見出し画像

不完全冬眠をめざして

ちと疲れてしまった。

元来、忙しいのは一番嫌いだ。

どこか旅にでも出たい。できれば水の音が聞こえるところがいい。滝か海か湖がいい。日がな一日、なにもせず、うるわしき来し方を想い、水に視線を潜らせたい。

以前「3月は社会的活動をしない」と宣言したことがあったけれど、結局これは完膚なきまでに失敗した。なにかを頼まれればついつい引き受けてしまうのが自分だし、同時並行的に色々動いている今の身分で完全に「ゼロ」になるなんてどだい不可能なんだろうな、と半ば諦めてはいる。

なんでやるのか分からない。動くしかないからやるのだし、やるしかないからやる。「やってこ!」の精神は深く根付いてしまっている。

だからまあ、精神状態はそれほど良くなっていない。時たま動悸がするのも治っちゃいない。

LINEが疲れる、メッセンジャーが疲れる、SNSで人からリアクションが来ているかどうかを確認するのが疲れる、誰かに連絡をしなくちゃいけないのが疲れる、Googleドキュメントであれこれ作るのが疲れる、スーパーで買い物をするのが疲れる、講義の前準備で本を読むのが疲れる。

外に出るために身なりを整えるのが疲れる、

人と話すのが疲れる、

考えるのが疲れる。

5月は、五月祭で「文学セッション」という企画を実施した。50名キャパの教室に立ち見の人もたくさん来てくれて、あれ自体は成功だったと思う。

ただし自分はこの企画を最後にしばらく「何もしない」つもりだった。LINEのアイコンも「冬眠」の自筆画像に変え、社会的無能力者に成り下がったことをなんとも健気にアピールしている。

けれど今また何かに追われている。誰が悪いのでもない。自分が悪いのでもない。

負っているタスクは現在あと一息まで来ている。漱石の『道草』のゼミ準備を終えれば、「やらねばならないこと」からは解放される兆しが見えてきた。とはいえそれも一瞬だろう。大学3年生はみんな就職活動がお好きだから、自然、自分も動かねばならない仕儀になる。

『道草』の主人公、健三は言う。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」

この言葉は今の自分にしんどく響いてくる。論理的に捉えられない。つまり健三に己を投影してしまい、とてもじゃないが研究的視点で見られない。だって俺はすべてを片付けたくて仕方がないのだから。

いつか片付く日が来ればいいな、と思う。

たとえそれが自分の命まで一緒に片付いてしまう日だとしても。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?