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二人

若い頃、何年にもわたってジャニーヌの肖像を描いていた時期があった。肖像画、それも真実の肖像画というものは、なんといっても芸術の一つの頂点である。私はこのようにして二枚の絵、二枚の肖像画を描いた。それらを見ながら、自分自身に問いかけたのであった。私がここに描いたものは何だろう?生命を与えられた死者、死にとらえられた生者?

(二コラ・ド・スタール、1949年)

そのことを聞いたあと、私の心は二つに裂けて、気丈な母親と脆い母親になった。

あした14歳の誕生日を迎えるという日、SLEの確定診断が、某大学病院の小児科医より娘になされた。
やわらかなその声は、手を伸べれば触れられるほど近くから発せられているのに、流れる川を蛇行しながら到着したかのように遠く感じられたことを憶えている。それまで早鐘を打っていた胸の鼓動も、あたりを忙しく動き回る看護師の動作も、にわかにスローモーションになったことを憶えている。そして、私たちをとり囲むまっ白な壁に、マフラーをした狐と毛糸の帽子をかぶった熊が仲良く焚火を囲んでいる、色鮮やかなイラストのカレンダーがかかっていたことも憶えている。もう一枚紙を捲れば12月のカレンダーが現れて、狐も熊もクリスマスに相応しい服をまとい、煌びやかなツリーの横でプレゼントを開いているにちがいないと、漠然と思いながらそれを見ていたことも。

なんの前触れもなく彼女の全身を捕らえた難病を、無知な私たちに説明しようと教授が心を砕いているそのときに、私は大学病院の診察室という異空間に迷い込んでしまった夜店の金魚のように、パタパタ、パタパタ、と鰓呼吸をしながら、濁る意識をなんとか晴明に保とうとしていた。この場所から、このよくわからない話から、この冗談のような現実すべてから逃れたい、と切実に願いながら。

帰り道、沈黙の繭に立てこもる娘にむかい、「先生のこと、どう思った?」と尋ねる。そっとドアをノックするように。「優しい。それから、トナカイさんみたいな鼻が可愛かった」と言うなり、彼女はさも可笑しそうに笑う。ドアを開いて手招きするように。それを聞いて不覚にも安心してしまった自分の愚かさに気づくのは、ずっと後のことだ。

頬に羽ばたく蝶型紅斑を日焼けのせいとあしらわれ、微熱や頭痛が続いても軽い風邪と片づけられ、シャーペンを握る指が痛み、引き受けた合唱コンクールの伴奏練習すら思うに任せない日々は、血液検査の結果により一変した。思いもよらない出口から押し出された私たちは、見たことのない風景を前に、息を飲んで立ち竦む。

若い彼女と、原因も分からず治療方法の確立していない病とは、免疫の暴走を抑える薬を飲みながら共存するほかない。憎悪の引き金になるとされる紫外線を避け、あらゆる感染症に怯え、怪我やストレスは禁忌、寒冷や疲労にも注意するために、ティーンエイジの彼女が多くを諦めることになるのも、その頃の知識と想像力を総動員したところで、分かるはずもなかった。

私は、光あふれる午後、窓を開け放したアトリエで、病気の娘を守護する立派な母親の自画像を熱心に描きはじめた。

日に3度薬を準備し、漏れなく飲ませた。学校に長い手紙を書き、席を廊下側に移してもらった。帽子を被る許可を得て、常に日傘も持たせた。体の辛い日は学校まで車で送り、親しい花屋の主人の申し出に迷わず頭を下げ、迎えに行ってもらうこともあった。微熱が出れば休ませ、1週間後に落ち着いても、念のためもう1日休ませた。
患者会に入り、最新治療を紹介する講演会にも足を運んだ。人見知りに蓋をして、交流会にも参加した。努力の甲斐なく、患者の1/3は発症する腎臓ループスで入院となると、毎日病院に通った。
再燃を繰り返しながら慢性化する疾患の特徴のままに、検査と診察が止むことも、薬の調整がつくこともなかったが、玄関に飾るための肖像画を、私はひたむきに描き続けた。訪れた人の衒いなき視線に耐えうるほどの絵。足を止めて見つめられても恥じることのない絵。幾重にも塗りかさねられた絵具が、カラカラに乾いて端から落剥する日が、そう遠くないことも知らずに。

そして私は、もう一枚の肖像画を、施錠した家の一番奥にある、深夜の台所で描き続けた。

病気の娘の現実と向き合いながら、病気にかかならかった娘を想像することを止められなかった。彼女の背中に日焼け止めを塗りながら、紫外線を恐れる必要のない人びとの幸福を羨まずにはいられなかった。書いた詞を旋律に編み込んで、嬉々として弾き語りする娘を、はかなんで眠れぬ夜は庭を彷徨った。風は囁く—要所要所で行く手を阻まれる彼女の夢は、泡となる運命なのです、と。そして、この先就ける仕事はあるのだろうか、という問いかけは夜露のように地に吸い込まれ、彼女の病を理解してくれるパートナーがこの世にいるのだろうか、という嘆きは闇に飲まれて消える。現に、きみの病気は重たすぎると書き寄こし、去っていった人がいた。

それでも娘は朗らかだった、と書きたい。苦しんだが私も乗り越えた、と書ければいい。だが、現実はそうはならなかった。

生来朗らかだった娘が、どうせ、結局、という言葉を常用するようになる。そのあとに、無理、無駄、という言葉が続くようになる。切り裂かれるような心の痛みをいっとき麻痺させるその言葉に、彼女は次第に依存するようになっていく。私は諦めの悪い人なんだよ、と自分を揶揄しながら、何ごとも粘り強く取り組んできた長い月日は、病という激流に足をすくわれ、呆気なく流されていく。
免疫が自分の体にむかって攻撃を始めると、ステロイドが増強される。ステロイドは彼女の顔や肩のラインを乱す。免疫が落ちて肌荒れがひどくなる。脱毛があるかと思うと剛毛が生えてくる。睡眠が粗くなり心は荒野になる。減量するとまた免疫の誤作動が始まる。果てしない、という言葉は、こういう状況を指すためにあるのだ。

私も抗えなかった。遺伝や紫外線、病気や怪我、薬剤、ストレスなど、多くの因子が疑われているものの未だ解明されない、その病気の原因を粘り強く追及するより、母親である自分の責任を追及する方へと、私はよろめいた。あの夏、なぜ彼女を紫外線の容赦なく降り注ぐ海に送り出したのだろう。あの時、自転車で転んで擦りむいた膝の処置が適切ではなかったのではないか。熱が下がらず休日診療を渡り歩いた連休中の記憶が私を苦しめる。父親の死がどれほど彼女にダメージを与えたことか。そのすべてに気がつかなかった、気を配れなかった、気にも留めなかった過去の自分を私は延々と責め立てた。責め立てられた過去の私は、じっと俯いたまま、釈明ひとつしない。

玄関に架けられた肖像画は、表向きの私をそのまま描いているからこそ、実際の私と似ても似つかなかった。ひた隠しにしていた肖像画は、私の内側を炙り出していたからこそ、本当の私に驚くほど似ていた。それでも私は、毅然とした印象をたたえる肖像を壁に架け続けた。そして、部屋に隠した暗色の絵を布で覆い尽くそうと焦る。しかし、覆う端からそれでも描き切れない私が滲んで、布に染みを拡げていく。

そして私は、対象を眼に見えるとおりに描くことに、徐々に居心地の悪さを覚えるようになっていた。というもの、ある一つの対象、たった一つの対象を描こうとすると、その対象と同時に存在する無限のほかの対象の集積に、苦しめられることになってしまうのである。私たちは同時にたくさんの対象を考えてしまうので、閉じ込める可能性は霧散してしまうのだ。

(二コラ・ド・スタール、1949年)

二つに裂けた私を、縫い合わせるための針を渡してくれた人がいる。

始まりは、癌を発症した父の近況説明だった。それから、病院に対する不満と、医療保険に関する疑念を示し、老いについての鋭い考察を繰り広げたあと、彼女は言葉を切った。
私は、次の言葉を待つ。

細くあけられたフランス窓から、ぬるい風が吹いてくる。吹き溜まりの枯れ葉のような老婦人が、くしゃみを一つ成し遂げる。カウンターの花瓶に挿された桃の花が、瞬きもせず天井を見詰めている。私の耳の奥に棲む巻き貝が、流れる音楽を拾いあげる。ハービー・ハンコックだろうか。懐かしい。
私は耳を澄まし続ける。

それから、斜向かいに座る彼女の、顎のラインで切り揃えられた髪に幾筋かの白が走るのを、僅かに曖昧になってきた目のラインを、節の目立ちはじめた小さな手の甲を、順番に見詰める。最後に、私の手を眺める。かさかさだな。
彼女は依然として押し黙ったままだ。

おもむろに、彼女がハンドクリームをバッグから取り出す。蓋を開け、小指の爪ほどのクリームを人差し指につけると、まず自分の手の甲に、それから私の手の甲にすばやく塗りつける。私たちはともに笑い、そろって同じ動作をする。クリームを甲で擦りあわせ、側面を潤してから指先まで丁寧に延ばし、最後にそっと匂いを嗅ぐ。爽やかなレモングラスの香り。

ねえ、と言って彼女は私の目を覗き込む。
他人というものは、他人の目こそ見るが、覗き込むことは滅多にしない。その、滅多にしないことを衒いなくするのが、20年来の友人である彼女だ。そして、覗き込んだ瞳の中に潜んでいるものを、彼女はかなり正確に読み取ることができる。

このごろ、居心地が悪いんじゃない?

居心地、って?

自分の中の自分が、よそよそしいというか。自分があたかも他人のようだ、というか。本音と建て前が拮抗していた時はよかったけど、なんだか建前が本音の息の根を止めたように見える。Nちゃんの本音はどこにいった?

言葉を交わすことのない沈黙の時間が、20本の指の間を流れていく。
そうした沈黙を破るのは、いつも彼女だ。

私さ、今度のことで、ようやく父を苦しめることができた、と思ったんだよね。私が手を下すまでもなく、彼の細胞が変異して、彼自身を殺めようとしている。ずいぶん時間がかかったけど、望み通り、と思った。ずっと恨んでいたんだよね。外で家族を作っているくせに、週末はきちんと帰ってくる人を。平日なのにたまたま帰ってきた家で、母が倒れているのを発見して、それから18年間目覚めないままの母を、毎週末欠かさず見舞いに行っている人を。そうやって、二つの何食わぬ顔を当たり前のように並べて生きている人を。一つの首に二つの顔をつけて、平日と週末を分けて、二つの家庭を律儀に行ったり来たりしている人をね。

でもね、植物のようになって寝たきりの母と、青磁みたいな色で臥せっている父と、職場と家を行き来しているうちに、ちょっと気持ちが変わってきたんだよね。同情じゃない。況してや赦してもいない。ただ、二つどころか、複数の顔を並べて人は生きるしかないんだっていう達観?母を見舞う私。父を見舞う私。職場の私。独りの私。Nちゃんといる私。恋人と会う私。まあ、みんな違うし、同じ顔だったら地獄。母に会うときの顔を父の時につけていけないし、父用の顔を母に会うときは隠していく。Nちゃんには、両親と会うときの顔をちらちら見せながら一部隠している。職場には、職場用以外の顔を死んでも見せないね。彼といるときの顔は、ごめん、Nちゃんには見せない。独りでいるときは、すべての顔を床に並べてその上を歩き回る。

言いたいことはね、自分で自分を排除してはいけないっていうこと。汚い自分を根こそぎ排除しようというのは、それこそ自己免疫の反乱じゃない?闘うべきは自分じゃない。いろんな顔を挿げ替えながら生きていけばいいかな。お父さん、からだ大事にしてねって優しく言う私がいてもいい。父のこと、大嫌いだけどね。

私にようやく発言する機会が回ってくる。

私は、ただ一つの顔になりたいな。

それもいいんじゃない?

彼女は、長い手を上げて3杯目の珈琲を頼む。私は、心の階段を下りてひとり物思いに耽る。
ふたたび、心地よい沈黙の時間が、20本の指の間を流れていく。

妹が亡くなったあとしばらく、私は熱心に彼女の絵を描いた。彼女の顔を忘れないために自分の記憶の中にあるその顔を、いろんな角度からスケッチブックに再現していった。もちろん妹の顔を忘れるするわけはない。私は死ぬまで妹の顔を忘れられないだろう。しかしそれはそれとして私が求めていたのはその時点の私が記憶している彼女の顔を忘れないことだった。そしてそのためには、それを形として具体的に描き残しておくことが必要だった。
 
村上春樹『騎士団長殺し 第1部』抜粋

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