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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#宮崎

パン屋と教師

時々冗談混じりで夫に言う。退職したら半分はバージニアあたりの山の中、半分は宮崎の海のそばに住もう。(*アメリカ東在住です) アメリカ人の夫は奈良に6年住んでいたが九州を訪れたのは結婚前に私の鹿児島の実家と、宮崎の叔母を訪ねたのが初めてだったと思う。そしてその後一度また鹿児島に来たきりでそれ以降は機会がなかった。 鹿児島に来たときには桜島の噴火にビクビクしており、鹿児島に住むのは絶対に嫌だと言っていた。 ”日本に住むなら地震がないところ”とおどおどしながら懇願するが、日本で地

世界の始まり、海のある小さな町

宮崎県の青島 ここに住んだのは人生の最初の何年かだけだけど、自宅の周りの風景も学校までの道のりも、ピアノ教室やお寺の幼稚園までの風景もよく覚えている。 不思議なものでこの町を引っ越して、その後高校卒業まで暮らした海から遠い町のことはところどころしか思い出せない。 小さい頃に見たものや食べたもの、経験や感情などは”人生で初”のものだからだろうか、私の記憶の中の青島はとても鮮明だ。その後に似たような経験をしてもそれが何度目かであり繰り返したものであるので強い印象がないのだろ

宮崎・已己已己 パン屋と教師

日本にいない私にとって最高の旅先は日本。 昨年は一緒に育つことはなかったけれどSNSでなんとか繋がっている弟に会いに宮崎に向かった。 二人で神社を散策し、夜は何を食べようかと考えた時にふと思ったのは “弟は何が好きなのかな?” 私は彼の好物さえ知らない。彼も同じだろう、私のことは知らない。 神社から海岸の波状岩までの二分、真剣に思う。弟なのに容姿以外に似ている所はあるのだろうか?  優しいと厳しい 動くのと動かないの 人気者と人見知り 情に厚いと猜疑の塊 彼の馴染

やっぱり宮崎じゃった

自分の故郷、hometown、はどこなのかなとあらためて考える機会が今日ありました。ほとんどの方は生まれた町、育った町、帰る町、を故郷と呼ぶのではないでしょうか、でも私はそれぞれ違う町がその場にあてはまります。 わたしの生誕の地は宮崎でしたが、実際そこに住んだのは小学校3年生くらいまでで、そのあとは宮崎県内の違う市で高校卒業まで過ごしたのでいわゆる”成長の場”は県南部の小さな町。そのあとは東京の大学へ進学して、それ以降は海外のあっちこっちです。親戚一同はまだ宮崎におりますが

なんで馬鹿にさるっとかわからん。

東京の小さな女子大に進学した私の最大の心配事は 友達ができるか、と 方言を馬鹿にされないか、でした。 で、結論からいうと友達はちょっとできて方言は馬鹿にされるので隠蔽しました。 生まれ育った宮崎の方言は単語もイントネーションも独特で、テレビで見るような日本人のように喋る人は周りには一人もいません。 本人達は標準語で話してると思っていても、やっぱり宮崎弁です。 高2で英会話を学び始めた時, 先生に 発音がいいね! と褒められていたので、大丈夫だろうとは思ってました。日本語