『パラサイト 半地下の家族』のラストカットはない方がいいのではないか

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注意! この文章は観たひとが読むことを前提に書いてるので、未見で、ネタバレが嫌なひとは読まないほうがいいです。
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ちょっと前にツイッターでこういうアンケートを実施した。

一見、「ある方がいい」の圧勝に見えるが。
でもこの場合、重要なのは「ない方がいい」が約1割いるってことだと思う。人数にして83人中9人。

出来あがった映画を語るとき、完成形以外の形を思い浮かべないひとは多いと思うし。ましてや、この映画ほど高評価が定まったものであれば、あるがままを受け入れがちだと思う。
にもかかわらず無視できない人数が「ない方がいい」と答えている。
あのラストカットを入れない作り方も、ひとつの意味ある選択肢だったと感じているひとが、一定数いるのである。

念のために言えば、大事なのはカットの要/不要を問うているのではないということだ。
俺は脚本や演出を仕事にしているが、あるカットなりシーンなりを「要らない」と言われると、イラッとする(これは同業者で同意してくれるひとも多いと思う…気をつけてね、プロデューサーさん)。
要らないものは書かないし、撮らない。デタラメじゃなく、プロとしてやってる限り、理由は必ずある。
そこを踏まえた上で、なお、そのカットなりシーンなりが、あるかないか、どちらがより良き映画になるかという勝負があって。
この質問は、大げさに言えば回答者にとっての「より良き映画像」を問うものになるのだ。

特に『パラサイト…』のラストカットの有無が俺にとって大事に思えるのは、「映画はどこまで説明すべきか」という重要な問題をはらんでいる気がするからで。
はっきり言っちゃえば俺はあのカットは説明的だと思っている。

さて、ではラストカットに至るまでの流れを思い出してみよう。この文章は観たひと向けだから、なるだけ簡潔に書きたい。
惨劇が起き、妹は死に、父は殺人犯として姿をくらまし、主人公の青年は怪我のために頭を病んだ-だが、徐々に回復していくようだ。
青年は父が豪邸の地下に逃げ隠れたと知り、送られてくるモールス信号を翻訳して、私信として受け取る。
彼は金持ちになるための-たぶん、あまり合法的ではない-計画を心に描き、実行する決意をする。
計画が実っていつか豪邸を手に入れるとき、父を迎え入れることができるだろう……そんな想いを語るナレーションをバックに、豪邸の住人となった青年と母のもとに、父が地下から姿を現すシーンが描かれる。
直後にラストカット。
現実の青年は、まだ貧しい半地下に住んでいて、書き留めた父からの私信を前に想いを固めている。

このラストカットには、だいたい次のような意味があると思う。

1.最初と同じというまとまりの良さ。
2.現在、貧しさに戻った主人公が、見果てぬ夢を抱いている哀しさと今後につながる孤独な野心。
3.直前のシーンが想像であることの説明。

俺には「ある方がいい」という意見は、これらがそのまま理由となっているように思えるのだが、どうだろうか。
そしてまず1は、そんなに重要とは思えない。
なぜなら、「いろいろあって主人公は元通り」ではなく、「元に戻れなくなってしまっている」からだ。
なるほど、貧困に関しては元に戻ったかも知れないが、お金では決して取り戻せない大事なものを失ってしまってた。
この喪失こそに痛ましいドラマがあり、それに比べると映画の最初と最後を似通わせる整理のしかたは、それほど大事なものと言えるだろうか。変わってしまったことが、むしろ重要ではないか。
彼にとっての変化(喪失)が直接かかわるのは2であって、いまのラストカットに情感をかきたてられ、エンドロールが流れ始めたときに余韻を感じるとしたら、2の意味に於いてだろう。
そして、観客全員に2を分からせるために、3の意味があるのだが。
もし、このラストカットが無いとしたら、どうなるか。

想像して欲しい。
主人公の頼りない(なぜ「頼りない」かと言えば、我々は彼の父の教えからも、物語の顛末からも、頭で描いた計画は無計画の前に敗れ去るものだと知っているから)未来予想図の中で、地下から父が現れ、青年と母と合流してフェードアウト、エンドロール…。
この方が、2の意味で、より強い余韻をもたらすのではないか。
多くの観客は、そこで終わってしまうことに、より強く情感をかきたてられるのではないか。
俺にはそう思えてならない。
映画のラストカットは観ている最中は、終わりだと確信は持てない。
エンドロールが流れ始めて、あるいは昔の映画なら The End の文字が出て、初めて「ああ、ここで終わるのか!」となる。
だったらそれは-今や母以外のほとんど全てを失った-青年の想像世界での父の帰還で断ち切られたほうが、2の意味も強まった上で、より強い余韻をもたらすのではないか。
地下から姿を現す父の姿は、現実ではない分、子供が幽霊と見間違えた元家政婦の夫のそれよりも、幽霊的であって。
「ここで終わるのか!」というのが、より強く、胸を打つのではないか。

というわけで、俺はいまのラストカットは「ない方がいい」派なのである。

ところが-だ。
今のラストカットがないと、2の効果が-強まるどころか-発揮されない場合もあり得る。
それは、映画を観ているあなたが、直前のシーンを主人公の想像ではなく「実際に起きたこと」と思ってしまう場合だ。
結局、主人公の計画はうまくいって、お父さんは戻ってきました、チャンチャン♪…と思ってしまったら。
2で言う「哀しさ」も「孤独な野心」も置き去りにされ、それどころか喪失感さえも薄まったサクセスストーリーになってしまう。
勿論、そのように見てしまうこと自体、俺はあまり良くないと思う。
最後の計画云々のナレーションが始まったとき、「ああ、ここから先は青年の頭の中の虚しい想像だね」と解釈するのが、正しい観方だと思う。
終わった瞬間に「ああ、想像だったのか」と分かるのでもいい。
しかし誰もがそういう正しい観方をするとは限らないし。目の前に起きていることが全てと映画に没入してるひとが、あのまんま、実際に起きたことと思うのを、誰が非難できようか。
だからあのラストカットの最も大きな効用は、3の「直前のシーンが想像であることの説明」だと思うのだ。
その有無を問うことは、「映画はどこまで説明すべきか」という問題を考えることだと思うのだ。

むろん、俺は映画が説明的であることは、必ずしも悪いとは思わない。
むしろ、作り手にとって説明すること、観客にはされることは、映画の大きな喜び・楽しみだと思うし。
極端な言い方をすれば、劇映画の画面の多くは説明であって。
何なら、この映画のラストカット直前だって、青年のナレーションの説明という面はあるのだ。
だが一方で、「説明しきらないこと」にも大きな意味はある。
観客は「自ずと」分かることで、映画に参加し、観たことがより豊かな体験となる。
テレビドラマと対比してみれば、より明らかじゃないのかな。
これはテレビドラマを映画より下に見るという意味ではなく、「ながら」で観てわかるものを作るのも、その道のプロの仕事である。
お茶の間で観るものと映画館で観るものとは、用途が違うのだ。
そのため、どうしても説明が多くなる。
ちなみにテレビドラマはシナリオの稿を重ねる時間が足りないのも、説明的になる要因のひとつかと思う。シナリオ作家で、第一稿が説明過剰になってしまうひとは多かろう。
……というのは脱線のたぐいだとしても、観客に分からせるための説明と、観客により豊かな体験をもたらすための説明し切らないことのバランスの上で、映画は練られ、作られていくもので。
この映画で言えば、父がパク社長を刺す理由については-あれほどの重大事なのに-かなり「説明しすぎないこと」に気をつかってると思われるし。
それゆえ、観ていてあの行為を鮮烈に「分かる!」と受け止めさせる効果が出ていると思う(共感の「分かる」ではなく、「彼」がそうすることが「分かる」という意味である)。

良心的な映画の作り手は、常に説明するかしないかに悩まされる。
ラストについては、おそらくだが、ポン・ジュノ監督も悩んだのではないだろうか。
父の帰還の想像で終わる方がより強い余韻を残せる。だが、自分が狙うのは『去年マリエンバートで』ではない、より多くの大衆に訴えかける映画だ。分からないひとがいたら、彼らを切り捨てることになってしまう…。
もちろん、ラストカットをなしにして、直前のナレーションを、より想像だと分かりやすいものにする手もある。
しかし、それでは不十分かもしれない。やっぱり、画面でちゃんと「想像でした」と見せた方がいいのではないか。何なら、結局最初に戻りました…と整わせることもできるし。
最終的に、この映画は-その点で監督に決定権があったとして-あのラストカットがあるものになっており、そっちの方が「良い映画」になると賭けたものになっている。

でも俺は、ない方がよかったという方に賭けたいんだよ。そちらの方が俺にとっての「より良き映画像」に近いと、思ってしまうんだよ。
それは俺が個人的に、最近の-テレビドラマに限らず映画でも-説明されすぎるドラマにうんざり気味なせいもあるかも知れない。
昔の映画は『ゴジラ』第一作でも、説明セリフ無しで芹沢博士が恋に破れて絶望した瞬間が手にとるように分かったし、それゆえオキシジェンデストロイヤーでの自己犠牲を選んだのが分かった。『ローマの休日』でも-大人ならば-河畔でのドタバタのあとに王女と記者は身体を重ねたのが分かるし、それゆえ最後の「ローマです」の言葉が重いというのが分かった。
それどころか、分からなくても味だと思う余裕もあった。例えば『フレンチ・コネクション』のシャルニエの「逮捕まぬがる」の字幕に、「ひょっとして、ポパイは最後の一発で仕留めたのでは」と想像して楽しんだ(『2』の話は、この際おいといて…)。

俺は、『パラサイト』はラストカットがなかった方が良かったということに賭ける。ポン・ジュノには及びもつかない立場なれど、脚本・演出を手がける作り手のひとりとして、あそこまで説明しない方がいいという、自分の価値観に賭ける。
あなたはどちらに賭けますか?

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