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大切にされなかったという記憶、大切にされたかったという記録

口のなかに小さな感情がある。

形状は路傍に転がる小石のようで、大きさの割には重い。色は分からない。
眠るときも話すときも食べるときもそれはあるので、何年も飲み込もう、吐き出そうとしてきたのに、その努力が報われることはなかった。飲み込むには鋭利で堅すぎるし、吐き出すには力が足りなかったのかもしれない。
それはあらゆる作用を拒む何かだ。舌先で転がしても唾液に角を丸めることはなく、飲み込んだところで胃酸にすら溶けないだろう。
解決策はたぶん一つ、言葉にするしかない。

その日、私は職場を出て渋谷まで歩き、車中で朝の続きの本を開き、最後の一頁を残して駅に着いたのだった。17時。どうしてそんなに早く最寄り駅に降り立ったのか記憶にない。ことが起こる前に流れていた日常は、ことが起きたあとの日常と共通の大脳皮質を持たないのだろうか。
早退の理由は通院だったかもしれない。12月の、感染症の流行を兆す、凍てつくような週が始まったばかりだった。

本を鞄に滑り込ませたとき、細かく震える携帯に指が触れる。手にしたメタリックブルーの携帯電話自体が、何か測り知れないことを予感しているかのように、透明な琥珀色に輝いていたことを憶えている。応答ボタンをタップすると、夫の死を告げる乾いた声が到着したのだった。私はその四角くて薄っぺらいものから耳を離し、不思議なものを見るようにそれを眺めた。この機械、いったい何を話しているんだろう、と。

それは長く苦しい入院が終わろうとしていたときだった。声の大きな主治医の強い太鼓判と、退院という簡潔で汚れのない言葉と、私を侵食し始めていた錆色の疲労が、明るい見通しを求めることを妨げなかった。娘が心待ちにしているクリスマスも迫っている。もう大丈夫だろう(大丈夫でないと困る)。こんなに頑張ったのだから(頑張ったのだから報われるだろう)。

ひどく悪かったとき、一緒に死んで欲しいと彼は願った。私はそれを一蹴しただけでなく、そんなことできるわけはない、と鋭いナイフのような言葉で絶命寸前の魚みたいに白い彼の喉元を刺した。つまり私の生命は大切じゃないということかな?それは私たちの娘から両親を奪うことにもなるのよ、と。
結果的に私は、私の生命を守り、彼女の母親が奪われるのを護ったものの、父親が奪われるのを止めることができなかった。
大切な私の、娘の生命。大切だったはずの夫の生命。

葬儀が終わると、私の口は重くなり、娘は口が固くなった。避ける必要のなかった話題を避けることが求められるとき、勢い会話はぎこちなくなる。娘と私は、一つのテーブルに斜向かいに座り、ちぐはぐな会話をぐずぐずと続けた。迂回し続けるうちに話は方角を失い、眩暈を起こして不意にうずくまる。彼女は読まない本を出鱈目にめくり、私は染み一つない鍋を黙々と磨き上げた。思考が停止しても、手は動いてくれる。
あの年、梅が咲いたことに気づいたのは梅が散ったときだった。夏が来たことに気づいたのは蝉の死骸を蹴ったときだった。

お父さんは私たちを大切に思っていたのかな、と、とうとう彼女が堰を切る。彼女の誕生日、感情の防波堤を崩すように、フォークで苺ケーキの壁を崩しながら。「たち」という複数形を、殊更に強調しながら。

─大切にされなかったと思ってるよ、私たちは。ずっと待っていたのに。たくさん約束したのに。お守りも作ってあげたのに。でも、このことをどうしたらお父さんに伝えられる?大切にされたかった、って、どうしたら伝えられる?

その時、ある感情が口のなかに棲みついたのだった。飲み込むことも吐き出すこともできない、自責と後悔と憤怒と悲嘆を混ぜて発酵させて乾かしたような、得も言われぬ小石状の何かが。

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