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生きるほどに飽きていくのが人生か?

 人生におけるキラキラを見つけるのが難しくなってきたよね、という話を友人とした。

 たとえば高校時代なんかの恋愛。それはひどく稚拙で、よもや恋愛と呼べるようなシロモノではなかったにせよ、あんなに一所懸命になれていたこと自体が値千金なのだ。

 もちろん恋愛に限った話じゃない。あふれんばかりの感情をうまく処理できなかったバカな僕たちは、些細なことでも本気でムカついて、本気で悲しみ、本気で高揚していた。あながち、美化しすぎってわけでもないと思う。

 翻って今はどうだろう。そりゃ今だって楽しい。友達やら恋人やらとの日々は間違いなく充実しているし、新しい世界で新しい試みをすれば大いに燃える。比喩的に言えば(比喩じゃなくライブハウスのステージには立てたんだけども)、少しずつ大きなステージで戦えるようになってきてる実感はある。

 が、それがむしろ良くないのかもしれない。

半端な成功

 たとえばひとつのイベントやパフォーマンスを成功させたとしよう。それは素晴らしいことだ。

 けれど一方でこうも思う。「ひとつ成功したからなんだっていうんだ?」。

 成功に成功を積み重ねた先にある「何か」ってなんだろう。人生観が変わるくらいの自信と経験値だろうか。素敵な思い出だろうか。莫大なフォロワー数だろうか。そりゃ物を書くだけで食っていけるくらいの名声が手に入ればいいけど、さすがにそう簡単じゃないことは知っている。

 行きたい大学に受かった。人前で喋ることへの苦手意識はなくなった。イベントの企画とマネジメントもできる。インタビュー記事も一応書ける。

 でもそれがなんだっていうんだろうか。一山いくらの成功が積み重なったからといって、自分には輝かしい「何か」が待っているわけじゃないんだなあと薄々わかりつつある。

 人生とはたぶんそんなものだ。弱冠23歳でこんなことを言うのは早すぎると自覚はしている。だけど「そんなものだ」と割り切るしか、今はないようにも思う。

成長の悲劇

 キラキラを失う原因のひとつは、皮肉なことに「自分の成長」だ。中途半端にいろんなことができるようになってしまうと、「できなかった頃」には戻れない。あんなことができれば最高に面白いだろうなあ、と夢想していた時代には戻れないわけだ。贅沢な話だけど。

 冒頭で触れた恋愛だってそうなんじゃないか。下手にセオリーみたいなものを習得してしまうのは実に残酷な悲劇だ。予定調和な関係性じゃキラキラできないに決まってる。

 その意味で言うと、勉強とか学問なんてのはマゾヒズム極まる行為である。文学徒はテクストへの解像度を上げるのが生業で、それは「わからない」をつぶしていくのと同義だから、「わからない」がゆえの面白さやキラキラは儚くも消えていってしまう。

 こんなことをブツブツ言いながら、僕は今日も世界への解像度を上げるために何かしら読んだり観たりする。

 必ずしも楽しいからやるってわけじゃない。ただ、もう戻れないからやってるだけだ。

 人生みな背水の陣。その一回性を慈しむことこそが生きるコツなのだとしたら、自分はまだまだ人生の素人だと思い知り、どうしようもねえなと嘲っているうちにまた一日が終わる。

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