昔書いたショートストーリー(その2)

前回の更新から、気がつけば6年間も放置していました。
心待ちにしていた読者さんが何人くらいいるのかは未知数ですが、私自身のためにも、アップすることで昔の作品たちに成仏してもらおうかと。

何年もの間、離婚する/しないで振り回してしまった当時の夫と、この頃はもう少し夫婦を続けられるよう、努力していた時期でした。
今思えば、あの頃熱中していた小説(フィクション)の創作は、「小説家になりたい」という夢のみならず、心の均衡を図るための現実逃避だったのかもしれません。その証拠に、この翌年(離婚後)から数年間は、1行も書いていないのです。

「独りで生きていかなくては」という現実、エンジニアとして早く一人前にならなくてはという目標、それらに忙殺されていた時期を経て、再び私は「書く」ことの楽しみを思い出しました。
そこからメルマガの配信を始めて3年後、私は文章で食べていく道に進み、その翌年にプロの作家としてデビューを果たしました。

元夫が、私の文章を認めてくれたこと。
ライターズスクールに通うことを、勧めてくれたこと。
なかなか文章で稼げなくとも、諦めず書き続けたこと。
文章の中に込められた情熱とメッセージが、伝わったこと。
些細なご縁が繋がり、チャンスを得られたこと。

それぞれの点が線として繋がったおかげで、私は今も物書きとして生きているのです。

『はずれ馬券』

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それは突然、目の前に現れた。

予定のない週末はあまりに退屈で、私は古本屋で何冊か本を買い、部屋でひとり、読み耽っていた。
クライマックス直前のページから、一枚の馬券が飛び出した。
前の持ち主のものだろう。当たりかハズレかはわからない。しおり代わりにするくらいだから、たぶんハズレに違いない。

馬券を見て私は、先月家出した、競馬好きな彼を思い出した。

彼が私のマンションの部屋で「飼われる」ようになったのは、約一年前。
酷く酔っていた私は、深夜に駅でタクシー待ちをしていた。そのとき後ろに並んだ彼と意気投合し、はずみで彼を「拾って」しまったのだ。

当時の彼は俳優の卵。経済状態は赤貧。家賃が払えずアパートを追い出され、劇団の友人の部屋を泊まり歩くという生活ぶりだった。
同情と好奇心から、彼のアルバイトが決まるまでの間という条件で、私の部屋に置いてあげたのが、いつしか居候と化した。

最初のうち、彼はわずかばかりの出演料から、生活費を払ってくれた。だが私が世間一般のOLより多少稼いでいるのを知ってからは、アルバイトを探そうともせず、毎日好きな競馬に明け暮れるようになってしまった。

それからというもの、規則的な会社勤めの私は、遊んでばかりいる彼にイライラし始めた。
男なんだからしっかりしてよ。
そろそろ現実に目を覚ましなさいよ。
喉元まで出かかっては、以前端役で出たドラマの輝いた彼の顔が浮かび、言葉を飲み込んだ。

ケンカして彼が出て行くというパターンは、過去にもあった。が、せいぜい二、三日でひょっこりと帰ってきた。

ただいまの代わりに「あー腹減った」と言いながら、何事もなかったように冷蔵庫を開ける彼。
憎らしい。だから私は、嬉しい気持ちを抑え、怒りを装ってみる。
すると彼は、ちょっとはにかんだ顔で、
「悪かったよ。今度のレースで万馬券出したら、ティファニーでも何でも買ってやるからさ、許せよ、なっ」
などと、無意味なフォローをする。
そんなときの彼の表情が愛しくて、私もつい、
「シャネルのバッグがいい」
などと、許してしまう。

そうやって私たちは、それなりにいい関係を築いてきた。お互い、愛し始めていた。
初めてだった。こんなに長い間、帰ってこないのは。

+ + +

「ねぇ、一年も一緒に住んでいるんだし、私たち、きちんとしない?
籍だけでも入れれば親も安心するし。生活は今まで通りでいいから」
先月、思い切って出した提案に、彼はムッツリと押し黙ってしまった。
そして翌日、私が会社から帰ってきたときにはすでに、彼の置いていたわずかな荷物は無くなっていた。書き置きひとつ、残さずに。

定職にも就かず、夢ばかり追っている居候の彼が、そんな「現実」を受け入れられるはずもない。居心地が悪くなるだけだ。
だけど私は「適齢期」という呪縛にかかっていた。彼に「体裁」を求めてしまった。

なんとなく、彼はこのまま二度と戻ってこないような気がした。

彼の不在は、頭に「後悔」の二文字を烙印した。
習慣で空けてしまうベッドの右半分は、失われた体温のおかげで妙に広く、なかなか寝付けない日が続いた。
そしてある日、会社から帰って玄関を開け、彼の匂いがしなくなったのを感じ、ようやく私は諦めた。彼はきっと、他の住処を見つけたのだろう。

彼の歯ブラシを捨てた。
髭を剃るカミソリを捨てた。
お揃いのカップを割った。
額に飾っていた、ふたりの写真を燃やした。
彼の「かけら」を、涙と共にすべて排除した。

そして、彼がこの部屋に転がり込む以前と同じ状態に戻り、やっと穏やかな気持ちになった。

+ + +

不意に出てきた馬券を見つめていたら、彼への想いが蘇ってきた。私は本を閉じ、窓の外を眺めた。

(今頃、どうしているんだろう)

みるみるうちに、夕方とは思えないほど空が暗くなってきた。
窓を開けると、湿った匂いが入り込んでくる。ブルーグレーの雲は、手が届きそうなほど低く、厚く空を覆っている。
次の瞬間、空が光り雷が鳴った。
閃光と轟が、だんだん近くなってくる。室内にいるからさほど怖くはないが、いつ落ちるかわからない不規則な音に驚かされ、鼓動が早くなっているのがわかる。

あと一時間もすれば、滝のような雨に替わり、この音も遠くへ消えてしまうだろう。後は、爽やかな夏が待っている。

大丈夫。彼が居なくたって、私は独りで生きてゆける。
結婚がすべてじゃない。彼がすべてじゃない。

稲妻とともに、地面が割れるくらいの轟音が響いた。次の瞬間、すべてが闇に包まれた。
停電だ。

(しまった、懐中電灯なんか持ってない。ロウソクもない)

暗闇の中、自分の心臓の音が、激しく聞こえてくる。さっきまで強がっていたのに、今は心細くて仕方がない。
こんな時だけは、彼が一緒にいて欲しい。ろくでなしな男でも、そばにいてくれるだけで安心できるのに。

ドンドン、と玄関のドアを叩く音がした。
「おい、開けろ、オレだよ!」

……想いが通じたのか。
雷以上に驚きながらも、絶妙なタイミングでやってきた声の主が誰なのかは、すぐにわかった。
「独りじゃ怖いかな、と思って」
ドアを開けて彼にしがみついたら、その服はまるで泳いできたかのように濡れていた。

とりあえずシャワー浴びたい、と彼はなめくじのように壁際を這って、バスルームへ入った。私も真っ暗な中で離れるのが心細く、なめくじの跡を手で探りながら這って行った。

ユニットバスに入り、便座の蓋に腰掛けようとしたら、彼の濡れた衣服に手が触れた。シャワーカーテンの向こうでは、水音に混じり鼻歌が聞こえてくる。いい気なものだ。

「な、一緒に入らないか? 暗闇で浴びるのも、けっこう気持ちいいぞ」
(なに呑気なこと言ってるのよ。一ヵ月も音沙汰なしで、私に寂しい思いをさせたくせに……)
顔が見えないのをいいことに、私は思い切り頬を膨らまし、心の中で文句を言った。

彼が脱ぎ散らかした服を、そっと手探りで畳む。ジーンズのお尻のポケットに、クシャッとした感触がある。
(お札? 大変、濡れたら使い物にならないじゃん)
取り出した瞬間、照明が点いた。

紙の感触は、数枚の馬券だった。

(そっか。そういうことか)

別に私と一緒にいたくて帰ってきたわけじゃない。有り金はたいて、お腹が空いて戻ってきただけなんだ。

(彼は「当たり馬券」じゃなかったのかな)

私はすでに明るくなったバスルームで、ゆっくりと服を脱いだ。

当たりかどうかは、わからない。
少しずつ確かめていけばいい。決めるのは自分なんだから。
まず、前からずっと知っている広い肩と、贅肉のない背中に触れて、肌触りを確かめよう。

馴染んだ抱き心地を求め、私はシャワーカーテンを開けた。

+ + + + +

『優しい毒』

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「ただいま、ロン」
玄関に入ると、ロンが「おかえり」の言葉の代わりに尻尾を振って、全身で主人(わたし)の帰宅を出迎える。嬉しい瞬間だ。

ひとり暮らし歴も十年のキャリアとなり、寂しく感じていたのかもしれない。無性にペットとの暮らしに憧れ、「ペットOK」のマンションへ引っ越した。そして小型犬のヨークシャーテリア「ロン」をペットショップで見つけ、迎え入れた。

ペットは犬にすると決めていた。
恋人の雅人は、猫のように気ままで好き勝手。飼い主(わたし)の思うようにコントロールができない。でも犬ならば、抱きたいとき素直に甘えてくれる。

世話が大変でも知らないぞ、などと言いながら、その日から雅人はしょっちゅう私の部屋へ来るようになった。
不定期な仕事をしている彼は、平日がオフになることもしばしば。そんな日は、合鍵で私の部屋に入り、留守番しているロンを散歩に連れ出してくれる。おかげでロンは、雅人にもよく懐いてくれた。

ロンはやはり犬らしく、嗅覚が人間より鋭い。
私のいつも着けているディオールの香水の匂いが、ロンは好きらしい。朝と晩、シャワーの後に香水をつけると必ず、ロンは私にすり寄ってくる。
その香水は、いつだったか雅人が海外出張のとき、土産として買ってきてくれたものだ。

「優しい毒(タンドゥルプワゾン)」と名付けられたその香りは、最初は甘く爽やかで、次第にその濃度を増し、官能的な香りへと変化する。ロンはオスだから、きっと女らしい香りが好きなのだろう。

二人と一匹の楽しい時間は、長くは続かなかった。
雅人はいつしかロンの世話に飽きたらしく、部屋に来ても挨拶程度にロンの頭を撫でるだけ。ロンも人間の愛情の程度が判るのか、雅人の膝の上には乗らなくなった。

雅人とつき合って五年。
私たちはすでに、倦怠期以下の関係だった。だけど別れるほどの理由もなかった。
だから私は、ロンを迎え入れた。

ふたりの間には、変化が必要だった。
でもそれは、一時の清涼剤にすぎなかった。

雅人が出張で一週間日本を離れたときのことだ。

私は寂しさを埋めるために、同僚の男に抱かれた。お互い、酔ったはずみ程度の気まぐれだったから、あまり罪の意識も感じなかった。
でも帰宅した時ロンは「そのこと」をお見通しかのように、抱き上げた胸から飛び降りて私を避けた。

自分ではわからなくても、犬には微妙な「他の男のニオイ」が感じ取れたのかもしれない。
私はなんだか「雅人」に見透かされたような気持ちになり、いたたまれなくて何度も体を洗った。そして香水を着け落ち着きを取り戻したら、ロンはその匂いに惹かれ、いつものようにすり寄ってきた。

「これは、ロンと私だけの秘密よ」
その夜のできごとは、記憶の奥にしまわれた。

+ + +

久しぶりに私の部屋にやってきた雅人に、ロンが甘えていた。
なんだよ、と文句を言いながらも、雅人は嬉しそうにロンとじゃれていた。
(ロンったら珍しいわね)
私は目を細め、ふたりの微笑ましい様子を眺めていた。

この顔が好きだ。
時々垣間見せる、少年のような笑顔。
気まぐれで、猫のような性質の彼と離れられないのは、あの表情の彼を抱きしめたい気持ちが、まだ残っているからだ。

しかし、胸元をしきりに嗅いでいるロンの様子を、私は見逃さなかった。
秋の訪れを感じさせる風が、開け放した窓から涼しくそよぎ、私の胸をざわつかせた。

+ + +

その日の訪問を最後に、雅人との連絡が途絶えた。留守電に何度メッセージを入れても、雅人からの連絡はない。
そんなに多忙な日々を送っているわけでもないはずだ。長いつき合いで、雅人の仕事の内容や繁忙期などは把握している。

雅人に会いたい。抱かれたい。
ロンでも、他の男でも、この寂しさは埋められない。

この間の雅人とロンは、とてもいい感じだった。
あんな風に、まるで小動物を可愛がるように私を愛していたのは、いつ頃までだっただろう。あんな風に、素直に彼に甘えていたのは、何歳までだっただろう。

夜の散歩の時間に、私はロンを連れ出そうと支度をした。ふと思い立ち、自転車を出し、前のカゴにロンを乗せた。

初めての自転車に、ロンは最初のうちじっと固まっていた。でも速度に合わせてそよぐ風が気持ちよかったのか、前足をカゴに引っかけて尻尾を振りだした。

どうして今までできなかったんだろう。

雅人の住むマンションは隣駅だ。いつも雅人が来てくれたし、彼は自分の部屋に来られるのをあまり好まなかったら、あえて訪ねようとは思わなかった。ベタベタした関係を望むほど、私たちはもう若くなかった。

夜道は少し肌寒かったが、雅人に会えるかもしれない興奮で、私の頬は紅潮していた。
ペダルを漕ぎながら、ロンと雅人がじゃれあった光景を思い出す。あの時感じた胸のざわつきが頭をよぎり、ハンドルを握る手に力が入った。

十五分ほど走っただろうか。ようやく雅人の住むマンションが見えてきた。
その時、横道からタクシーが突然現れた。ヘッドライトの眩しさに、私は思わず急ブレーキを掛けた。

タクシーはあと数メートルの雅人のマンションの前で停まり、女性客を降ろしていた。私はベランダ側の点在する明かりの中から雅人の所在を確認し、自転車を歩道に停めた。

ロンを抱き上げ、エントランスホールに入った。そこには、さっきのタクシーから降りた女性がいて、どこかへ電話していた。
その人の横を通り過ぎた瞬間、思わず振り向いた。
(この人だ)
私は急ぎ足でエレベーターに乗り込み、すぐに「閉」のボタンを押した。

ロンの好きな、雅人の好きな匂い。爽やかで甘い香り。
(雅人が私にこの香りを着けさせたのは、偶然? それとも故意?)

私と同じ香りだから、今まで気づかなかった。
でも、ロンにはお見通しだったんだね。

雅人の部屋がある六階に着いた。後から上がってくるであろう彼女に知らしめるために、雅人の部屋のドアの前で、私はアトマイザーをバッグから取り出して一吹きした。甘い香りが辺りに漂う。

唾を飲み、ロンを抱く手に力を込め、チャイムを押す。
「早かったじゃん」
私のためでない雅人の台詞をよそに、私は強引に玄関へと上がり込み、後ろ手にドアを閉めロックした。

困惑する彼と、何もわからず胸の中で尻尾を振っているロンと、溢れるものが堪えきれず目に滴をためている私とを、優しい毒の香りが包み込んだ。

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