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そ く し で い く ぜ

こんにちは。雪明けの関東でこのnoteを書いています。

冬なので、僕の「死生観」について、書こうと思う。


14歳のころ、すごく自己効力感や肯定感がないときに読んだ本があって、江戸時代の「伊達騒動」を描いた『樅の木は残った』(山本周五郎著)を読んだ。


冒頭に、仙台藩伊達家家臣が連続暗殺され、その家族は隠匿しなければなくなり、さらに当時の仙台藩主も隠匿を命じられる。主人公は仙台藩に仕える原田氏。その原田が、隠匿されている家臣の家族の一人にこう呼びかけているのに共感してしまうほどだった。


「生きることはつらいことだ。死んだ方が楽とさえ思えてしまう。」
『樅の木は残った』より


実際、そう思っていた。というか、今もたまに思う。
特に「この先はこんな問題が発生します」系のニュースを見たり、Twitterで統計資料を基にした日本のこれからのことやnoteを見たりしたとき、「生きても未来が暗すぎる」と思って、「じゃあ」ってなりそうになる。


でも生きている。今死ぬ理由はないから。


今生きているうちに、「やりたいことやって、さっさと隠居したい」と思ってる。

そんな領域にたどり着いたのは、高校3年くらいだ。色んな曲がその哲学を育んだんだけど、特にインパクトが強かった曲がある。


ザ・ハイロウズの「即死」という曲だ。
タイトルからしておどろおどろしいけど笑笑

ハイロウズの中では有名な曲ではないが、偶然聞いたときに「これは…!」となったことを記憶しているほどインパクトがあった。


即死で頼むぜ

この曲自体は以前、別のnoteにも書いたんだけど、それは「正しいこととかどうでもよくて、楽しいことやろうぜ。マトモとかフツーとか追求するのなんてまったくダセーよ」という話だった。
なので、その話はそちらに譲りたい。

個人的に、「即死」は後半の死生観(?)の部分が非常に印象深い。

この「即死」はサビ以降、ひたすら「死」について語られている。14歳のボクはここにかなり揺さぶられた。

振り返りたくない 考えたくもない
涙はいらない 即死で頼むぜ
入院したくない 病気で死にたくない
ベッドで死にたくない 即死で頼むぜ
痛いのはゴメンだ 苦しむのはヤダ
一瞬でいくぜ 即死でたのむぜ
(中略)
厳かはヤダ くだらない方がいい
笑えりゃなおいい 即死で頼むぜ

もちろん、作者の甲本ヒロトさん自身の死生観と考えれば自然かもしれないけど、この歌は僕の死生観に、小さくないインパクトを与えている。


「人生なんか振り返りたくない」
「お涙頂戴の感動ポルノはいらない」
「病気なんかで死にたくない」
「痛いのはごめんだ、苦しむくらいなら即死したい」


苦しくて死ぬことも考えたことがあった自分にとって、すごい救いだった気がする。もっといえば、葬儀の現場をたくさん見ていることも影響しているのかもしれない。

気づいたことといえばこれだろう。


「結局、死んだら無じゃん。」と。


芸能人とか偉人とか国家元首とか、葬儀には大勢の人が集まるけど、その事を死んだ人は(多分)見れないし、集まる事実さえ知りえない。

もっといえば、人生の主人公は自分であって、周りの人じゃない。だから、自分が死んだ時点ですでに無である。

人生なんか振り返りたくない、苦しみたくない、お涙頂戴なんていらない。


もう、「僕」ではないのだから。


気が付いたら、影響されすぎて、僕の死生観は「やりたいことが枯渇したら、もう生きる気はない」となった。


それこそ、「即死で頼むぜ」と。


だから、やりたいことにとことん向き合いたい。

挙げていったらきりがないけど、今やりたいことに絞り込んでいくと

自分のスキルを高めて、サポートの質を高めること
やりたいことと向き合う人に寄り添うこと
NPOのファンドレイジングをサポートすること
お寺の活性化のために動くこと

あたりだろうか。


で、次の時代のキャリアの、というか次の時代の人生のロールモデルを作っていきたい、そして後進の人にも十分できることを示したい、そんなことを考えている。


働き方、ではなく「生き方」。

死に方、よりも「生き方」だよなあ。


「即死」を聞いて、影響を受けて、どんな人生にしていくか、生き方を作っていくか、そんなことを思っている。


その一環なのか知らないけど、「次世代の生き方」をいろんな人に広める、そんな活動にも寄り添って動いている。

僕のこんな生き方について、面白いな、と思ってくれたら、「次世代の生き方」を広める活動に賛同してほしいと思う。


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