何のために大学に行くんだ?
12世紀は大翻訳時代とも言われている。
人間的な(科学的な)古代ギリシアの思想は、ヨーロッパにキリスト教が広がるにつれて、時代と共に忘れ去られてしまった。
この世に起こるすべての現象は、「神がそうしなさったのだ」と説明してしまえば、それで済むからね。
でも、その科学的な思想を早くに受け入れたのは、イスラームの学者たちだった。
ギリシア語の文献がアラビア語に翻訳され、数多の資料がイスラーム圏の研究機関(知恵の館やアズハル大学など)に保管された。
そしてそれらの文献がやがてヨーロッパに伝わり、
アラビア語からさらにラテン語(当時のヨーロッパの公用語)に翻訳された。
ヨーロッパでは12世紀ルネサンスとか呼ばれたやつだ。
それらの文献の数々は各地の修道院に備えられた図書館に蓄積されていった。
そうすると、ヨーロッパの学者たちは、その図書室を備えた修道院に惹きつけられるようになった。
なぜなら、そこには書物があったから。
さらに、将来の学生となる者たちも寄り集まるようになった。
なぜなら、そこには学者がいたから。
こうやって、学問に熱中する、ある種の共同体が修道院を中心に形成されていく。
こうして発展してできあがったのが、ヨーロッパ初の大学なんだ!
ヨーロッパ最古の大学は、イタリアのボローニャ大学と言われている。
さらに、イングランドではオックスフォード大学が誕生したが、学者たちの間で論争が生じたとき、主流派とは意見がそれたグループがケンブリッジに移った。
でもね、この大学という仕組みが始まったころ、教鞭をとっていた学者たちはひどく驚いたんだって。
それは、学問を望む学生たちの教養レベルの低さに。
とてもじゃないけれど、志望していた学生は、学問を始められるだけの知識をもっていなかったんだって。
そこで、教授陣たちは、学生たちに学問を始めるための準備をさせるために、標準的な教育課程を設定した。
たとえば、読み、書き、文法、論理学、算術などなど。
そして、これらのカリキュラムを乗り越え、ようやく学問を探求するスタートラインに立てた、っていうわけ。
この学問へのスタートラインまでの道のりを修了した者は、
ラテン語で「初心者」を意味する学士(baccalaureate)と呼ばれたんだって。
そして、現在では、4年生大学を卒業した者に与えられる学位の称号は、学士号(baccalaureate)と呼ばれている。
ここから、神と自然現象を分けて考えることで、科学が発展していくんだけど、
それは次回に回して。
この部分で大切なことは、大学という場所は学問を探求するための、基礎的な知識を身につける準備機関であるってこと。
大学の4年間を終えて、やっと法学やら経済学やら医学やら工学やらの学問の領域に足をやっと踏み入れることができる。
その準備をするための場所なんだ。
今の日本では、どうかと考えてみると、少し面白いことが起こっているよね。
勉強が嫌いでもとりあえず、大学に行って、なんとなく4年を過ごす。
大学のニーズが変わったのか、それとも大学の役割自体が変わったのか。
なんのために大学に行くのか。
ただなんとなく、行くくらいであれば、もっと自分のやりたいことや好きなことはなんなのか、を考えた方がいいかもしれないね。
間違いなく大学という機関は、必ずしもあなたがやりたいことを実現するための最短ルートではないのだから。
4年を無駄にしてから、社会に出る意味があるのか。
4年を無駄にしてから、好きなことに専念する意味がどこにあるのか。
もっと言うと、大学受験のために割かれる時間やお金や労力も、好きなことが明確なのであれば、効率よくそこに割くことができる。
もちろん、やりたいことを探しに行く、という進学の在り方もあっていいと思う。
でも、もう学歴なんかより、
いかに自分のやりたいことに向かって、熱心に勉強できるか、行動を起こせるか、
が大事なんだから、大学を絶対的な人生の途中下車駅のように思うのは、危険かもしれないね。
だって、4年も無駄になるかもしれないんだから。
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参考:
・荒巻の新世界史の見取り図 上 荒巻豊志著
・イスラームから見た「世界史」 タミム・アンサーリー著
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