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コロナ禍のあれこれを忘れないための記録と雑感(3万字)

〈2021年12月・追記〉
いま読み返してみると、内なる左翼ソウルをまったく抑えきれていない記事ですね。恥ずかしさすら覚える。まあ「そういうもの」として読んでください。
※「おまえは本当に人様に読んでもらう気があるのか」と言われそうな分量になりました。でも動機としては自分のために書き始めたとはいえ、公開している以上は読んでもらえたほうが嬉しい。興味のあるトピックスだけでも目次から拾い読みしていただければ幸いです。

「コロナ禍」をとりまく状況がきわめて流動的なので、その時々における自分の見解だとかを定期的にちゃんと書き残しておこうと思います。Twitterではツイートしていますが、やっぱり140文字は短いなーと。

なんせ3月くらいからニュースの情報量がずーーっと膨大で、気を抜くとすぐ忘れそうです。コロナ禍を差別や思想や人間性の「可視化装置」だと捉えれば、それら色々なニュース同士はゆるやかな連関を持っていて、ならばひとつの記事にまとめてしまおうと思いました。

この記事を作った理由は以下の3つ。

1.諸問題を自分なりに概観するため
2.ひとつの記事にまとめて、後から参照できるようにするため
3.この間のニュースを忘れないため

特に③です。あまりにも情報のスピードが速すぎる。近現代史研究者の辻田真佐憲氏は、大きなニュースが次々消費されて忘れられていくことに警鐘を鳴らしています。

時系列に並べず、思うままに書くうち、テーマが多岐に渡りすぎました。また先に予防線を張りますが、所詮はただの学生です。捉え方が浅い部分、認識が誤っている箇所などもあるかと思いますので議論や指摘は常に歓迎です。(ただし優しくしてください。)

それと、結果としてごく普通の内容しか書けず、「優等生の作文」的な性格を免れないこともあると思います。しかし紋切り型を恐れてはいけません。 なんでも旗幟を鮮明にすればいいってもんじゃないし、なんでもオリジナルかつ極端な「答え」を出せばいいわけじゃない。最近は特にそう思います。

ちなみに個々の政策や医学的妥当性についての評価は僕にはよく分かりません。特に政策面に関しては東工大准教授の社会学者・西田亮介先生のTwitterや著書をおすすめします。

ジモコロで取材をさせていただいた縁があるのですが、彼は淡々と政策を評価していくあまり右翼からも左翼からも不興を買っているような人です。なんらかの「流れ」に与しないその動じなさを、僕は勝手に信頼しています。

1.自粛ムードというものは存在しない

2月にダイヤモンドプリンセス号のニュースをぼんやり観ていたような時点から、「COVID-19って本当にヤバいんだな」というモードへ、認識が切り替わるポイントが人それぞれあったはずだ。僕の場合は3月下旬に読んだこの記事だった。

だからこれを読む以前、3月上旬に全国の学校が一斉休校になったときは「いったい何をやっているんだ」と半ば本気で思っていた。今となれば、あの休校はなかなかの選択だったと言えそうである。(まあこのときは政府が予定通りにオリンピック開催するつもりだったからですが……。)

コロナ禍の世を生きる難しさは、人によって「認識」のターニングポイントも違えば強度も違うところにある。緊急事態宣言の発令中はさしあたり「家にいる=正解」とされていたが、解除後は「答え」がなくなった。家にいるのも正しいし、感染防止に気をつけながら外に出て経済を回すのも正しい。基礎疾患の有無なんかも関わってくる。各々の「正解」を認め合う寛容さが求められるし、その時々における「正解」を考えながら行動しなくてはならず、脳には余計な認知負荷がかかり続ける。自然、パフォーマンスは落ちるし、心身に悪影響が出やすい。

それにしても、「自粛ムードが明けたから集まろう」という言い方にはまさに日本的な同調圧力が集約されていると思う。他にも「緊急事態が明けたら」「コロナが明けたら」なんて用法も見られ、「コロナが明ける」って一体どういう定義なのか疑問ではあるが、このへんもおそらく「自粛ムードが明けたら」の意で言っていることが多い。

ただ、実は「自粛ムード」というものは存在しないのではないか。メディアや著名人、何より我々自身が「自粛ムードが漂っている」と言った瞬間、「なかった」はずの自粛ムードはそこに「ある」ことになるのだ。このとき言葉は実存に先行している。「予言の自己成就」にも近い。

そんなわけで「いつになったら外に出ていいのか分からない」といった面妖なボヤキがそこかしこで発生する。実際これは「分からない」のではなく、「わからない」という身振りを通じて他者の反応を窺っているに過ぎない。そして他者の言動を鏡とし、自分の内部にある規律(超自我のような)が自分に「良し」と言ってくれるのを待っている。

ないはずの「自粛ムード」を気にする必要はないし、近代を生きる市民としては「外出の可否」の判断くらいは自分で引き受けても良さそうなものだと思うけれど、いかんせんこの国では「ウイルスに感染したとしても、自己責任(後述)で外出したんだから仕方ない」と周囲に切り捨てられる危険性がつきまとう。よって誰かの「主体性のなさ」を、「そのくらい自分で判断しろ」とあまり責めてはいけない。

(個人的には、東京では「第一波」がゆるやかに継続しており今後も状況は変わらないと思っているため、「まだなんとなく怖い」とする感覚に共感できない時はある。「まだ」なる副詞は、待てば状況が良くなるはずだという未来への信仰を暗々裏に含んでおり、僕はその信仰を共有していないからだ。)

ムードと言えば、もはや誰も覚えていないかもしれないが、トイレットペーパーが消えた件はまさに「ムード」の為せる業だった。あれはデマ自体というよりも、「トイレットペーパーが品薄になるらしいというデマが流れている」という話が流布した時点でもう詰みなのだ。いくら買い占め行為を愚かだと認識していても、他の人たちが買い占めてしまう以上、ゲーム理論的には「自分も多めに買っておく」が最も合理的な選択となる。これは市場システム自体の弱点と言う以外になく、生活者単位ではどうにもできない感もある。できるのは無根拠な話を拡散しないように努めることくらいか。残念ながら国民全体のリテラシーを引き上げる特効薬はない。

マスクの着用だってムードに左右されている。そもそもは感染拡大防止のためにつけるもののはずが、今や半ば「マナー」と化している。その証拠に、3月ごろは「一度つけて外したマスクはもう使うべきでない」「ポケットにしまってはいけない」と医療者の方々が注意喚起していたのに、今では「とりあえずつけてればいい」的な暗黙のコンセンサスが完成している。水分補給の要る夏だし、上のルールをいちいち守っていたらマスクが何枚あっても足りないだろう……というコストの論理は果たして「マスクのマナー化」の根拠たりえるのか。

結局のところ、医学的に妥当な根拠さえも「ムード」で簡単に掻き消されるのだ。一日の中で何度もつけたり外したりするであろう、つまり衛生的には100点と言えないだろう「マイマスク」の装備を都知事が実践し始めたあたりからマスクは「飛沫の拡散さえ軽減できればあとはなんでもいい」ものと化した。そして「マスクをつけているほうが賢明な市民っぽく見える」というアイコン的な意味を獲得するに至る。ただし皮膚が弱かったりいろいろな事情でマスクをできない人も多いわけで、我々は決してこのアイコン的意味に囚われるべきではない。(なお、アベノマスクはもはやどうでもよすぎるので言及しない。)

あと、些細なことだけれど「コロナは○○を教えてくれた」「コロナは人類に○○というメッセージを伝えている」という類の表現はぜひとも撲滅されてほしい。ウイルスは何も教えていないし何も伝えていない。いざ自分や周囲の人がCOVID-19関連で辛い目に遭ったとしたら、殺人ウイルスを勝手に「教訓をもたらしてくれる存在」と評する人を見たとき、きっと平常心ではいられない。誰もがそのくらいの想像力は働かせてくれないと困る。

2.「コロナ禍に伴う自粛」は民主主義的なのか

日本の緊急事態宣言は「お願い」ベースで、罰則規定がない。それ効果あるのか?特に変わらないのでは?と僕は疑問視していたが、いざ発令されてみると街の様相は一変していった。基本的人権を侵さないギリギリのライン上を行く、良く言えばわりと高度な要請、悪く言えば責任分散型のアクションである。(もっとも、ダイヤモンドプリンセス号における「軟禁」は素人目には人権侵害に類するものにしか見えなかった。)

罰則がないにもかかわらず、「ステイホーム」できる人は一様に引きこもった。これはいわゆる日本的な同調圧力がうまく機能したと評価している。逆にそれが悪いほうに機能すると、感染者の家に石を投げる輩が登場したり、「自粛警察」が出て来たりする。中世みたいだ。

だから一長一短ではありつつも、単純な所感としては、思った以上に日本人は「自粛」するのだなと感心した。というのは、なんといっても選挙のときは「自分ひとりが投票したところで別に何も変わらない」として投票に行かない人も多い国だから。この言い分を応用すれば「自分ひとり外出したところで別にどうってことはない」という一種の独善的モードが成立する。

このnoteを書き始めるとき、自粛とはもしかして「個人の行動が全体に影響を及ぼす」というテーゼを内面化したきわめて民主主義的な行動なのでは?と思ったけれど、たぶん違う。政治問題のときは動かず、生死が関係しているときは動くだけだ。そして「政治だって中長期的に見れば生死に関わる」ということがあまり分かられていないだけだろう。

とはいえ少なくとも、「政治は生活に直結する」こと自体は今回多くの人が実感するようになったのではないか。

ウーマンリブの標語に、"The personal is political"=「個人的なことは政治的なこと」というのがある。直接の意味としては、男女関係や夫婦関係におけるパーソナルな悩みもじつは男性社会という構造ゆえのものだったりする……ということだが、まさしくコロナ禍は個人的な問題であり政治的な問題でもある。

つまるところ、政治的無関心が叫ばれて久しい日本の民主主義が多少なりと「復活」しうる兆しがあるとすれば、この2020年という地点をおいて他にはないと思う。そういう意味ではちょっと期待している。甘すぎるだろうか。単に、投票は能動的に足を運ぶ必要があって、「ステイホーム」は受動的だから日本人に合うんじゃないの、と言われてしまえばそれはそうかもしれない。

また、Twitterにおける検察庁法改正案反対のムーブメント(後述)においてはきゃりーぱみゅぱみゅに「政治のこと分かってないくせに発言するな」「歌だけ歌っていろ」とのコメントが大量についた。日本の市民意識の地平が今のところ所詮この程度である、という現状認識を得られたのは貴重だったと思う。日本における「偶像」の在り方とマンスプレイニングの問題でもあるので、これも忘れたくない一件だ。

3.Zoomにおける偶然性の不在と空間的格差

すごく個人的な話だけど(と書いてから、noteだから個人的な話するの当たり前だよなと思った)、3月~5月あたりの僕の精神状態はひどいものだった。ほとんど雑談をするために生きてるようなところがある自分にとってみれば、「雑」なものが失われつつある今の世界はあまりにも「冬の時代」だ。ちょうど就活も重なっていて、鬱状態の産物としか言いようがない症状が身体的にも出ていた。

大学のZoom授業も、良い点はもちろんあるにせよ、特に発言が必要になるゼミ系はストレスになっている。というか基本的にはZoomがキライだ。あれは「必然性・合理性」を突き詰めるツールだから。企業勤めの人からは、「会議と会議のあいだの雑談」がないから人と仲良くなりづらいとかいう話も聞く。

大学生なら、たとえば無軌道にキャンパス内を歩き、出くわした友人とどうでもいい会話を交わすとか、ゼミが終わったあと、そこにいた数人で何となく集まってご飯を食べるとか。そんな「偶然性」や「無駄」を自分が思いのほか強く愛していたことが分かった。「偶然とは思考枠を変える火花である」とは社会心理学者・小坂井敏昌先生の言葉。

高齢者が地域のクリニックに入り浸る気持ちも分かった気がする。「行けば誰かしらがいて、テキトーに喋れる場所」って貴重なのだ。

会話のためにわざわざ貴重なアポイントメントを取ると、多くの場合、なんとなく「有意義なものにしなきゃ」「楽しませなきゃ」という心持ちになる。それはそれで素晴らしいんだけど、一方で、「貴重な時間」じゃないからこそどうでもいい愚痴を言えたりもするわけだ。いわゆるサードプレイスの意義のひとつでもあると思う。

さらに僕の場合、いちいち意識はしてないものの、「家にいる自分」と「友達と話している自分」が明確にキャラクターとして分かれているのだろう。Zoomだとその境界がぼやける。「移動」という切り替えスイッチがなくなる。結果、ただシンプルにパフォーマンスが落ちただけのダメ人間状態がダラダラ続くこととなった。最近は「ダメ人間でもいいのだ」という諦めを実装できたので、しばらくは低パフォーマンスのまま安定期が続くと予想している。

PCをいじりながら講義を聴けるのも良くない。僕はそもそも講義を聴くのが苦手だし、どうせPCで映像を観るのなら川口春奈のYouTubeチャンネルを再生していたほうが楽しい。それくらいは誰でも分かるしネコでも分かる。

また我が家においても、緊急事態宣言の発令中はふだんよりも家にいる人の人数が増えた。社会不適合者の謗りを免れないかもしれないけど、一人でいたいときに一人でいられないのはストレスであり、家族だろうが何だろうがやっぱり四六時中一緒にいるのはしんどい。

家にいる人数分、快適に過ごせる部屋があるかどうか。言わばリモートワークが顕在化させる「空間的格差」とでも言えよう。それは経済的格差と(必ずしも相関関係にはないにせよ)密接に関係していることが多く、簡単にどうにかなるものでもないから、なんだかなぁと思う。抜本的な解決策は特にない。

4.「9月入学案」とは何だったのか

コロナ絡みで地味に忘れちゃいけないと思うのが、「9月入学への移行の議論がわりと本気で行われようとしていた」という事実。ゼロ年生とは何だったのか。そもそもなぜ秋にはウイルスが収束すると無邪気に信じていたのか。

以前は僕も「それがグローバルスタンダードならいつかは9月入学にすればいいのでは」「漱石の『三四郎』の時代は9月入学だったし」とぼんやり考えていた。ところが具体的に検討されてみると、教員数も教室数も圧倒的に足りない上、たとえば綿密に練っていた子どもの学資金計画がパーになってしまう家庭もあったりと、あらゆる意味で夢物語であることが分かった。「拙速」の二文字を体現したかのような議論だった。少なくともすぐには移行は無理なのだ、と明らかになっただけでも収穫かもしれない。

「非常事態だからこそ、普段ではできないラディカルな決断を」といった意見も叫ばれていた。これは一面においては真かもしれないが、まあだいたい無責任な発言であることが多い。仮に9月入学を導入するとしても、平時に数年かけてゆっくりと動かすほうがいい。非常事態に不確定要素を上塗りしてどうする。「過去はこうだったから」「海外ではこうだから」という耳障りの良い言葉にはリアリスティックな検証が欠かせない。

そもそも20世紀末から断続的に議論されていた9月入学導入の主目的は、アメリカやヨーロッパの大学に始業を合わせることで留学生の行き来をしやすくすることだった(たぶん)。そこにコロナ禍という全くの別物を抱き合わせる合理的な理由はない。「9月入学に変えたところで有名大学に通う上位層が得をするだけだ」という反対意見も見かけた。僕は9月入学がどれほどの効果をもたらすのかよく分かっていないが、大学改革ということで言えば、企業人がリカレント教育を受けやすくするシステムの整備のほうが先決だと思う。日本の大学を「復活」させたいなら余程そっちだ。僕自身にも期するところがあり、一旦は企業で働いたとしてもいずれ何とかしてアカデミアに関わりたい。

とはいえ、9月入学によって「あと半年」が空白となっていれば助かっていた人もいるので一概に失策だとは言えない。教育の遅れの解消はその最たるもので、半年のモラトリアムがあれば態勢を整えられたのに、といった声があるのも知っている。一応「大学入学共通テスト」は基本的に2つの日程に分けて実施されるらしく、本質的な解決にはなっておらずとも現状はそれくらいしかできないのだろう。

大学に関しては、「図書館などの教育インフラが使えないのだから学費を返してほしい」というムーブメントも出てきた。ここでは、たとえば講義のあとに高名な教授に質問をして関係を深めたり、同じ学問を志す学友と繋がったり、といった目に見えないものも「教育インフラ」の一種と捉えて差し支えない。

学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」の調査では、2割程度の学生が「退学を検討する」と回答した。実際、収入が落ちてしまった学生はかなり多いと思う。

難しいのは、「教育の質が低いから授業料を下げろ」という論理が、中長期的に見れば「教育の質を高めるので授業料を上げます」という大義名分に容易く反転する可能性を秘めているところだと思う。ただでさえ藝大や東工大といった国立大でも学費の値上げが問題になっている。

東大は独自の緊急給付型奨学金や、コロナ禍による家計急変に伴う授業料免除システムを手早く整備していた。が、他の大学の事情まではキャッチアップできていない。(正確に言えば、調べる気力がない。。)

一方Twitterなんかを見る限り、大学教員の側も、単純にタスクが増えていて大変だと言っている。リモート授業用の機器が自腹だったりする場合もあるらしい。というか、まずもってリモート授業を実現できておらず「自学自習」状態になっている大学だってある。

自学自習状態はさすがに解消されるべきだけど、どうやら「リモートになって授業の質が下がっている」とか文句を言っている学生もいるらしい。もちろん実験が必要だったりする理工系や生物系、美大やその他実習系の授業が必要になる学科なら、文句のひとつも言いたくなるのは分かる。

しかし文科系の学生がそれを言っているようなら今すぐ認識を正したほうがいい。まず授業というものに期待するべきではない。いつまで「生徒」のつもりでいるのかと言いたいし、まさに「学生の『生徒』化」(後述)現象を如実に表すセリフである。ちょっと『三四郎』の与次郎の言葉でも引いておく。明治時代の東京帝国大学でも授業はつまらないのだ。

「講義が面白い訳がない。君は田舎者だから、今に偉い事になると思って、今日まで辛抱して聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢以来こんなものだ。今更失望したって仕方がないや」
(夏目漱石『三四郎』新潮文庫版より引用)

「質が低い」と思うならば授業なんてテキトーに流しておいて、教員の学説にケチをつけるくらいの心構えで自分で勉強すればいいと思う。それが志ある文科系学生の在り方だ。

さて、環境的にも経済的にも今回たまたま大きな被害をこうむっていない僕の感覚としては、大学4年生で良かったなと。もうサークルは引退しているし、クラスメイトや学科の人とも関係を構築済みだし、留学もしないし。自分が経験してきた小学校~大学というスケールで考えれば、コロナ禍によって失うものが比較的少ない一年間な気はする。(あくまで自分に限っての話。)

僕はとにかく高校時代を楽しく過ごしたから、もし自分が高校生のときにコロナ禍に見舞われていたら……と思うと一番ぞっとする。行事もない。分散登校が導入され、夏休みも少ない。

はてなブログのエッセイ的な記事にも書いたけれど、人の悲しみの総量は相対的に測れるものではないから、「自分よりもっと辛い人がいるんだから自分は我慢すべき」なんてことは言いたくない。しかし、少なくとも僕の立場からすれば「自分よりもっと辛い人」は確実にいる。生き甲斐や青春の軸を奪われた人もいるし、生命や生活が脅かされている人もいくらでもいる。最低限それは忘れないでおくべきだ。

5.巷間の自己責任論にイラついて新聞に投書した

自分の投稿が朝日新聞の投書に載った。狙いに狙った内容とはいえ、ほんとに載るとは思ってなかった。載ったからといって前よりモテるようになったみたいなことは一切ない。朝日新聞社からは3,000円分の図書カードがもらえたので先日ありがたく使った。

ここに書いた問題は本当に深刻で、Twitterでこういった意見を見かけるたび、思ったより偏狭なヤツって多いんだなと暗澹たる気持ちになる。もちろんTwitterのタイムラインは同質性の高いエコーチェンバーなので、社会には実際もっとウジャウジャいるんだろう。

フリーランスに限らず、「王道のレール」的な道を歩んでない人にきつく当たるのは完全に前時代的な「大企業病」である。フリーランスは企業に属さず好き勝手にやってるんだから贅沢を言うな、みたいな根性が透けて見える。

そういう人はおそらく個人のアイデンティティーを「企業」に求めすぎている。実際には「企業人」である前に「日本国民」や「都道府県民」であって、生命が脅かされうる危機的状況のときは企業なんかよりも国や行政単位でのアイデンティティーが優先されるのは当たり前だ。特に今回の件は避けようがないタイプの厄災である。

労働者がフリーランス的な仕事スタイルを選びやすくなることは働き方の多様化を促し、長い目で見れば日本の労働市場を耕すことに繋がる。その動きを封じるような物言いはまさしく短絡的と言う他ない。タイムマシンで昭和の日本にでも飛んで行くことをおすすめする。

……なんかもう悪口しか出てこないのでこの話題は早めに切り上げるけど、上野千鶴子的に言うなら「昭和的オヤジの再生産」は若年層においても盛んに行われてるんだなあと思った。我々の世代でなんとかしたい。

やや余談だけど、「オリンピックは即刻中止にすべき」という主張強めの投書もメールしていたが、そちらは採用されなかった。朝日新聞社はオリンピックの公式パートナーだから致し方ない。以下、供養ということで全文を載せておく。

 新型コロナウイルスの感染拡大は何をもって「収束」と言えるのか曖昧ですが、少なくともワクチンの開発と実用化は一年程度では難しいと聞き及びます。米ハーバード大の研究チームは先日、「二〇二二年頃までは断続的な外出規制が必要」との予測を発表しました。
 
 こうした見通しを踏まえると、来年の夏に東京オリンピックを開催することは到底不可能ではないでしょうか。仮に国内で感染を抑え込んだとしても、世界のどこか一ヶ所でもウイルスの脅威が続いている限り、その地域からは人が来られず、僕たちの思い描くオリンピックにはならないはずです。

 大河ドラマ『いだてん』で、日本には、一九四〇年に開催されるはずだった東京オリンピックを、日中戦争が原因で返上した過去があると知りました。オリンピックは平和の祭典です。今行われているのもまた人類とウイルスとの「戦い」ならば、できるだけ速やかに中止の決断を下し、大会の予算を「前線」である医療領域や収入減世帯への給付に投じるべきです。栄誉ある撤退を願います。

 僕もオリンピックが楽しみです。だからこそまずは戦いを終わらせ、世界に笑顔が戻ったのち、東京で平和の祭典を開きましょう。一九四〇年のリベンジを果たした一九六四年大会のように。

今もう一度書き直すなら「戦い」という言葉はなるべく使用を避けるだろう(後述)。字数制限があるので説明も足りていないし、情感たっぷりに説得する雰囲気が出ていて少々恥ずかしいけれど、この投書の考えの大枠は今もあまり変わらない。

ただ、都知事くらいじゃオリンピックの可否や延期に関する権限がないことも3月の延期の一件で分かったので、日本の行政に訴えても仕方ないような感じはする。誰か早く口火を切ってくれ。(もしかすると、市場全体としてはギリギリまでオリンピックが「ある」前提にしておくほうが経済の廻りが良かったりするのかもしれない。邪推に過ぎるか。)

6.Twitterの世論は「世論」と言えるか

今のところ、検察庁法改正案の見送り・廃案はTwitterを中心にした「世論」の動きの成果ということになっている。芸能人もたくさん参加した。「政権を信用するか/検察の無謬性を信用するか」とある意味わかりやすい二項対立に落とし込みやすい問題だったので、誰でも参加しやすかったことも盛り上がりの一因だと思う。

「問題の所在がよくわかっていない人は政治的発言をしないべきだ」のように強圧的な声も見られたけれど、そもそも「問題の所在がよくわからない」「自分でめちゃくちゃ調べてやっとわかる」という時点で政府が国民に説明責任を果たせていないことになる。だから、「よくわからないのでとりあえず反対」と言うのだってれっきとした意見表明だ。(とは言ったものの、もちろん「わからない」ままで良いとは全く思わない。調べようよ。)

デモ的運動に、スマホで、指1本で参加できる。若者を中心に政治的関心の上昇に寄与するので、こうした動きは基本的には歓迎すべきことだと思っている。

しかし実のところTwitterは「議論の場」としてあまり適切ではない。フォロワー数の多い芸能人の意見のほうが、フォロワー数の少ない専門家の意見よりも影響力を持つ世界である。人気商売の延長なのだ。東浩紀氏も「(たとえば3・11のときと比べて)有名人の影響力がやたら増しただけであって、SNS民主主義自体が進歩したわけではない」と見ていた。

僕自身はと言うと3月、学習院大学卒業式の謝辞について、はるかぜちゃんのツイートを引用RTしてちょっとした議論になった。まだコロナウイルスへの危機意識をはっきり持つ前で、今思えば「そんなことしてる場合か」と言いたい部分もあるけど、あの謝辞もやはり自己責任論を助長するテクストだと判断したから、意見を表明した。謝辞の全文は以下の記事の1ページ目に載っている。

でも結局、ファンはもちろん彼女を擁護するわけだし、リプライによる議論はどちらかの都合で打ち切りにできてしまうので、正直なところあまり「議論」として成立していたとは思えない。

つまりTwitterの声は確かに「世論」の一部ではあるのだけど、それをどの程度まっとうな「世論」と認めていいのか?僕は判断しかねている。というかTwitterのアルゴリズムはあまりに複雑だから、こんなの定量的に判断できる人はいないだろう。 菅官房長官が『うちで踊ろう』動画(後述)について「35万を超える"いいね"をいただき」とか言及してたけど、もちろん「いいね」=賛同ってわけでもない。

法廷において判例が重要な意味を持つように、次にTwitter世論が盛り上がったときは「前例」を気にかけて政治に反映されていくことも有り得ると思うけれど、当然これは危うさを孕んでいる。

最近は、冒頭でも紹介した西田亮介先生が「民意に耳を傾けすぎる政府」に警鐘を鳴らしている。本当に必要な政策なのであれば国民への「説明・説得」をすべきなのに、現政権にはその姿勢が見えず、「民意」を気にするあまり適切な説明プロセスを欠いているのでは、と。僕はこの指摘は当たっていると思う。

それに「Twitter世論」で政治が動いた様子は、Twitterをやってない人の目にはどう映るのか。それはまさしく民主主義からの疎外ではないか。

今回はTwitterの「民意」がおおむね政治的に正しく機能したように思うけれど、今後まったく逆のことが起こる可能性もある。政治参加の手段として、「選挙に行く」や「デモに参加する」に加えて「Twitterで声を上げる」が今回本格的に加わった感があるが、選挙の1票とTwitterでの1ツイートではどちらが重いのか。個人的には当然「選挙だ」と言いたい。が、これも定量的には判断がつかない。

他に留意すべきは、別にTwitterをやっているからといって「政治的なことを言わなければいけない」わけではないという点。「同調圧力に屈しないで意見を表明すべきだ」という同調圧力が発生するようなら、それはそれでまた下からのファシズムと呼べるだろう。

真面目な意見を発信したい人、仕事のなかでSNSを活用したい人、ネタツイをしたい人、しんどい時に吐き出したい人。目的を異にした人々が集まって形成される「闇鍋」的ヴァーチャル空間としてのTwitterは、闇鍋であるがゆえに、なんだかちょっと難しいツールになってきている感覚を覚える。

7.ぼやける境界線、批判か?誹謗中傷か?

SNSつながりで言うと、『テラスハウス』出演者・木村花さんの自殺という痛ましい事件もあった。また、ジャーナリスト伊藤詩織さんが自らへ向けられた悪質なツイートをめぐって訴訟を起こした。「誹謗中傷」というワードをこの数ヶ月だけで何度目にしたか分からない。

Twitter社は「悪質な投稿に関してはきちんと対応しています」的なアナウンスを出していたが、はっきり言って何も制御できてはいない。LINEやZoomにも言えることだけど、ひとつの会社が運営するひとつのツールがこれほどまでに「公共」的性格を持ち、政治に影響を及ぼし、人の命まで奪っているのは不思議だ。Twitter社の責任は重い。

そもそも「RT数・いいね数」が表示されてしまうことが人の承認欲求を煽るわけで、僕はそれを非表示にしてしまえばいいと思う。けれど今や「Twitterでの拡散」やそれを基にしたつながりを仕事の重要ファクターにしてる人や企業も大勢いるから、現実的にはそんなことはできないだろう。

(なお、以下のnoteでも触れている「Janetter」というアプリは非常におすすめできます。「いいね数・RT数」といったノイズを見なくて済む。)

結局、脊髄反射的な動きを避けてひとつひとつの発信/受信に慎重な態度をとるべきだ、という当たり前の心構えを反復する以外にない。むろん「当たり前」だからといって必ずしも簡単なことではない。

また頃合いを同じくして、幻冬舎・箕輪厚介氏のセクハラ問題も明らかになった。メッセンジャーの履歴が残っているのだからもはや弁明の余地はないし、元々過激なキャラクターで知られていたこともあって批判は集中した。その帰結として彼はニューズピックスブックス編集長を退任、様々な活動を「自粛」した。

僕はフェミニズムに関心が強いこともあり、箕輪氏を許す気にはなれなかった。権力のある男性編集者という「強者」が、女性作家という「弱者」に向けた下心。箕輪氏を怒らせないよう慎重に為されたであろう、「NO」を示す言葉選び。典型的なパワハラでありセクハラである。

(フェミニズムというだけで異様に嫌う人もいるが、要するにフェミニズムというのは「あらゆる権力性に敏感であれ」というきわめて現代的な標語を敷衍しているだけのことだ。)

とまあ、これだけなら「権力のある人が卑劣なセクハラをしたからある程度の社会的制裁を受けた」という話で終わる。僕がもっと考えたいのは、渦中の箕輪氏が一言「死にたい」とだけツイートしたことについてだ。否応なく、木村花さんのニュースを想起させる言葉。

僕は箕輪氏の人柄を知らないので、「死にたい」がどれほど「本心」なのかは分からない。が、もしも仮にSNSにおける一連の「批判」を受けて当事者が本当に自殺をしてしまった場合、その批判に加わって石を投げた人の心はきっと無事では済まないはずだ。「殺人」の一端を担ってしまった、と。

この問題は、「批判」と「誹謗中傷」との間に明確な線が引けるのか、という普遍的な問いに収斂する。批判は「論理的」なもので誹謗中傷は「感情的」なのだとか、そんな明瞭なコントラストが存在するわけではない。罪を憎んで人を憎まず、という場合の「罪」と「人」はどのくらい分化させられるのだろう。僕は今のところ大した答えを持ち合わせていない。「批判」が「批判」として成り立つことが良い社会の条件だとすれば、正しい「批判」とは何だろう。

人の罪を裁くことはそう簡単ではない。簡単ではないから国家には司法が存在し、プロフェッショナルである弁護士や検察官や裁判官が日々神経を使い、膨大な判例を参照し、「裁き」が行われる。一方、インターネットでの「社会的制裁」にこうしたプロセスは必要ない。当事者にいくらでも直接的な言葉をぶつけられる。

ちょっと位相の違う話だけど、とりわけ大学生は「批判」ということについてよく考える必要がある。大学生は「学生」であって、教師から教育を施される「生徒」ではないからだ。

すなわち高校生まで(生徒)と違って大学生(学生)は「研究者」の端くれであり、わけても人文・社会系の研究者は「現状への批判者」という性格を強く持つ。だから僕は文科系の学生として、ネット上での批判のこともよく考える義務があると自認している。

さらにもうひとつ。最近は、誹謗中傷でなく「批判」ならば絶対的な正義なのだ、という大義名分に寄りかかる風潮が強いと感じる。これはこれで慎重になるべきだ。ひとくちに批判といっても、建設的な批判とそうでない批判がある。ダメな批判は、往々にして「誹謗中傷」との境界もぼやけてしまう。

たとえば政府公認の接触確認アプリを作ったエンジニアの方への、アプリの不具合にまつわる「批判」。これは「開発者が無能」などといった「誹謗中傷」的成分をふんだんに含みながら膨らんでいき、結果、優秀かつ公共心の強いエンジニアの心をただただ傷つけただけだった。(この場合、エンジニアの方が矢面に立ってしまったこと自体が行政によるガバナンスのミスかもしれない。)

批判の的の先には必ず自分と同じ一人の人間がいる、という想像力の欠如。「不完全」ならば何でも叩いていいのだ、とする雑駁な精神で行われた批判は、蓋し「誹謗中傷」へと転じやすいのではないだろうか。官僚、電通、ワイドショー、糸井重里あたりはなぜか「無条件に叩いていい」みたいな扱われ方をしているが、ひとつひとつが本当に建設的な批判たりえているかどうかは再三自問しながら発言する必要がある。

8.『うちで踊ろう』とブルーインパルスをどう読むか

4月、官邸の公式アカウントが、星野源の『うちで踊ろう』と安倍首相のくつろぐ姿を組み合わせて投稿した。5月、防衛省の主導で「医療従事者への感謝」の証としてブルーインパルスが東京の空を飛んだ。賛否を呼んだこれらふたつの問題は、似た構造を持っているのではないか。(もっともブルーインパルスのほうが国民からの「賛」は多かった。)

キーワードは、オブジェクトやインシデントの「象徴的意味」。発信者の意図と、受信者の解釈。憲法第1条に「象徴」と書き込まれている国なのだから、こうしたことについては誰もが深く考えるべきだ……というのは、あながち無理なレトリックではないと思う。

前提として政府は、音楽などの文化・芸術従事者への補償も、医療従事者への支援も満足にできていない(いなかった)。僕は当事者ではないが、ライブハウスを運営している人や、実際に医療現場でひとつのマスクを使い回し続けている医療者の切実な悲鳴がネット上にいくらでもあふれていた。

つまり国民の反発の根底には、「パフォーマンスに頼ってる暇があれば補償や支援をしろ」という率直な国民感情が大前提にあったと考えていい。これがもし政策が問題なく走っている上でのパフォーマンスならば、世論としてはまた違った潮流になった可能性もある。(ただ僕はどちらにせよ糾弾していた。)

まず『うちで踊ろう』は、「右」とも「左」ともつかぬその空白性ゆえに政治利用されてしまった。ひとりの星野源リスナーとしてあの全体的なムーブメントは素晴らしいものだと感じたけれど、日本的なフラットさと言うべきか、「政治的な色の無さ」が逆に政治利用を容易にしてしまった。

首相は踊ってもいない、歌ってもいない、語りもしない、ただ「ステイホーム」でくつろぐ素振りを見せるのみ。画面に目を向けることもないのだから、あの動画から読み取れるのは「国民の声の拒絶」「国民の実態との断絶」である。

政権としては「このようにして家での時間を楽しみましょう」というメッセージを出したつもりだったらしい。朝日新聞の記事に「もし首相が実際に歌ったりしていれば批判は少なかったかもしれない」とあったけれど、もし歌ってたら「政治利用」の度合いが増すんだからもっと非難を浴びていただろう。

ただ何にせよこれはあくまで「国民へのメッセージ」だったから、国民も堂々と「首相は何をやっているんだ」と突き返すことができた。あれを好意的に解釈しようとするのは元々の熱心な自民党支持層くらいだろう。

それに対し、5月のブルーインパルスの名目は「医療従事者への応援」だ。これはまた巧妙というか、ずいぶん論じにくい問題だなと思った。

政権の非支持層(僕も含めて)はそもそも「やってる感を出すためのパフォーマンス」に敏感なので、あれがそもそも戦闘機であること、東京の空だけを飛んで「全国へのエール」とのたまっていること、メディアや自衛隊の病院を巻き込んで大規模な「国民の共感」を創ろうとしていること、等々を問題視した。「あの瞬間みんなが上を向いた」的な大きな物語に取り込まれてはいけない、と。

しかし話に聞くとあの飛行は「応援」と「感謝」の証なのだと言う。実際にTwitterで医療従事者が「いろいろな意見がありますが、少なくとも私は励まされました」とツイートしているのが拡散されていた。

要するに目的が「応援」なのだから医療従事者以外は「部外者」であって、一回の飛行のために多額の税金が投入されているわけでもなく、「本人たちが励まされたと言ってるのだから部外者は黙っていろ」という論理が成り立ってしまう。

応援といえば朝ドラ『エール』で、窪田正孝演じる作曲家の古山裕一が、早稲田の応援部に作曲を依頼されたのを断るために「そもそも応援って勝敗に関係あんの?」と身も蓋もないことを言っていた。まあ応援部はこれは怒っていいと思う。

考えてみれば「応援」という概念は意外に難しい。よその人が見て意味不明だとしても、本人同士が通じ合っていればそれは「応援」として成立する。なんなら通じ合っていなくても、応援する側が「応援」だと思っていればそれはもう「応援」なのだ……とさえ言えるかもしれない。

加えて戦闘機の音と軌跡がもたらす、言わば動物的な興奮。メカニックなものの格好良さという意味では、理屈なしにテンションが上がってしまう気持ちも分からないでもない。なんたってのっぺりした「日常」の中に颯爽と姿を見せる「非日常」なのだ。(僕はブルーインパルスの飛行を直接見れなかったのでよく分からないが。)

しかしやはり僕の立場としては、「素直に感動できるほうが健康的だ」みたいな言説は思考停止を招く、きわめて危うい、と言いたい。そうした「素直」を礼賛するナチュラルボーン思想こそが、長い年月をかけて少しずつ日本を「批判の声を上げづらい国」にしてきたのではないか。

先述した「あくまで『応援』なのだから部外者が批判すべきでない」というのもまた声を封殺するロジックの一つだ。

自分の領域に引きつけて言うと、文学作品の読解における「作者の意図を読み取りましょう」という不思議な命題と似ている。テクスト論の立場から言うと、「作者の意図」なんて知ったことではない。それを考察する意味合いがゼロだとは言わないが、たとえ作者がどんな意図を込めたつもりでも、テクストがそこにある以上あらゆる解釈は読者に委ねられる。小説を作るのは「作者」ではなく「読者とテクスト」なのだ。文学の知的読解において「共感」ほど邪魔なファクターはない。……言い過ぎか。

(念のため注記。「完全に読者の好き勝手に読んでいい」わけではなく、明らかな「誤読」というのはやはり存在する。たとえば大河ドラマ『いだてん』を観て「無条件のオリンピック礼賛」だけを読み取ったとしたら、それは自分のイデオロギーありきで都合よく解釈した結果の「誤読」だろう。ドラマの諸要素に含まれる意味論的な複数性を無視しているからだ。)

同様に、ブルーインパルス問題において政権の「意図」とやらをどれほど斟酌する必要があるだろうか。そこに現前しているのは「政策がうまく回っておらず医療現場が悲鳴を上げる中、戦闘機が空を飛んでいる」という事実だけだ。

ブルーインパルスを見て「感動する/しない」は個人の感覚的な話だから、別に「感動する奴は愚かだ」と言いたいわけではない。言いたいのは、仮に感動したとしても、「それはそれとしてそんなパフォーマンスをやってる場合ではないだろう」と声を上げるのが現代の市民としての知性ってものではないのか、という一点だ。

またこういう議論には、「戦闘機が空を飛んでいるだけなのに深読みしすぎ」といった声がつきものだ。大抵そういう人は深読みどころかそもそも「読む」ことを放棄しているわけだが、たとえば最近あった6月23日の沖縄慰霊の日のことを例に挙げて説明してみたい。

ウイルス対策で式典が縮小されるにあたって、県は場所をいつもの「平和の礎」そばの広場から、国立戦没者墓苑に変更しようとした。そこは沖縄戦での犠牲を顕彰する「殉国思想」が滲んだ慰霊碑が並ぶ、在りし日の帝国主義的トポスだ。

国家が引き起こした戦争の犠牲者を弔うのに、「尊い犠牲」なる悪しきレトリックを想起させる「国立」の施設を用いるという矛盾。これは県民感情と相容れないため、最終的に場所は変更になった。

問うてみたい。これは果たして県民側の「深読み」だろうか。もしこれを「深読みだから気にするな」と一笑に付す国民が増えるようなら、たとえば靖国参拝や従軍慰安婦問題の何が論点になるのかもだんだん理解されなくなっていくだろう。

大学のクラスメイトの一人が、憲法第12条に明記されてある「国民の不断の努力」を根拠に種々の問題を論じており、僕はこの姿勢を改めて支持したい。概して戦後の日本人は「不断の努力」を怠ってきたのだと思う。問題が噴出するたび、「日本人はきれい好きで真面目だからウイルスの被害を抑え込むことができている」のようなナショナリズム的かつモルヒネ的な言説で応急処置をしてきたツケかもしれない。

9.日本人と「#BlackLivesMatter」

この騒動にキャッチアップしている受験生は、もう「matter」という英単語の自動詞用法を忘れることはないだろう。これを「黒人の命も大切だ」と訳すか「黒人の命は大切だ」と訳すか、あるいはlivesから「生活」などの意味も訳出すべきか……それだけでも議論が尽きない。

僕はアメリカに行ったこともなく、外国人の友人も多くないので、どれほど正鵠を射たことを書けるのかは自信がない。けれど少なくとも「黒人/白人」という二項対立に回収するのではなく、「日本人」という要素を積極的に代入して考えるべきだと思う。日本人は「差別する側」でもあるし「差別される側」でもある。

作家デビュー前の夏目漱石は1900年~1902年のロンドン留学中、たいへん肩身の狭い思いをしていたらしい。群衆の中にあっても自分だけ背が低く、肌も黄色い。時あたかも「進化論」的パラダイム全盛の時代、日清戦争を機に中国・朝鮮の植民地化へと参画した日本に対し、欧米では黄色人種を排斥する「黄禍論」の風潮が強まっていた。

この時期の日本は、「列強」への仲間入りを果たすためにアジアにおいて植民地主義に邁進し、中国や朝鮮といった東アジア諸国への差別的政策を推進することで自国の権威を高めていくという微妙な時期にあった。

便宜上「あった」と過去形で書いたけれど、この構造の余波自体は2020年になっても思いっきり残っている。(ゆえにこそ、こうした時代性・普遍性を反映した近代文学を読み返すことにも大きな意味があると思う。)

コロナ禍に伴って人の動きが止まったとはいえ、中長期的に見れば、生産年齢人口が減っていくばかりの日本はある程度「人種の坩堝」と化す以外の選択肢はない。もはや「日本人」というアイデンティティにすがったり、外国から来る人を島国根性で排斥している場合ではない。あらゆる偏見を可視化していく必要がある。

具体的な話としては、たとえば日本で言われる「肌色」という名称。これは「日本人としての自然な肌色」を含意しているわけだけれど、ステレオタイプを助長するということで、最近のクレヨンなんかではそんなに使われていないらしい。これはちょこっと名称をアップデートするだけのことだし、理解しやすい。逆にこのくらいの話を「言葉狩り」や「ポリコレ(Political Correctness=政治的正しさ)の押し付け」と呼ぶようなら、21世紀的な感性に追いついていない証拠だろう。

とはいえ、ちょっとたじろいでしまう例もある。美白を謳う化粧品は「白人崇拝」を助長するから販売をやめるとか、創作物における「敵キャラ=黒色」なのは黒人差別を助長するとか。このへんについてはまだ判断を留保している。「確かにそういう面はあるかもしれないけど、行き過ぎではないか」というのが素朴な感想だ。 僕が時代の感性に追いついていないだけかもしれない。

「白」を美しいと思う感性がすべて「白人への憧れ」なのかと言えば、日本では欧米との交流以前も「白」が尊ばれてきた面はあるのだから(たとえば平安貴族の顔はおしろいでめちゃくちゃ白い)、絶対に違う。しかし今の我々の感性の中に「欧米への憧れ」がゼロだとも思えない。……また答えの出ない話になってしまった。

ひとつ確実なのは、「ポリコレ」を突き詰めていくと「あらゆる創作物に白人も黒人も黄色人種もストレートもLGBTQ+の人も、何もかも『均等に』登場していないとおかしい」ことになる。それはもう逆に、ただのレイシズムに等しい。

10.ルッキズムの全肯定/全否定は可能か

ちょうどいいから、ルッキズムについても触れてみたい。僕は「ルッキズム」自体あまりうまく訳せないのだけど、「ルックス至上主義」「美醜に基づく差別主義」と言えばニュアンスが近いか。

たとえば「世界の美しい顔100人」のようなランキングは一方的な「美しさ」を規定し、ステレオタイプを助長するからやめるべきだ、もっと多様な美しさが尊重されて然るべきだ―――ルッキズムを撃つ声はおおよそこういった感じ。これは政治的には正しいと思う。自分の感性の「前提」を改めて見直すことにもつながる。

一方で、少なくとも2020年現在、ルッキズムなしに世界は回っていない。大体のショービジネスはルックスを売りにしているし、「どこにでもいる普通の高校生」を描いたドラマの主人公をイケメン俳優が演じたりしている。理由は単純明快、人々がそれを求めているからだ。

ルッキズムが論じにくいのは、「美醜の判断」は社会が決めるものであると同時に、人間の本能的な部分にどうしようもなく根付いてしまっているからだろう。

周知のように、たとえば平安時代は美醜の基準が違ってふくよかな女性のほうが好まれた。江戸時代の美人画なんかを見ていても目の細い人が多い。翻って近代以降は日本でも「二重の女性」のほうが美しいと言われることが多い……こう考えるとやはり明治維新と欧化政策の影響は計り知れない気がするが、しかし「そう言われたって俺にはどうしようもない」部分もある。

可愛いものは可愛いと思う、キレイなものはキレイだと思う。個人の内部に存在する「美醜の基準」を後天的に変えることは可能なのだろうか。 社会の集合的無意識に根付くパラダイムは、人力で変えられるのだろうか。「無意識」に「意識」を以て対抗する―――反ルッキズムとはそういう戦いだ。変えられるはずだ、と言わないことには何も始まらない。僕も「変えられる」と言いたい。しかしどこかで「本当にやれるだろうか」と自問している。

それでも理想を語らないことには現実はついてこない。「理想を語らないで現実を見ようよ」という冷笑主義者の言葉に耳を貸している暇はない。彼らの言う「現実」とは「自分たちに都合のいい現実」でしかない。

つまるところ、現時点ではルッキズムとは「全肯定も全否定もできない」思想である。だから我々にできることは、(差別をはじめとした多くの問題に言えることだけど)ルッキズムの存在を認知すること。認知した上で、誰かを傷つけうる言動をできる限り封印すること。まずはそんなところではないか。

この「誰かを傷つけうる言動」とやらが何を指すのか、の話もまた厄介だ。そもそも資本主義は比較の原理を強く内包する。ある商品とある商品を比較したときに生まれる「差異」こそが利潤を生み出すからだ。

すべての評価は「比較」によって成り立つ以上、誰かを褒めることは別の誰かを貶めることでもある……という論理。ある男性が女性に対して「かわいい」と言ったとき、それはすなわち「(他の人と比べて)かわいい」と言っているに等しい。特に複数人の女性が場にいるようなシチュエーションではその「比較」性を隠しきれないだろう。

僕の敬愛するみうらじゅんは「比較三原則」を唱えている。「親、他人、過去の自分」。この三つと自分を比較してはいけない、比較してもつらいだけだと。確かに、精神に安寧をもたらそうとするならば一旦「比較」を捨て、何らかのコンテンツや自分一人の世界に没入するのが良いと思う。

けれど人生において、何の比較もせずに生きていける人などいるだろうか。それはもう仏教的に言えば悟りの境地だ。みんながみんな悟ってしまったらもはやGDPなんて上がる由もない。

もしも一切の「比較」をやめてすべてが平準化された世界になれば、いよいよ資本主義とは違う別の何かが動き出すことになる、それはそれで思想的には興味深いけれど、現実的ではない。

「差別をなくす」とは「差異がないかのように振る舞うこと」でなく、「差異があった上でお互いに認め合うこと」だと思う。だって実際に顔が違うし肌の色も違うのだから。その上で制度や言動から「暴力性」をどれだけ排除できるか、ということに神経を尖らせる意識の運動こそが重要ではないか。

またルッキズムはその性質上、トゥーマッチな主張に繋がりやすい。小島慶子氏は『ゲゲゲの鬼太郎』のねこ娘がスラリとした「モデル体型」であることに言及し、「ルッキズムの刷り込みが『細い=美しい』との観念を助長し、摂食障害につながることもある」と言うが、これは典型的な行き過ぎの主張だと思う。

この批判が通るようなら、創作物のどんなキャラクターだって「ルッキズム批判」の対象になりえてしまう。しかも、僕は『ゲゲゲの鬼太郎』に詳しくないけれど、ねこ娘はむしろ昨今言われる「女性の活躍」を体現したような勇ましいキャラクターのはずだ。

『宇崎ちゃん』の献血ポスターの巨乳批判……までいくとさすがに収拾がつかなくなるので留めるけど、これにしたって、現実に「巨乳」である女性が一部のフェミニストに「奇形」呼ばわりされて傷つけられている事実がある。服が実際に「乳袋」のようになってしまうことがあると主張しても、一部のフェミニストからすれば現実のそれも「過度に性的」なのだそうだ。虚構と現実の区別がついていないのかもしれない。

事ほど左様に、ルッキズム批判は逆に多様性を封じるルッキズムを内面化していることも多い。要するに従来型の「美」を所構わず全て撃ち、プラスサイズモデルのような「従来型ではない美」を持ち上げておけばいいのだから。それもまた一種の思考停止に他ならないと思うのは僕だけだろうか。

そしてこんなに分かったようなことを書いていながらも、僕の無意識には(特に男女関係なんかにおいては)まだまだ険呑な偏見が隠れているだろうことも自覚している。何かのきっかけでそれが無意識から「意識」の俎上に載せられたとき、捕らえて離さないようにできたらいい。

11.岡村さん発言とフェミニズムのゴール

これもあった。ナインティナイン岡村さんのラジオでのいわゆる「風俗発言」が叩かれ、NHKの『チコちゃん』降板のための署名活動まで始まったという。「お金がなくなった可愛い子が風俗に増えるから良かった」、この内容自体は批判されて然るべきだと思うけれど、これに付随していくつか重要な論点がある。

まず、岡村発言に対する「風俗で働きたくて働いてる人なんていないのだ」「人の不幸を喜ぶのか」という批判は、果たして「風俗で働いてる人のことを見下している」ことになるのかどうか。つまり、嫌々だとしてもプライドをもって働く人のことを一方的に「不幸」と呼ぶのはいかがなものか?と。

これは難しい問題だが、一言で言えばセックスワーカーのことを「ひとりの労働者」として見るのか、全体の構造の中で経済的「底辺層」として捉えるのか、の違いである。視点が違うだけでどちらもある程度正しいのだから、この二つの立場に分かれての論争はまあまあ無益だと言える。

収入がないためにやむを得ず風俗で働いている人が多いことは、データに基づく厳然たる事実だ。困窮のあまり体を売るしかないような現状は糾弾されねばならないし、行政が正さねばならない。そこから抜け出せる構造を作り出すためには、「セックスワーカーは底辺である」という現実を声に出して言うことが必要だと僕は思う。(とはいえこれだって当事者とのかかわりがないから言える、無責任な発言なのかもしれない。)

少し脱線するが、最近Twitterで、電車通学・通勤の経験がある女性(男性もいるがやはり圧倒的に女性が多い)が「痴漢やそれに類する性犯罪のような被害を日常的に受けていた」「もはや当たり前すぎて諦めていた」と話しているのをよく見る。ナンパ等の被害も同様だ。

恥ずかしながら僕はそういう現状をほとんど知らなかった。特に痴漢については満員電車をあまり使ってこなかったからだろうけど、これにはけっこうなショックを受けている。こうした痴漢被害等のカミングアウトは「モテる自慢」だと受け取られかねず、ひたすらに暗い話題なので会話に出しづらいのだそうだ。だからTwitterでそういう現状を知ることができて良かったと思う。「痴漢」も「ナンパ」も語感が軽すぎるが、れっきとした性差別の産物だし性犯罪に準ずる行為だ。

加害男性がなぜ痴漢をするのだろうと考えると、現実的に性欲の処理がうまくいっていないのではないか。すると「風俗業の拡充」という策が思い浮かんだが、これだと一定数のセックスワーカーは不可欠なのだという話に戻ってしまう。そういえば江戸的な「遊郭」の延長として、戦前の日本には「公娼制度」というものがあった。信じられないかもしれないが、国家が売買春を斡旋し、男たちの「性欲」を管理していたのだ。よもやそんなものを復活させるわけにはいかない。

あらゆる被害を可視化し、「痴漢は犯罪だ」という空気を社会にさらに定着させつつ、性欲の処理がうまくいくようソフトオンデマンドに頑張ってもらう以外ないのだろうか。

……閑話休題、岡村発言に戻りたい。

とにかく僕は、「降板を求める」などという私刑のムーブメントが一定の支持を集めてしまうことに驚愕した。正義の暴走。とんだディストピアだ。個人の内面にこびりついた固定観念というものは一朝一夕で変えられるものではないわけで、今の岡村さんに求められるのは「風俗に可愛い子が増えてラッキー、と心では思っていたとしてもそれを口に出さない」という対応だけである。さしあたってはそれで十分なのだ。

女性蔑視的だからという理由で、その人の仕事や人格や人生をすべて否定していいと思っている人たちがいる。「降板を求める」というのはそういうことだ。なぜ岡村さんがそんな目に遭う必要があるんだろう、と涙が出そうになった。そんなことだから「ツイフェミは過激だ」とか言われて分断が深まるのだ、と言いたくなる。フェミニスト等に対して「批判はやめて前向きなことを言おう」といったトーンポリシングが見られる悪しき現状を、一部のフェミニストはむしろ助長している。

こうした「やりすぎ」な案件を見るにつけ、フェミニズムの「ゴール」とはどこなのだろう、と思う。

あらゆる「男らしさ」「女らしさ」、masculine、feminineといった単語が世界から姿を消し、なおかつその状態が「当たり前」になることだろうか。そこまで辿り着いたとき、何が見えるのだろうか。少なくとも、女性蔑視的な男性をすべて社会から「排斥」するのでは何も解決しないことだけは分かる。そこに対話という哲学を欠いてはいけない。

僕がフェミニズムに関心を持っているのは自分のなかに巣食うミソジニー(俗な言い方をすればクズ的精神)を自覚しているからだけど、今は少し立ち止まって「ゴール」の在り処を考えてみたい。

12.美術館女子と進化論。「わかりやすさ」の陥穽

この国では「リケジョ」「刀剣女子」といったように、「女性に馴染みのない分野」に参入している女性が「○○女子」と呼称されてきた系譜がある。これに対しては当然「いちいち『女子』と冠をつけること自体が差別的なまなざしを象徴している」といった反論が想定されるし、僕はその反論を支持する。あくまで「女性」でなく「女子」という呼称、それ自体が男性優位の視線を内包しているからだ。

キャンペーンの結果的にその分野における女性の割合が高まること自体はプラスでもある、と捉えると難しいけれど、たとえば「リケジョ」が流行る前から研究をしていた女性の理系研究者からしてみれば、あとから「リケジョ」なんて軽い名称を与えられることはひどく不本意に違いない。

「美術館女子」が、上に挙げた例ともさらに一線を画するポイントは、客や学芸員など、そもそも美術館関係者は「元から女性のほうが多い」からだ。コンセプト上、美術に詳しくない新規の客層の開拓を目当てに打ち出されているが、「女性=無知」「とにかくハードルを下げれば若い女性が来やすい」といったレッテルの貼り方がいかにも「おじさん的」である。女性を「見られる客体」たらしめることを助長するような見せ方も良くなかった。

それに対し「そもそもターゲットが違うのだから、元々の美術ファンの女性がいちいち怒る必要はない」という意見を見たことがあるが、これは全く当たらないと思う。「カテゴライズ」や「名付け」という行為はそこにあったはずの豊かな差異を捨象することと表裏一体であり、非対称な暴力性を強く孕んでいる。この企画はそれを甘く見ているから、いちいち「批判」する必要があるのだ。(それを「怒る」と形容するようなバカに付き合っている暇は元より存在しない。)

名付けの暴力性。つまり本来はターゲット層と違っていたとしても、「美術館女子」なるワードが定着してしまったが最後、外から見れば「美術館にいる女性」はあまねく「美術館女子」に「なってしまう」。こんなに屈辱的なことはないだろう。

(敷衍すればブルーインパルスの件にも当てはまるけれど、最近の炎上案件に対して「解釈しすぎ」「いちいち気にするほうがおかしい」と言うのは限りなく知性の放棄に近く、トーンポリシング的な意味において有害ですらある。……もっともねこ娘の件しかり、例外はあると思う。個別具体的に考える必要がある。)

以上が主にジェンダー的な問題。ここにまた「芸術」という観点が入ってくるから事態はいっそうややこしい。つまり「無知なままでも雰囲気で(インスタ映えで)楽しめればいい」という認識が、「より良い美術鑑賞には正しい知識が不可欠だ」と考えている人の神経までも逆撫でしたのだと思う。

これは文学などの他の芸術ジャンルにも当てはまる。「ひたすらハードルを下げることでマーケットを広げる」という行為は、芸術を高尚なままにしておきたい層の反発を招く。

僕はハードルを下げること自体には賛成なので(そのための小さな文学トークイベントもやってみたことがある)、現状の答えとしては「別にハードルは下げてもいいが、どんな客のことも甘く見ず、芸術をより深く楽しむための道筋はしっかり示すべき」といったところ。

芸術がサステイナブルに流通するためには商業としてペイすることが欠かせない以上、裾野を広げていかないことには先細りが見えている。最初から一流の批評眼を備えている人はいないし、いま実際に美術展に来ている中でもどれほどの人が「深み」に達しているのだろう。芸術は「素人」によって支えられている。特に美術作品に関しては僕もその「素人」の一人だ。

ただし、理解を深めればもっと面白くなるのはどんな芸術でも同じである。素人のままでも楽しめて、なおかつ次のステップへと足を進めたくなるような仕組み―――それこそを「優れた案内」と呼びたい。だから美術館女子も、「インスタ映え」自体はいいと思うけれど、マーケティング的思考が先行するあまり浅薄な落としどころになってしまったという印象だ。「わかりやすさ」を信奉しすぎるとこういうことになる。

ざっくりした言い方しかできないけれど、ネット以降の日本社会(日本以外も?)においては長らく「わかりやすさ」こそ正義だとされてきた。「美術館女子」はその象徴でもあるし、こうした風潮は今後も消えないだろう。

しかし、それがたとえば自民党広報の「エセ進化論」のようなものを呼び込むとすれば危うい。もっとも逆に自民党広報のおかげで、「わかりやすさ」に潜む危険性に多くの人が気付いたという効能はあるのかもしれない。(……でも世間的には違うのかな。Twitterだけを見て全体を語ることはできないので結局よくわからない。)

ちなみにこの件の真のヤバさは、ファクトチェックを二階氏がサラッと受け流した点にある。すなわち現政権からすれば「ファクトかどうか」なんてどうでもいいのだ。より正確に言えば、「ファクトかどうかどうでもいい人たち」が支持層なので、反自民のインテリが誤りを指摘してきても関係ないのだ、というメタメッセージを読み取れる。学問軽視どころの話でなく、さすがに擁護しようがないと思う。自民党支持層の見解を聞いてみたい。矢継ぎ早に荒唐無稽な案件を投下することで国民を「批判疲れ」させようとしている感すらある。

この一連の「わかりやすさ」案件に関連づけて言うと、僕はここ数年、フィクションや本の帯で漱石の「I love you=月が綺麗ですね」が引用されるたび、漱石がそんなことを言った典拠はないのだ、と主張し続けている。この地道な活動の意義はあまり他人から分かってもらえないが、どうも一般的には、ロマンチックでありさえすればファクトかどうかはどうでもいいらしい。だから「ちょっとググれば分かること」だとしても、ググらずに公共の場へと出して商売の一部にしてしまえるわけだ。

はっきり言おう。ふざけるのも大概にするがいい。国民がそんなことだから公文書は偽造され、自衛隊の日報は雲散霧消し、議事録も取られないのではないか、と声を大にして言いたい。どんなに腐っていようとも、「政府」とは国民を映す鏡である。国民のあずかり知らぬ所でどこからか勝手に湧いて出たわけではない。

13.「ソーシャルディスタンス神話」が封じるエンタメ

僕はわりとテレビを観る。中でもNHKには受信料どころかお布施も払っていいくらいお世話になっており、実際大河ドラマ『平清盛』『真田丸』はDVD-BOXを買ってお金を落としている。

今年の『麒麟がくる』も当然観ている。キャスティングひとつとっても、単独で映画の主役を張れるような役者が何十人と集っているのは大河ならではだ。川口春奈の帰蝶、向井理の足利義輝が美しすぎるので、それだけでも観る価値がある。まだ観てない人がいたら全力でおすすめしておく。

しかし緊急事態宣言に伴って撮影は中断。あわや「麒麟が来ない」ことにもなろうかと心配していたが、今のところNHKは「例外的な越年放送になったとしてもカットせず全話放送する」と英断を下してくれている。とりあえず麒麟は来るらしい。だからこそ個人的には「2回目の緊急事態宣言」はなんとしても避けたい。

どうでもいいけど、他のドラマより早めに収録されていたらしい『いいね!光源氏くん』と『美食探偵』、そして再放送の『アシガール』『ハケンの品格』あたりがめちゃくちゃ面白かった。特に前半2つは新作ドラマだし、シリアス成分とコメディ成分の配分が絶妙だったので、荒みがちな人々の心をかなり救ったのではないか。完全に平安貴族と化した千葉雄大プロ。ド派手ワインレッドスーツがなぜか似合ってしまう中村倫也。

それはそうと、僕が所持金の多くを捧げているライブ類はどうなるのだろう。ポルノグラフィティもスキマスイッチもDOESもそれぞれの方法でファンを楽しませてくれてはいるけれど、やはり生のライブが一番いい。まさかワクチンの開発を待つわけにもいくまい。

映画館は前後左右の席をあけることになっているから、ホール、アリーナ、ドームなんかもそのスタイルならばライブ開催はありえるかもしれない。その場合はチケット代を高くして採算を合わせるか、もしくは「生参戦」「リモート参戦」を並立させ、リモートのほうでもある程度チケット代を取っていけば何とか成立するように思う。

……と書いたものの、なんだか全体的に釈然としない。エンタメ業界は、メディアの作りだした「ソーシャルディスタンス神話」の被害者ではないか。「とりあえず距離さえ離しておけばあとは何でもいい」的な思想がなぜか信奉されすぎている。

都市部で生活をしていると、たとえばスーパーや電車内では厳密な2メートルの「ソーシャルディスタンス」など不可能であることは誰もが実感するはずだ。それでも、レジに並ぶときだけは律義に距離をとれと言われる。これは千葉雅也氏が最近よく言う「やってる感」を演出しているに過ぎない。世界は「やってる感」で回っている。

素朴な意見として、映画館では客は前を向き、しかも喋らないのだから、むしろスーパーよりも安全ではないか。ライブだって、もちろん声を出せないのは寂しいが、さしあたり魂の叫びを万雷の拍手に代えればいいだけだ。

とはいえ「ライブを開催して万が一にもクラスターが発生したらどうする」「演者側に感染させてしまったらどうする」と問われたら僕だって「確かにねえ」と言うほかない。結局、リスクをどのくらい受け入れるのかという程度問題でしかない。

もうひとつ危惧としては、どうも現状エンタメに関しては行政が規制緩和のタイミングを逃している感があり、下手すれば一年くらいはこのまま放置されるのではないかという恐怖がある。そうなるとエンタメにもお金を落とせないし、精神的にも死人が出る。僕も死ぬ。だからとりあえず「ライブに行きたい」と全力で言い続けておくしかない。

14.イメージ政治としての都知事選

都知事選が迫っている。今回の候補の顔ぶれはひときわ絶望的だと言われるが、そもそも選挙なんてそんなものだ。「ベストな候補者」なんてそう都合よく現れない。「誰に税金を配分させたらまだマシか」という、要はワーストを避けるための営みだと理解している。

小池百合子・現東京都知事はなぜかやたらとイメージがいい。女性であり、オシャレに気を遣い、安倍首相などと比べると受け答えが明瞭で、なおかつ都民のために頑張っている感が色濃いからだろうか。しかし小池都政が発動させた、橋や建物が光っただけの謎の「東京アラート」はまさにそんな「イメージ政治」の象徴ではなかったか。

政治家の演説は下手なほうがいいし、ルックスが目立つ必要もないと僕は思っている。小泉進次郎氏、あるいは小泉純一郎元首相のようにやたら演説がうまくてルックスの見栄えがすると、政策の内実が伴っていないことが覆い隠されてしまうからだ。ルッキズムは政治までも支配している。

一方、「かっこよくて熱い指導者のもとで働きたい」という気持ちを持つ「イメージ重視」の人がいるのも理解はできる。それが賢明な市民だとは口が裂けても言えないけれど、人間の情としては僕は全否定できない。

『キングダム』の主人公・信が率いる飛信隊はその良い例であり、福利厚生がめちゃくちゃでもリーダーのカリスマ性と人徳で引っ張る社会集団、というのが現実的にはありえてしまうのだ。そこはかとなく前時代的な日本型企業のオーラを感じる。(だから、『キングダム』が経営者におすすめ!みたいな文言で売られているのを見ると非常にイラっとくる。作品自体は好きだけど。)

こんなことを思うにつけ、「選挙」って本当に民主主義実現のための最適な解なのか?と毎度のように疑問を抱いてしまう。握手の数で何が測れるのか。マニフェストだって「達成できなくても仕方ない」みたいな見方をされている。

国政においても同じだ。有権者が「野党がパッとしないから政権交代が難しい」という時の「野党がパッとしない」は、多く「野党のことがあまり報道されない」と同義だと感じる。権力の息のかかったメディアは、メディアとしての用を成さない。都知事選の候補者による討論会等が全く開かれないのも、この現状の延長線上にある。メディアの作り出した「無風」は現職の知事を有利にする。

また今回は掲示板にホリエモンの顔がやたらと出ており、きわめてアホらしい。彼についている一定のファンは、ものごとをズバズバと断定して斬っていく姿に感心しているのだろう。しかしそう簡単に「断定」できるほど世界は単純ではない。すべてを明確な二項対立に回収できる、という思い込みはやめようよと言いたい。

「答えがない状態」をさまよい、折々で暫定的な答えを出しながらも、あくまで考え続ける。そんな姿勢がもたらす思考の運動こそを、僕は「知性」と呼びたい。

この「結論を出さない」ことについては、近年注目されている(というか僕が注目しているだけかもしれない)「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念もぜひ参照されたい。

15.グローバリゼーションの後退と「新しい地獄」

コロナ禍では世界をめぐるヒト・モノ・カネの流れが停止し、相応じるようにグローバリゼーションも停止した。もはや今後戻ることはないだろうと言う人もいる。

かなり個人的な感覚の話だけれど、ウイルスの感染が拡大し始めた当初、つまり2月~3月ごろは「ウイルスという人類共通の敵を前にした新たな連帯」の可能性がよく指摘されていた。ところが実際には自国第一主義の嵐が吹き荒れ、米中の摩擦は激しくなり、分断は促進されているように見える。今は結局どこも「自国のことで手一杯」なので、さしあたりやむを得ないと思う。 

しかしだからといって「グローバル資本主義の終焉」とか「アジア経済圏のブロック化」とか「闇雲な経済成長より縮充路線へ」とか、そんなにラディカルな動きが生じるとも思えない。新型コロナウイルスは、従来から存在していたムーブメントをただひたすら促進しているだけだ。(……あくまで今のところは。)

僕が危惧しているのは、やがて相貌を露わにするだろう「新しい地獄」について。つまり、どこかの国で(順当にいけば中国な気はするけど)効果的かつ安定供給可能なワクチンが開発されたあとの話。

安定供給可能と言っても、国民全員に行き渡るまでには相当の時間を要する。だからいざ接種可能になったとき、どう考えても「誰から先にワクチンを接種できるのか」という順番が明確にされなければならない。その順番は誰がどう決めるのか。そこにあるのは今以上に、経済格差、階級格差が浮き彫りになる未来だ。

ワクチン開発がうまくいく前提に立てば、「アフターコロナ」の前にこの「新しい地獄」が立ちはだかることはほぼ確定している。やはり人類が真に「立ち向かう」べき相手はウイルスなんかではないのだ。

そもそも「ウイルスに打ち勝とう」という言い方はおかしい。ウイルスが宇宙人のような「人類共通の敵」たりえないのは、姿の見えないそれが人間に感染し、人間と同化する(ように見える)からだ。あくまでもウイルスは人間の姿をかたどって現れる。「敵」は感染者の体内にいるはずなのに、隔離されるのは感染者本人だ。

単純化された二元論が呼び込む戦争のレトリックは、「隔離されるべきウイルス感染者」を「味方=人類」と「敵=ウイルス」の境界線上にいる存在にしてしまう。それは先般欧米でアジア人が「コロナ」と指さされ揶揄されていたことにも似ていよう。戦争のレトリックは差別を顕現させやすい。

我々が立ち向かい打ち勝つべきは、ウイルスではなく「コロナ禍における人間の悪意」及び反知性主義だろう。

批判的思考の発動は、平時でさえ相応の疲弊を伴う。コロナ禍においては、自分なりのアジール=聖域を確保することで心身のバランスを健全化しながらも、大局的かつ微細な思考を維持することが是非とも求められる。

これを自らへの戒めにしながら、結びの言葉としたい。

おわりに

いや疲れた。でも「誰にも頼まれてないのに書く文章」というものはなぜだかひときわ楽しい。

1万字を超えたあたりでなんだか面白くなってきて、気づいたら2万字だったので、じゃあもう3万字にしようぜという感じのアレでした。ひとつの記事にまとめてたほうがあとあと便利かな、と。「あとあと」がいつなのかは知りません。30年後とか。

なんというか、中身はどうあれ、意外と分量を伴って論じれるもんだな、という再確認はできました。こういうのがお金にできる仕事だったら一生書いてるのになあ。

いざ概観しようとしてみて思ったんですけど、トピックス無限にありますね。わかっちゃいたけど。コロナ関連でも全く拾えてない話がたくさんある気がする。自分はこの程度の論じ方しかできないのか、という仄かな失望も感じました。

最近改めて、「自分の意見を発信する」って怖いな、と思います。Twitterひとつ見ても、聡明な人がフォロワーにいくらでもいるし。

こいつ何か浅いことを言ってるな、と突っ込まれやしないか……わりとヒヤヒヤしながら発言してることもあります。基本メンタルが弱いので。批判してもらえるのは良いことなんですけどね。

でもその怖さも引き受けた上で、ぐちゃぐちゃに拡散しがちな最近の脳内をいったん整理してみよう、という試みでした。ほんとは最初はてなブログのほうに書いてたんですけど、noteのほうが「発信してる感」あるのでこっちにしました。なんとなく。

あー謎の達成感がある。ハーゲンダッツ食べたい。お刺身も食べたい。水族館で魚とクラゲを見たい。首を寝違えて痛い。なんか平易な長文を書こうとすると文体が石原千秋に似るようになった? 読書が滞っている。勉強しなきゃ。早く定年退職して隠居したいなあ。それではまた。

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