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近すぎて、見えない

深い森のような家の中で、私たちは植物に遠慮しながら育った、と言ったら些か大袈裟だろうか。3つ上の兄に訊いてみるのもいいかもしれない。間髪入れず〈その通り〉と言いそうだ。あるいは音をたてずに笑うだろう。白髪の増えた髪を揺すって、10歳の少年のころそうだったように。

玄関のドアを開ければ鬱蒼としていて、ベッドで伸びをすれば植木鉢に指先が当たり、食事の支度はまずテーブルの上の花器を片付けることから始まる家で、暴風雨の夕方や霜の降る夜は、庭から避難させられた植木や花たちと身を寄せあって、私たちは幼年期を過ごしたのだった。
言うまでもなく、庭は景観を楽しむというより、詰められるだけ詰め込まれた漆塗りの重箱のようだった。何かが息絶えると、すぐに何かが送り込まれる。すべては緑の親指を持つ母の目配りと采配だった。そういえば母が手すさびに描く絵も、空間は罪とでもいうように、隅々まで塗り込まれていた。

母には2人の兄と2人の弟、姉と妹が1人ずついた。姉とは年が離れており、妹は幼くして天に還ったので、母は男兄弟4人と育ったのだが、等しく絵を描いた。職業的な画家になったのは弟だけで、兄たちはそれぞれ個性的な生き方を選び、いずれも芸術とは縁も所縁もない日々を重ねたが、絵を描き続けた。

画家になった母の弟である四男は、京都の美大を出たあと食うに食えず、3年ほど我が家に居候をしていた。ピアノの置かれた西陽の当たる部屋を叔父のアトリエとして提供していたので、私は小学校から帰ると夕餉の支度が整うまでのあいだ、ピアノの練習と称して叔父の部屋に入り浸った。
血は争えないもので、この叔父も母と同様、無類の植物好きだった。部屋には果実や木の実が好き勝手に寝転がり、至るところに川で拾った石が座り込んでいた。コップには蒲公英やら姫女苑が目映い花飛沫を上げ、天井からは、水気を失った季節の花や烏瓜が蝙蝠のようにぶら下がっていた。
叔父が借家に移る日、相棒たちは家族同然にトラックに乗り込み、ひっそりと引っ越していった。奥多摩や小金井と居所を変えても、物静かな家族はさらに増えるばかりだったらしい。
賑やかな妻を迎え海の近くに新居を構えると、絵を描く傍ら近くに畑を借りて、農作業にも精を出した。どきどき遊びにいくその家の中には、犬と西瓜と南瓜と馬鈴薯が無邪気に転がっていて、窓から手を降る葡萄の木を眺めやりながら、叔父さん、相変わらずだなあと笑いを堪えた。

その画家の叔父をして「叶わない」と言わしめた母のもう1人の弟である三男は、水と植物しか描かなかった。

祖父の通夜の日、私はその叔父に初めて会った。190㎝近い長身の、一瞥するなり眼を穿たれてしまうような静謐な顔を持つ、しかし一切の会話を拒むように背中を強ばらせた40歳前後の男性が、2人の若者を従え、氷結した2月の夜に向かい斬りかかるようにしながらやってきた。母が正座を解いて立ち上がり、画家の叔父が身体を揺らしてゆっくりと近づき、歪な三角形を作って言葉を交わし始める。頭ひとつ分抜けた叔父が、母の背後で身を固くしていた私を凝視して、ああ、あんたが姉さんの娘か、と言う。緩慢な身体の動きと似ても似つかない、鋭利な声に驚く。

秀才と言われながら心臓弁膜症を持ち、自暴自棄になって高校で荒れ、卒業と同時に家を出た彼は、大阪でひっそりと生活を始め、当時京都にいた画家の叔父とだけは連絡をとっていたらしい。その後2人とも東京に移り、この叔父はずっと浅草の雷門の近くで暮らしていたと知る。
険しい表情こそ崩さないものの、目にはわずかな優しさを湛えて、こんど遊びにこいよ、と私に言い置くと、門の外で待っていた2人の若者を従え、闇の向こうに足先から消えていく。

叔父の家の敷居は高く、結局遊びに行くことはなかった。ただ、あのあとペースメーカーを埋め込む手術のために入院し、たびたび体調を崩しては入院する叔父を、初めは母と共に見舞い、そのうち1人で見舞うようになった。
見舞いにいくと、必ず誰かが〈控え〉ていて、姐さんいらっしゃい、と大学生の私に深々と頭を下げる。彼のベッドのまわりは植物で埋め尽くされており、花瓶の水を替える作業のお世辞でも似合わない若者が、神妙な顔で花瓶を抱えながらリノリウムの廊下を歩いていく。
叔父はいつも上機嫌で私と向かい合った。思いのほか饒舌で、愉しそうに私の母の幼少期のお転婆ぶりを披露しながら、白い指でスケッチ帳を広げ、窓から見える枝振りの美しい大樹を素早く写しとっていく。
一度、上半身を清拭してもらっている場面に出くわしたことがある。背中に拡がる刺青は、目の覚めるように見事な花模様だった。

叔父の通夜と葬儀が終わったあと、初めて叔父の家を訪ねた。
既に多くの人が到着しているらしく、玄関は男性靴で溢れかえっている。私は玄関の外で黒いパンプスを脱ぎ、厳つい靴の海峡を越えて上がった。

長い廊下の左右は、ほぼ隙間なく叔父が描いた絵が飾られていた。それは一枚の例外もなく遍ねく緑色で、奥入瀬、最上川、四万十川といった対象を、鮮やな緑が覆い尽くしていた。旅が好きだったんですか?と迎えに出てきた人に尋ねると、若い頃は知りませんが、ここ十年くらいおやっさんは旅をしなかったです、と言う。
─川の写真を見て、あとは想像か記憶です。見てしまうと描けないって言ってました。近すぎると見えなくなる、だったかな。

廊下の突き当たりにある叔父の寝室では、別れの宴が始まっていた。胡座をかく人たちが一斉に腰を浮かせて手招きをし、奥のわずかな隙間に指を差す。姐さん、どうぞ、とコップを差し出され、日本酒が注がれる。
コップは忽ち鮮やかな緑に染まった。主の去った寝室は観葉植物が溢れ、壁一面、百色の緑の絵で埋め尽くされていた。


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