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実用性の乏しい、座り心地の悪い椅子

多くの像を目にし、たくさんの声を耳にしたあとは、できるかぎり長く目を瞑っていたい。

必要なのは眠りではなく、閉じること。光から離れ、音を遮断して、鎮静すること。見たもの、聞いたことを、沈殿させること。
見詰めないこと。触れてみたくなるから。触れたら握り潰してしまうかもしれないから。
ペンを持たないこと。嘘を書いてしまうから。なにかを言葉にするには時が必要だから。

深夜、窓をわずかに開けて、灯りは仄かにして、床に腰を下ろし、膝を抱えて座る。
見たもの、聞いたこと、考えたことすべてが、わたしの内側に掘られた昏い井戸の底を打つまで、身動ぎもしないで。
静けさを身体で感じられるまで。

だが、〈静けさ〉は〈不安〉とも親和性が高いので、いつの間にかそれはわたしの隣に座っている。洞穴のような目をいっそう落ち窪ませて、あわよくば囁きかけようと、わたしの様子をそっとうかがっている。

晩年、祖母は朝までラジオをつけていた。隣の部屋で横臥するわたしの耳にも届くほどの音量で。
静けさは不安を連れてくる─ラジオは不安を駆逐する─騒がしさは彼女を安らかにする。
やがて空は夜を握る手を緩め、どこかで囀ずる鳥に明け渡す。新聞配達のバイクが低く唸り、隣家の早起き鳥が雨戸をそろそろと開ける。
ありがとう。彼女はラジオをねぎらい、欠伸をして目を閉じる。

不安はわたしを殺しはしないが、ぼんやりした不安が芥川龍之介を追い詰めたことを忘れない。ずっと一緒にはいたくない ─ 畳んだ膝をゆっくりとほどき、立ち上がる。

わたしもラジオをつける。祖母のように、糸を紡ぐように、指先に意識を集めて。

むかし、夜更けに〈音の風景〉を聴いていた。5分間、音が流れる。
夕餉のしたくをする音。最後の花火が上がる音。冬の海が荒れる音。タップをする無数の足音。夜が崩れる音。朝が割れる音。鳥が空を切り裂く音。彼女が聴いていたかもしれない、あの時間のあの音。

昏い井戸の底がぐらりと揺れる。
曖昧に光る水に向かって目を凝らす。

わたしの書くものは、実用性の乏しい、座り心地の悪い椅子に似ている。何の役にもたたない。誰も救わない。バランスが悪いので、座っても休まらない。我慢して座っていると、身体のどこかが軋みはじめるかもしれない。

それでも、井戸の奥で鈍く光るものについて、

路地に夕方の風が渡る、花が宙を蹴って着地する、銀杏をポケットに詰めている、遠くでずっと泣いている、雨の脚音が不意に遠退く、粉雪が庭を砂糖菓子にする、今日が暮れ、また明日が明けることに怯えるあの人のことについて、

漆黒の闇の滑らかな手触り、重い蓋をした記憶の脱走、アイロンで伸ばせないしわくちゃな悲しみ、小さな思い出とのあや取りについて、

その感触や微かな音、眩さや翳りについて、

何のためにもならないいびつな椅子を作るように、目を逸らさずに書き続けていたい。

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