言ってみろ

無門関第三十六則「路逢達道」

 無門関第三十六則「路逢達道」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  路上で、向こうから誰か歩いてきます。  何やら只者ではない様子です。  さあどうする。  何か言う? 黙ってやり過ごす?  いやいや、やられる前にやるんだ!  犬かよ。  「弱い犬ほどよく吠える」と言うでしょう。あれ、本当です。  どうしようもなく弱い犬は最初から尻尾を巻き、それより少し強い程度の犬は、ウーワンワンと吠えてきます。  しかし、さらに強いボス格の犬は、吠えません。  本当に

無門関第三十五則「倩女離魂」②

 無門関第三十五則「倩女離魂」について、綴ります。  今回は前回の続き、評唱と頌に関して考えます。  公案の現代語訳は、こちら。  肉体の中にあるとされる精神的な何か。  英語の「Soul」、あるいは「Spirit」にあたるもの(私はこの両者の違いがよく解っていないので、ここはさらっと流してください)。  日本では「霊魂」と呼ばれています。  日本の霊魂の概念に関しては今回は触れません。  中国では「魂魄」というものがある、と考えられています。  これ、「魂」と「魄」が合

無門関第三十五則「倩女離魂」①

 無門関第三十五則「倩女離魂」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  今回の公案は、実に考えにくいです。  そもそも題材が、唐代の伝奇小説。  ネタ元の「離魂記」の現代語訳も、公案の現代語訳の後に付記してありますので、よければお読みください。  5年もの間、ひとりの人間が、ふたりに分れてしまう。  最近はこういう事象を、バイロケーションと称するそうです。  いわゆる体外離脱のひとつということだそうですが、幽体離脱やドッペルゲンガーなどとは、それぞれ細かい違い

無門関第三十四則「智不是道」

 無門関第三十四則「智不是道」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  前回の公案で「これが解ったなら禅の修行は修了だね」と書いてあったので、今回からは応用編とでもいうべき内容なのでしょうかね。  だからでしょうか。久しぶりにきました。短すぎてわけわかんない系。  たったこれだけの文章なら、どんな風にも読めそうで、本当に困ってしまいます。  こんなのに「正解」なんかあるわけない。  そう自分に言い聞かせつつ、思ったことを綴ります。  まず、前半について。  馬

無門関第三十三則「非心非佛」

 無門関第三十三則「非心非佛」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「仏とはどんなものですか」  何度も何度も繰り返されてきた問いです。  そんなこと訊いてどうすんの、とすら思うこともあるんですけどね。  いろんな和尚さんが、いろんな答え方をしてきました。  最も馴染みのある答えは、「心こそが仏である」でしょうか。  どこでだったか、前にも書いた覚えがあるんですけど、「森羅万象には心があり、仏性がある」みたいなこと。 「心ではない、仏ではない、物ではない」と

無門関第三十二則「外道問佛」

 無門関第三十二則「外道問佛」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  何かの教えを心から信じる人は、世の中の人を「信者」と「信者じゃない人」に分けて考える癖があるんでしょうかね。  ここでいう「外道」とは、異教徒のことを指すようなのですが、違う教えを信じているというだけで「道から外れた者」と呼ぶのですから、随分だなあという気が少しばかりします。  仏教に限らず、キリスト教も、イスラム教も、その他の宗教も、みんな多かれ少なかれそういう傾向がある。  そこからする

無門関第三十一則「趙州勘婆」

 無門関第三十一則「趙州勘婆」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  テレビ朝日系の名物企画番組のひとつに、「格付けチェック」というものがあります。  もともとは、「人気者でいこう」という番組のコーナーのひとつだったのですが、ことさら人気が出てしまったので、独立させたのでしょう。  高級なものとそうでないもの、プロと素人、こういう二者を並べて、どちらが高級なほうなのかを出演者にあてさせる、という企画です。  無事当てれば、なんと物を見る眼の備わった御仁かと褒め

無門関第三十則「即心即佛」

 無門関第三十則「即心即佛」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  仏とはなんぞやと問われて、「それは心である」と答えるしかないのは、なんとなくわかります。  心は、どう生きるかの原動力となるものですしね。  我仏たらんとまず自らに定めるもの。  でも、心というのは、目には見えません。  なので、心を知ろうとするには、その人の、表情、言葉、行動を見て、そこから推測するしかない。  転んで泣いてる子供をニコニコ助け起こそうとする女性を見た連れの男が、ああボクの