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笑っている、でも泣いているのかもしれない

70代後半と思しき二人の男性が、人気のない海岸に打ち上げられた難破船のようなベンチに肩を並べて座っている。そこは蓮華草と姫女苑が気ままに生い茂る土手で、目の前には水量わずかな川が流れ、頭上には翡翠のような桜の葉が繁り、背後を小学生が一人、ランドセルを鳴らしながら走っていく。笑っている。もしかして泣いてるのかもしれない。

一人はいつも白系統の服で、他方は灰色類が多い。だから私は、列記とした名前のある、しかし私にとっては名無しの彼らを、白岩さん、灰谷さんと密かに呼ぶ。

毎日どのくらいそこでそうしているのかはわからないが、白岩さんの右手に握られている、恐らくは空気と残り香しか入っていない缶コーヒーと、灰谷さんの脇に置かれた、小さなペットボトルの目減り加減から推測すると、かれこれ20分くらいなのかもしれない。
私が傍らの横を通り過ぎるのは大概別れの挨拶を交わしているところで、ではまた明日、ええまた明日と、苔むす庭の二対の鹿威しのように深く頭を下げてから、二人は西と東に去っていく。

若葱色の銀杏並木を見上げ、木漏れ日に瞳を水玉にしながら、心の目を閉じて想像する。

白岩さんは6時に起床する。食卓につき、食べ飽きたという言葉と共にハムを飲み込み、砂を噛むようにトーストを食べ、テレビを観る妻の機嫌をそっと窺う。髭を整え靴を履き、行ってくるよ、と声をかけるが返事はない。送り出してくれるのは全自動洗濯機の微かなモーター音だけだ。

灰谷さんは5時に起きる。猫に餌をやり、冷凍ご飯をレンジで温め、立ったまま食べる。猫の額ほどの庭に渦巻く薔薇は、妻の緑の親指が消えてから生きる気力を失っていたが、今年は持ち直した。咲いたねえ、と独り言にしては大きな声で呟くが相槌はない。満腹の猫が朝の散歩に出かけると、小さな部屋が俄に拡くなる。

白岩さんはコンビニで缶コーヒーとペットボトルの緑茶を買い、土手に向かってゆっくり歩く。灰谷さんは庭で薔薇をひと枝折り、手提げに入れて、錆び付いた門を壊さぬようにそっと押す。

到着はいつも白岩さんの方が早い。灰谷さんが来ると緑茶を渡し、天気の話を始める。朝のニュース番組の天気予報で仕込んだ知識を、灰谷さんはさも面白そうに聞く。
薔薇に注がれる視線に気づいた灰谷さんは、これから墓参りに行くんですよ、と朗らかに言う。白岩さんは頷く。1/3ほど切り出された胃のあたりに触れながら、私は今日も病院です、と穏やかに白岩さんが続ける。灰谷さんは頷く。

難破船は傾き易いことを二人は知っている。ベンチに並んで座り、飲み物を分けあいながら二人は、それ以上踏み込まない。
また明日も会って、朝のひとときを過ごすために、身を乗り出して深淵を覗きこまず、静かに慮りながら踵を返すことを繰り返す。

彼らの朝の習慣に、小さな物語を紡ぎたくなるのは、心の中に2つのベンチがずっと置かれたままになっているからだろうか。私はそっと、その古いベンチの前に立ってみる。

敬愛するイーユン・リーが2005年に上梓した『千年の祈り』の中で、離婚した娘を案じて渡米した75歳の中国人男性〈石氏〉と、老人ホームに入居している77歳のイラン人女性〈マダム〉が、公園のベンチで交流を持つ。互いに英語がおぼつかないので、ときには各々の母語を使って会話を続ける。“─何を言っているのかほとんどわからないが、彼女は自分と話すのがうれしいのだと感じるし、彼のほうも彼女の話を聞くのが、うれしい。”

石氏は娘との関係が強ばっている。娘を孤独から救おうと躍起になり、彼女の人生に土足で踏み込んでしまう。娘は父親を避け、ますます頑なになっていく。

世界を半周して娘を励ましにきたのに、むしろ言葉の通じない女性の方が話を聞いて理解してくれるのはなぜだろう。「修百世可同舟」という中国のことわざについてマダムに説きながら、石氏は縺れた糸を解そうとする。
“〈どんな関係にも理由がある、それがことわざの意味です。夫と妻、親と子、敵、道で出会う知らない人、どんな関係だってそうです。愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って三千年かかる。父と娘なら、おそらく千年でしょう〉〈もちろん、よくない関係にも理由があるんです─わたしは娘のために、いいかげんな祈りを千年やったに違いない〉”

石氏は帰国を決意する。別れの挨拶のためにいつものベンチでマダムと落ち合った彼は、たとえ言葉は伝わらなくても、もっとも深い理解を彼女から得ることができると信じて話し始める。隠し通してきた真実について。千年以上分の祈りを込めて。

フィリップ・クローデルの『リンさんの小さな子』では、戦禍のベトナムから逃れてきたと推測される、心の致命傷を負った高齢男性のリンと、妻を亡くしたフランス人と思しき、心に空洞を抱えたバルクが、公園前のベンチで隣り合わせになり、友情を暖めていく。

二人の言語は互いにとって未知であり、会話はほとんど成立しない。それでも、自らの言語で語り続けるバルクは、難民とおぼしきリンさんの静かな受容、哀しみの共有によって救われていくし、傷心を抱えるバルクの想像力によって、リンさんの荒涼とした心には少しずつ緑が甦る。

“リンさんは友の肩に腕を回そうとするが、腕が短かすぎて、広い肩には回りきらない。そこで、ほほえみかける。そのほほえみに、どんな言葉にも込められないほど、たくさんのものを込めようとする。”

収容されていた宿舎の閉鎖のため養老院に移されたリンさんは、ベンチの友を思慕する。会うために、たたそれだけの、それゆえがために彼は施設から逃げ出し、ベンチで何日も友を待つ。
待つことの先に再会があると疑わないリンさんの現実は、再会の前に無惨に砕け散ることになるのだが、たとえ粉砕することがわかっていたとしても、彼は、言葉を越えた友に会うための、その歩みを止めなかっただろう。

公園や川縁に置かれたベンチは、何人に対してもひらかれているのだと思う。
座り心地はさほど良くなくても、束の間の休息を約束する。その大きさ、その形状は、人と人とが短い時を分け合うのに最適な設計だ。一日の流れのなかの一時的な停泊場所。お茶を飲んで空を見上げ、穏やかに別れることをそっと促す立体。

そんなベンチの数ほどに、ベンチを巡る人々の関係がこの世界にはあるのだろう。
白石さんと灰谷さんの、西と東に別れて進むそれぞれの踵を見送りながら私は、ほぼ交わらない運命を持つ、しかし互いを敬い労りあいながら進む、時計盤の上の長針と短針のシルエットを思い浮かべる。

“たがいに会って話すには、長い年月の深い祈りがあったのです。ここに私たちがたどりつくために。”
(イーユン・リー『千年の祈り』抜粋)

私も、私のためのベンチの物語がほしい。

30年後、70代の私を、河川敷に置かれたベンチに座った10歳の少女が待っている。
行儀のうるさい母親を持つ彼女の最初の5分は、あたかも淑女のように優雅だが、それを過ぎれば地につかない足をぶらぶらさせ、睫毛にかかる髪の毛を1本抜いてみたり、ベンチの上の葉っぱを出鱈目に千切ったりする。それでも彼女が私を待つのは、いろいろな国で体験した面白いエピソードを聞くのが楽しみだからだ。彼女も将来、遠い国にいってみたいと思う。こんな小さなベンチに座っていたことなど忘れてしまうくらい、世界各地を忙しく歩き回り、たくさんの魅力的な人たちと出逢うのだ。知らない言葉を巧みに話している大人のわたしを想像して、彼女はうっとりする。

私は、彼女の眼差しの先にいるはずの、30年後の私を見ようと目を細める。しかし私は現れない。
茜雲が溶けて、鳥たちが帰巣の羽ばたきを始めると、彼女も腰をあげる。スカートの皺を伸ばし、大きな欠伸をして、何で来ないのかな、と小さな文句を言いながら、ランドセルを背負って走りだす。

笑っている。もしかして、泣いているかもしれない。

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