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ベートーヴェンのアトリエ (二)

 いつもより早起きした。寒いけれど、苦にならない。せめて、スカートにしようとロングの巻きスカートを選んだ。化粧は、不評だったから色つきのリップだけにする。今日は、髪型をサイドアップにした。
 六時に下で待ち合わせている。人見さんは車を出しておくと言っていた。
 家族の車以外に乗ったことはなかった。考えたら、緊張してきた。少し早いけれど家にいても落ち着かない。ブーツを履いて外に出た。
 マンションの入り口付近で待つことにした。向かいの脇道から、車が出てきた。
 ヘッドライトが少しだけ光っている。じっとみていると、目の前で停まった。エンジンをかけたまま人見さんが下りてきた。今日はニット帽をかぶっていて、とても似合っている。
「おはよう。早いね。助手席に乗って」
「おはようございます」と返し、乗り込んだ。なんだか、車の中が木目調になっていて、家の車より高級そうだった。嗅いだことのない不思議な香りがしている。
 空腹かを訊ねられ、「それなりには」と返す。
「行った先で食べるのでも良い?」
 いつもバイトは朝食を食べずに入るから平気だった。
「間に合うかわかんないけど、海に向かうね」
「海に行くんですか!」
 思わず、大きな声をだしてしまった。
「高速に乗れば、日の出にぎりぎり間に合うかなと思ってさ」
 海がみられるなんて、思わなかった。父が生きていた頃は高知に住んでいた。だから、父との思い出は、海とセットだ。父の死後は親子で、岐阜にある母の実家に身を寄せた。それからはあまり海へは行かなくなった。わたしが中学生の頃、母は、なんの相談もなく『佐々原さん』と再婚した。すぐに女の子が生まれて、その子ももうすぐ小学生になる。今も岐阜で三人仲良く暮らしている。
「好きって言った割に元気なくなった?」
 少し感傷的になっただけだ。人見さんの方を向いて、大丈夫だと伝えた。運転をしている横顔をみて鼻の形がきれいだと思った。ハンドルを握る手まで素敵で、ついみとれてしまう。人見さんは、運転に集中しているから、気づかれない。
 三十分ほど走ってから、高速道路のパーキングに入った。少し歩くと展望台があるらしい。
 辺りは薄明るくなっているが、今日の日の出は六時四十六分なので、まだ少しある。
 車からおりる。海が近いからかさっきよりもずっと寒く感じる。
「風が強いね」
 人見さんは嬉しそうに言う。わたしは身を縮めながら、頷いた。
 枯れ草の生えた遊歩道を歩く。すぐに展望台にたどり着いた。ウッドデッキのようだった。あがると、靴音の響きが変わった。
 手すりの前に並んで立って、海をみる。
 水平線に、光がみえた。
 少し顔をのぞかせた太陽が、海に光の道を作る。寒さも忘れその光景にみとれた。
 メロディが下りてきて、口ずさむ。音をみつけては拾っていく。
 良い曲になりそうな気がして、ポケットから、スマホを取り出した。ボイスレコーダーを起動させ、最初からメロディラインを口ずさんだ。
 朝日は強い光を放ちながら、水平線から浮かび上がった。
「間に合って良かった」
 つぶやきが聞こえ、隣に立つ人見さんをみた。
 優しく笑いかけてくれる。
 ニット帽や、頬や肩が朝日に照らされて金粉を纏ったようにきらめいた。
「一緒に写真撮りましょ。日が昇っちゃう」
「え?」
 手に持ったスマホを内カメに切り替えた。少しだけ近づく。精一杯腕を伸ばして写真をとる。
 逆光だけれど、朝日や海もかろうじて映り込んだ。
「これは、初めてドライブ記念の写真です」
「ドライブ、初めてだったの?」
 スマホ画面をチェックしながら頷く。
 人見さんが横からのぞき込んできて「うわ、間抜け面」と言ったあと「律は、かわいいよ」と、わざわざ付け足してくれた。
「寒いから、戻ろうか」
 車へ戻りながら、「さっきの歌なんだけど」と訊かれた。恥ずかしくてこたえられない。
「まあ、いいや。すごくキレイだなって思っただけ」と言われ、口元が緩んだ。
 車の中の空気は、朝日を見ている間ですっかり冷たくなっていた。それでも風がない分、だいぶましだった。
 人見さんは、さらに車を走らせた。高速を下りてからも、海沿いを走る。わたしは、外をずっと眺めていた。
 人見さんは、早朝から開いている喫茶店に車をとめた。朝食をとる。窓際の席が空いていたので、海を眺めながらベーコンエッグのついたモーニングセットを食べた。贅沢な時間だと思った。
 この後は、港まで移動をする予定だという。
「早く着きすぎるけど、もう移動しようか」
 港に家具の卸が集まったエリアがあるらしい。椅子を買うだけなのにと思ったけれど、多分、朝日のついでなんだと思った。その近くに、アウトレットモールもあるから、後で行こうとも言っていた。
 広大な駐車場にたどり着いた。時間が早いので、まだあまり車がない。
 まだ、開く時間ではないから、車の中でしばらく話をしていた。人見さんのしていた仕事の話もきいた。
「人の欲につけこむ仕事だったなあ」
 とまったままの車のハンドルを握って、そう言った横顔が寂しそうだった。
「お金を儲けさせて、喜んでもらえることもあったけどね。僕が相手にしていた顧客はさ、生活にはなんの不安もないそこそこ金を持った人たちで、損をさせることもたくさんあったけど、基本損をしようと思って投資する人はいないから、十分すぎるお金をもっと増やす手伝いをして」
 人見さんはため息をついて、「お金で買える物に、たいした価値はないのに」と言って、わたしをみた。
「だけど今の僕は、本当に価値があると思えるものに、お金を払っている」
 人見さんが、微笑んだまま目を閉じる。わたしは、人見さんの言葉をただ聞いていた。
「こんな発見に出会えると思わなかった。人はきっと最後まで変化し続けるんだ。律にはまだわからないと思うけど、いつか、僕の言葉を思い出して」
 三ヶ月後には絵が完成して、そのうちまた別の仕事を始めて、もしかしたら遠くの土地へ行ってしまうのかもしれない。人見さんは、今のこのときのわたしを絵に閉じ込めることが目的なのだ。
「早起きしすぎたから、少し寝るよ」
 人見さんはシートをたおして、背をむけた。背中が震えた気がした。
 エンジンをかけたままでエアコンは効いているけれど、窓によると外の冷たさを感じる。
 本当に、寝てしまったので、一人することもなくなった。さっきみた朝日を思い出してみる。一緒に撮った写真がみたくなって、スマホを出した。逆光でも、表情はわかる。間抜け面と言っていたけれど、そんなことはない。目を丸くした人見さんは、貴重な気がした。
 しばらくして人見さんは起き上がった。少し外を歩こうと言いだした。海が近いせいかここも風が強い。人見さんはコートの襟をたてて、首をすくめた。
「後二十分もすれば、オープンするけど並ぶのもなあ。外は寒いしなあ」
 寒さに耐えきれずに、結局車に戻ることになった。人見さんはエンジンをかけ、車内を暖め始めた。待つ間にどこか行きたいところはないかと訊かれた。
「今じゃなくても、休みの日でも、車でないと行けないところだとか。今はまだ、連れて行ってあげられる」
 今はイメージを絵のイメージを膨らませる段階だが、そのうちずっと室内作業になると言う。わたしは行きたい場所を考えてみる。一緒ならどこでもいいと言いたかった。
「人見さんの行きたい場所に連れてってください」
 人見さんが真剣な目をしてわたしをみた。
「行きたいところばかりで、決められない……」
 それから、怒ったのかと思うくらい顔をゆがめた。ハンドルに額をつけて考え込む。しばらく顔をあげなかった。
 人見さんがエンジンがとめた。運転席のドアが開くと冷たい空気が一気に流れ込んできた。わたしは、軽く身震いをする。
「もう、店が開く時間だから行こう。行きたい場所は一人で考えておく」
 背を向けたまま言った。わたしも慌てて外へ出る。早足で行ってしまう背中を追いかけた。人見さんは一度振り向くと、リモコンをつかって鍵を閉めた。
 すごい勢いで歩くから、必死でついて行く。
「後三ヶ月で約二千百六十時間、これから五百四十時間以上が睡眠にあてられて、残った時間の三分の一を律と過ごせるとしたら、五百四十時間しかない。二百七十万円しか使えない」
 振り向かずにそう言った。突然立ち止まったので、背中にぶつかった。
「時給倍にしてもいい?」
「それは困ります」
「やっぱり断られるかあ。まあ、いいや。時給は契約書に明記しちゃったから仕方ないけど、これから先、僕の求めには応じること。ちゃんと憶えてるよね契約内容……」
 わたしが承諾すると、人見さんはまた歩き始めた。港は広いから、なかなか家具のエリアにたどり着かない。
「乙に不利益でない時給変更は自由にできるものとするっていれておけば良かった。三倍にしたって、一千万にもならない」
 人見さんの金銭感覚は一体どうなっているんだろう。何も言えずに話をきいていた。
「高い椅子買ったってしれてる。有意義にお金を使うのは難しい。使うだけならギャンブルと女につぎ込めば簡単なんだけど、ギャンブルは下手すると増えちゃうし、女につぎ込んで、その金をホストに貢がれてって循環を想像すると、やめとこうかって……」
 思わず人見さんの袖をつかんで、立ち止まる。女の人はやめてほしいとは言えない。
 代わりに時間を増やしてほしいと伝えた。
「計算のもとになってる数字をわかってないでしょう。最初ので、一日六時間なんだよ」
「それでもいいです」と、袖を掴む手にさらに力をこめる。
 人見さんは歩き始めた。袖を放すタイミングを失ってそのままでついて行く。
「時間の長さの感じ方はね、年齢によって違うんだよ。若ければ若いほど、時間は長く感じる」
 人見さんの話が気になった。
「同じ一年でもね、一歳の子にしたら、一分の一だし、八十歳の人からしたら、八十分の一なんだからさ。今までの人生における割合が違うんだよ。まだまだたくさんの選択肢があって可能性の広がっている律と、ある程度先のみえている僕と……同じはずもないしね。僕にはどうってことのない長さが、律には苦痛になるかもしれないよ」
 人見さんと過ごす時間が苦痛になるはずがない。
「平気です」
「まあ、いいや。律がそう言うんなら。自分の持っている時間の価値がわからないのが若さなんだと思うから。悪いけど、遠慮はしないよ」
 やっと家具のエリアにたどり着く。オープン直後から、家族連れやカップルで賑わっている。ダイニングテーブルや、洋服ダンスまでいろいろな種類の家具が並んでいる。デザインや色、素材まで様々で、この中から何かを選ぶのは大変そうだと思った。
 案内係の人にたずねて椅子のコーナーへと向かう。一言で椅子と行っても、揺り椅子や、背もたれのないものまであった。
「律には、ナチュラルな色の方が似合いそうだよね。後は座り心地で選んだら?」
 次々椅子に座って選ぶことになった。
「いろいろありすぎて、迷いますね」
「選択肢は多ければ多いほど良いわけではないってことかな……いやいや、それは違うな。多いほうが良いに決まってる。決められない側の能力に問題があるんだ」
 人見さんが顎に拳を当てて考え込む姿が素敵で、じっとみてしまう。二手に別れてまず絞り込むことになった。十五分後に人見さんがここに戻ってくる。
 絵を描く都合上、ナチュラルなものと言っていたけれど、一人になってからは、イタリアン家具やモダンなものにも座っていった。ヨーロッパのお城にありそうな椅子もあって、優雅な気分になる。高くて、自分では買えないものばかりだ。
 わたしがほぼ遊んでいる間に、時間は過ぎたようで、人見さんが戻ってきた。
「意外なものが気に入ってるんだね」
 わたしは、ヨーロピアンアンティーク調の椅子に座っていた。
「気に入ったならそれも買おう。僕はもう決めたから、座り心地を試しに来て」
 着いて行く。
 人見さんの選んだ椅子は、大きな木の切り株が座りやすいようにくり抜いてあるものだった。
「樹齢数百年の杉を加工してあるって」
 木の皮は背面に残してあるけれど、年輪の刻まれた滑らかな肌が優しい曲線で削り出されている。
「みた瞬間、この椅子になりたいって思った」
「素敵ですね」
 人見さんが「笑われるかと思った」と、わたしをみつめた。わたしは首をかしげる。
「わたしもよく……」
 言いかけて、恥ずかしくなった。
「ぎ、ギターになりたいって、思います」
「なにか楽器をしてるんだろうなと思ってたけど、ギターなんだ。へえ、今度聴かせてね」
 人見さんの前で、まともに弾けるかわからない。
 促されて椅子に座る。肘掛けになった部分の丸みが、優しく体を包む。ものすごく、安心できる不思議な椅子だった。
「みた目ほど重くないって言ってたよ。中身は結構くりぬいてあるんだって」
 椅子の横にあるプレートの文字をみて驚いた。慌てて立ち上がった。桁が一つ違う。車が買えそうだ。人見さんに高すぎると伝えた。
「一応、交渉はしてみる。だけど、高くないでしょう。こんな椅子どこ探したってないよ。だいたい樹齢一年につき一万円は、妥当なんじゃない? 樹齢四十年のものに四十万出すって言ってるんじゃないけどさ」
 人見さんの言うことは、いつでも正しいような気はするけれど、たとえ正しくても共感できるものではなかった。わたしには、価値ある素晴らしいものを手に入れる力はない。
「座り心地は気に入った?」
 頷く。
「わかった。値段は気にしないで。僕が僕のものを買うだけなんだからさ」
 スーツ姿の女性店員から、商品に関する説明を受けた。いつ頃製造された物かなど人見さんからも質問をする。値段交渉をすると言っていた通り、何度かのすりあわせののち、表示価格より二十パーセント値引いてもらって、配送料までただにしてもらっていた。人見さんは書類にサインをし「月曜日に振り込みます」と、告げた。
「そうそう、もう一脚は現金で払いますが……」と言ったあと、わたしをみた。
「座っていた椅子でいいの?」
 突然話をふられて慌てる。頭を思い切り横に振った。
「いいです。座ってみただけです」
 人見さんは、正面を向いて「やっぱりいいです」と伝え、謝っていた。
 家具屋を出て、隣接するアウトレットモールへ向かうことになった。
「本当は、もっと値引いてもらえたと思うんだけど、なんだか粘るのが嫌だったんだ。あの椅子に失礼かなと思って……」
 満足げに笑っているので、嬉しくなった。
 アウトレットモールについてすぐ「今から僕が要求することに対して、拒否権はないからね」と、念を押された。身構える。
 モールに入っている店の中から、人見さんが何店舗か選び出した。そこで、店員さんに『できるだけ長く着られて似合う服』を三組ずつ選んでもらう。わたしが試着して、人見さんが気に入れば、買うという行為を繰り返した。紙袋がたくさんで、とても持ち帰れない。三軒目から、自宅に送るように頼んでいた。二時間以上、着せ替え人形にさせられた。
「こんなに服を買って、置くとこありません」
「ひとまず僕の家に置いといたらいいでしょ。これは、絵を描くときの衣装みたいなもんだからさ」
 そういいながら靴までそろえていた。
「気に入った服は持って帰っていいからね」
 人見さんに、似合っていたと言われ、恥ずかしくなってうつむいた。
 帰りの車では、ほとんど会話がなかった。外の景色をぼんやりと眺めながら、買ってもらった服を思い返していた。マンションにたどり着いた頃には、夕方になっていた。
「疲れたね。今日はデッサンをする気力はないなあ。律は服を脱いだり着たり大変だったでしょう」
「不思議な感じでした。鏡に映る自分をみて、何度も驚いて」
「結構ベーシックな物が多いから、アレンジきくんじゃないかな」
 ファッションのことはわからないから、首をかしげて曖昧にした。
「少しだけ寝ようかな。そうだな……僕の目覚ましになってもらおう。一時間経ったら寝室に起こしに来て。その間、ここでゆっくりしてくれたらいいよ」
 わたしも少し疲れていた。体がと言うより、驚きの連続だったせいで頭が疲れている。
「自分で調節してね」と言って、リモコンを渡してくれた。
「ニートをしてると、体力落ちるんだろうね。一時間で起こしてよ」
 部屋を出ようとしている。背中に声をかけた。立ち止まって振り向く。
「どのお部屋に起こしに行けばいいのか……」
 教えてくれると言うので、後をおいかけた。部屋を出て玄関の方を指でさした。ついでにトイレや洗面所の位置も教わった。
「よろしく」と言い残して、人見さんは寝室へ向かう。部屋に入るまでみていた。
 リビングに戻って、部屋の隅っこに座った。
 無性にギターがひきたい。
 人見さんと会うようになってまだ二日目なのに、いろいろな驚きがあるせいか、たくさんの時間を過ごしてきたような感覚がある。
 目を閉じると、場面場面でみた人見さんの笑顔や背中が浮かぶ。
「ギターが弾きたい」
 メロディがいくつでも生まれそうだ。降り注ぐ音を受け止めながら、鼻歌にしてみる。自然に笑顔になってしまう。自分の中に、今、きらめきしかない気がした。
 人見さんの部屋にいて、起こしにもいくなんて、一昨日のわたしは想像もしなかった。
 胸が締め付けられる。
 男の人の寝室に入って、どうやって起こしたらいいのかわからない。長く息を吐いてみる。そんなことくらいでは、緊張はどいてはくれなかった。
 ため息をついては、時計を確認する繰り返しで、やっと一時間が経過した。寝室へ向かう。ドアの前で、一度深呼吸をした。一応ノックする。返事はない。「失礼します」と、声をかけて、中に入る。八畳近くあるのに、ベッドが端にぽつんと置いてある。ほとんど何もない。近づいていく。起こすために入ったはずなのに足音を立てないように気を遣ってしまう。ベッドサイドに立った。静かに眠っている。
「一時間経ちました」
 薄暗いけれど、何も反応しなかったのはわかった。
 布団の上から、体に触れた。軽くたたいてみた。人見さんが体を動かす。目を、あけた。
「ああ、良かった」
 わたしをみて言った。
「目覚めたら、もう何もみえなくなってるんじゃないかって、眠る前にはいつも不安になる」
 ただ、人見さんをみていた。
「暗闇は平気?」
「平気じゃないです」
「でしょう」
 ベッドの中でのびをしはじめた。「あいたた」と、体を縮めて、おなかの辺りを押さえた。目を閉じて痛みに耐えているようだ。
「筋が違えたかも、年取るとあちこちガタがくる」
 片目だけ開けた。
「もう起きたから戻っていいよ。しばらくしたら出てく」
 心配ではあったけれど、頷いて部屋から出た。起きたばかりの時、人見さんが言ったことが気になる。
 ――何もみえなくなってるんじゃないかと……。
 もしかしたら、何かの病気でそうなってしまうのかもしれない。だから、仕事も辞めて、やけになっているのだろうか。お金の使い方は感覚が違うけれど、やけになっている印象はない。人見さんは、すぐに出てきた。
「時間、もう少しいい?」
 わたしももっと一緒にいたかった。
「なんか食べに出る?」
 人見さんをみたまま考え込む。
「買いに行くか、持ってきてもらうかならどっち?」
「買いに……」
「じゃあ行こう」
 コートを取ってくれた。
 エレベーターの中で「この辺では律のコンビニしか、知らないんだけど……」と言われた。
 今の時間帯の人たちとは、面識もないので別にかまわない気もする。
「駅の方まで行けば、早く帰れた日に寄ってた定食屋があるよ」
 お仕事帰りに寄っていたお店に、行ってみたい。嬉しくなってつい声が大きくなった。人見さんが驚いたような顔をした。
「あの……ふつうのお店だからね。過度の期待は困るよ」
「普通でもいいです」
 恥ずかしくなってうつむく。頭に手のひらをのせられた。
「普通だけど、美味いよ。とにかく行こうか」
 日も落ちて、外はかなり寒くなった。少しだけ、人見さんに近づいて歩く。手袋を忘れたから、指先が痛む。息を吹きかけて温めた。
「手袋は? この間、暖かそうなのしてたよね」
 急いでいて忘れてしまった。人見さんがわたしの右手を取った。手が温かい。
「冷えてるね。そっちはポケットにいれておけば、転びそうになったら、引き上げてあげるから」
 わたしの右手を少し上に引っ張りながら言った。
「転んだりしません」
 子供扱いされて、ささやかに反論を試みる。
 人見さんが「冷え性? なかなか温まらない」と、手を握ったままで、自分のコートのポケットに入れた。すぐに温かくなる。
「カイロ持ってくればよかったかなあ」
 手をつないでいるだけで段々と頬も体も熱くなってきた。顔が赤くなっている気がする。暗いから、気づかれずにすみそうだ。
 人見さんの手は大きくて、わたしの手とは違う感触だ。
 意識が手にばかりいってしまう。慣れているはずの道で足元がおぼつかない。歩調を合わせてくれているのだろう。ゆっくりと歩いた。
 何も言ってくれない。話しかけたいけれど、話題が思いつかない。
「律、明日の予定は?」
「朝一でバイトに入りますが、特に……絶対ってものはないです」
 数日前までは、自動車学校か、カラオケでギターの練習をと思っていた。誘ってもらえるなら、そちらを優先したい。人見さんがまたバイト中に来てくれると言った。
「楽しいなあ。若いときにこういうことってしとかなきゃいけないよな。女の子に会いにコンビニ行くなんて、全くなかったからな」
 人見さんの言葉が恥ずかしくて、顔を隠してしまいたくなる。大通りに近づいているので、段々と明るくなってきた。
「学生時代の僕はどこか周りを馬鹿にしているようなところがあって一人でいることが多かった。本を読むか絵を描くか、何も知らないくせに、何かをわかっているつもりでいたな」
 学生の頃も、きっと格好よかったんだろうなと思う。だけど、近寄りがたかったのかもしれない。人見さんが二十歳の頃、わたしは五歳だと気づいて軽く落ち込む。子供扱いされても仕方がない。
「律とさ、僕が若い頃にやり残したことを、一緒にしたいんだよね」
「やり残したことですか?」
「やり残したことだけじゃなく、最近できたやつもね。せっかく自由な時間ができたから、謳歌したい」
 一緒にいろんなことができる。一年のうちでも一番寒いくらいの季節だと言うのに、心は暖かかった。コンビニの前を過ぎた。明日は買い物に来てくれる。思い出しただけで、口許が緩む。
 駅の少し手前にお店はあった。扉の前で、人見さんは手をはなした。
 行きつけは、家庭料理のお店だった。少し時間が早いせいか、お客さんはいない。四人がけのテーブルが四つほどの小さなお店だ。古びたテーブルにナイロンのテーブルクロスがかかっていて、椅子の足も錆びていた。
 年配のご夫婦がしているようだ。
「あれ、久しぶりだね。妹さん?」
 人見さんが訂正だけした。挨拶したものの、どういう関係か説明が難しい。
「家が近所でたまたま友達になったんですよ。これから時々一緒に来るからよろしく。名前は佐々原さん」
「かわいい子だねえ」
 おじさんが出てきて、注文を訊いてきた。人見さんは「おすすめで」と返す。おじさんは厨房へ入っていった。
 人見さんがおばさんと楽しげに話している。わたしは、前からの知り合いに紹介してもらえて嬉しかった。友達だと言われたのは、事実を言われるよりはずっとましだった。年の離れた。どうしてもそのフレーズはつきまとう。
「ねえ、律ちゃん」
 おばさんにそう呼ばれて驚く。
「歌が上手いんだって」
 両手を胸の前でふって否定した。
「好きですけど、うまくはないです」
「僕も、絵を描くのは好きだけど、うまくないなあ」
 人見さんの言葉におばさんは大げさに驚いた。それから「あっ、お茶出さないでごめんなさい」と厨房の方へ急ぎ足で向かっていった。
 そういえば、まだ絵をみていない。
「明日、画材を買いに行きますか?」
 人見さんは頬杖をついてわたしの顔をじっとみた。
「そうだね。鉛筆を買いに行きたいな」
「画材屋さん楽しみです」
 おばさんが、お茶を持って戻ってきた。
「なんだか、不思議な組み合わせだね。人見君もなんか丸くなった感じがする」
 人見さんが伏し目がちに笑う。
「律が癒やし系だからかなあ」
 おばさんも同意している。恥ずかしくなってうつむく。
「こうみえて、この子毒舌なところもあってさ。僕にベートーヴェンなんてあだ名つけてたんだよ」
 おばさんが「前の髪型はそんな感じだった」と、声を立てて笑った。
「ずいぶんすっきりしたね。だけど、わざわざ寒い季節にそんな頭にすることないのに」
 ニット帽をぷらぷらとぶら下げた。
「こいつがあるから大丈夫なの。髪洗うのも楽だしいいよ」
 そうしている内に厨房からおじさんが出てきた。
「今日は粕汁と豚の生姜焼きな」
「粕汁? 律、大丈夫?」
「粕汁では酔いません」
 おじさんのお料理は家庭的な味で温かい気持ちになった。
 人見さんがコンビニでみかけていた頃も、夜にはこのお店に寄っていたのかと思うと不思議だ。おばさんが丸くなったと言っていたから、朝ほどでないにしても顰め面だったのかもしれない。
 食べている内に、お客さんも増えてきた。
 会計を済ますと「時々は顔を出します」と言い残して、すぐに店の外に出た。外は寒くて、出た途端に身を縮めた。
「いい人達だろ?」
「お料理も美味しかったです」
「卒業してここに残るか知らないけど、この辺りで暮らすなら行ってあげて」
 言葉がひっかかる。絵を描く期間を大体三ヶ月と言っていたけれど、その先、わたしとは関わり続ける気がないのかもしれない。
 マンションの下に着いた。
「元気ないけど疲れた?」
 首をかしげた。人見さんが、マンションの入り口の明かりに照らされている。優しく微笑みかけてくれる。
「連れ回してごめんね」
 思い切り頭を横に振った。楽しかったことを伝えた。明日は早いという理由で、マンションの前で別れた。
 比較的早く帰ったのに、落ち着かなくて何もする気になれなかった。
 明日はコンビニへ買い物に来てくれる。早めに布団に入った。
 まっ暗な部屋の中で目を閉じても、頭の中で人見さんの顔が繰り返し再生される。鼓動のリズムが早くなっていく。闇にため息がとけていく。
 気がついたら起きる時間になっていた。いつの間にか眠っていたようだ。
 朝、バイト先へ着くと、事務所にオーナーがいた。深夜のバイトが、急に休んだから代わりに入ったと言っていた。上から制服を着た後、今月いっぱいでバイトを辞める意思を伝えた。理由も何もきかれず、あっさりと受け入れられた。引き留められたかったわけでもない。それでも、あまりにそっけなく少し落ち込んだ。入れ替わりが激しいから、オーナーの方は慣れているのかもしれない。
 早く人見さんに会いたかった。
 早朝は二人で回すのだが、もう一人が来ない。気になってシフト表を見ると、オーナーが「休みの連絡が入ってるよ」と、疲れ切った声で言った。
 一人で回せるか不安になる。
「夜勤の田中君が、九時まで残ってくれる」
 田中君はいつも夜勤に入っている大学生だ。残ってもらえるのは助かるが、顔をよく合わす割に慣れていなかった。黒縁眼鏡をかけていて、髪も真っ黒で長めだ。おまけに無口なので、近寄りがたい。
 共同作業はほとんどないので問題なかった。
 早朝の品出し作業も終わり、レジ下の引き出しに、箸を補充していると来店客を知らせるメロディがなる。期待して顔をあげる。別の人だった。作業をしながらも、落ち着かない。いつも以上に来店客が気になる。シフトの時間も後二十分ほどになっていた。寝坊でもしたのかと、諦めかけたとき姿がみえた。
「いらっしゃいませ。おはようございます」
 ただの挨拶なのに、恥ずかしくて声が小さくなってしまう。人見さんはわたしをちらっとみて微笑むと、移動してスナック菓子の棚の前に立った。何を選ぶのか気にはなるけれど、ホットスナックの追加分を用意しなければならない。
 奥の冷凍庫から、ミニ唐揚げを出してきた。凍った唐揚げを網にあけて、適温で保たれている油の中につけた。網の周りから気泡があがり、音が出る。タイマーをあわせてスタートさせた。
 振り向くと、人見さんの姿がみえなくなっていて、目で探した。今は雑誌の前にいるようだ。
 隣のレジに立っている田中君に話しかけられた。
「今月でバイト辞めるの?」
 もう耳に入ったのかと驚いた。
「いいところでも、みつかった?」
「そういうわけでもないんですけど……」
 説明は面倒だ。レジ下の引き出しをあけて、必要もないのに割り箸を並べ替えた。
「朝早いのかったるいもんな。俺は、いろんなシフトで入るけど、この時間帯が一番嫌い」
 曖昧に微笑む。
「この後ってなんか用事あるの?」
「わたしですか?」
 思いがけないことを訊かれて、狼狽える。
「俺、レジにでも話かけたと思う?」
 眼鏡の縁と重なって普段はあまりみえない眉が不機嫌そうに変形した。
「用事はいろいろ、あります」
「そう、佐々原さん外大だったよね」
 田中君の顔をうかがいながら頷く。無表情でわからない。困っていると、背後でタイマーが鳴った。
 揚げ油の方へ移動した。タイマーをとめて、網を引き上げた。
 金属製のスコップですくって、プラスチック製のカップに移していく。早速ホットスナックの棚に並べる。後ろから扉を開いて手を入れると、頬に温かい空気があたった。ポテトや唐揚げのにおいがした。
 交代の人たちがスタッフルームに入っていく。もうすぐ時間だ。途切れ途切れではあるが、お客さんがレジに並ぶ。人見さんは、まだ雑誌の前にいる。ついじっとみてしまう。
「あの客、気になる?」
 田中君に声をかけられて我にかえった。頬が熱くなる。
「なに、その反応」
 田中君は不機嫌そうな声を出した。
 その場に居づらくなったので飲料の補充をするために、スタッフルームから冷蔵庫の裏に回った。薄暗く寒いのであまり好きではないが今はここが安心できた。ペットボトルの棚に、後ろから補充していく。金属のすれる音が響く。交代の時間が近いので適当なところで切り上げた。
 戻ると、人見さんは居なかった。せっかく来てくれたのに残念だ。
 後の人に引き継いでスタッフルームに入った。上着を交換するだけなので、男女ともそこで着替える。ロッカーに制服をしまっていると、田中君が近づいてきた。
「連絡先教えて」
 田中君は少し怖いから断りにくい。黙っていると「ラインでいいよ」と言われた。ラインならかまわない気がして、まだロッカーの中にあるコートのポケットから、スマホを取り出した。
 友達追加をした後、簡単に挨拶をすませスタッフルームをでた。
 人見さんはやはり店内にはいない。何か買って帰ってしまったのだろうか。店の外に出ると、寒くて首を縮めた。少し見回したがいなかった。一旦家に帰って連絡を待つことにする。交差点へ向かって歩き始めた。店から少し離れたところでなんとなく振り向いた。人見さんが店舗の横に立っているのがみえた。わたしは、駆け戻った。人見さんは驚いた顔をしている。
「こんなに近くで話していいの?」
「もう、辞めるって伝えたので大丈夫です」
「いや、今日いた男の子」
 首をかしげた。
「レジで話してた」
 田中君のことらしい。
「今日は予定があるって言いました」
 人見さんはわたしの顔をしばらくみていた。
「まっいいや。寒いから帰ろうか」
 並んで交差点へ向かう。人見さんをみると、袋を持っている。何を買ったのか訊ねると、袋の口を開いてみせてくれた。
「そのパン美味しいですよ。わたしも時々買います」
「多めに買ったから、一緒に食べよう」
 頷いた。今日は画材屋さんに行く予定だ。一度家に帰って財布を取ってくると伝えた。
「服はうちにあるやつ着てったらいいからね」
 マンションの前に着いたので、一旦別れた。急いで家に戻って、必要な物だけを取った。階段を駆け下り、通りに出る。人見さんのマンションへ向かう。背後から「早いなあ」と、人見さんの声がした。立ち止まる。
「待っていてくれたんですか? 寒いのに……冷えたら風邪ひきますよ」
「それはまずいな。気をつけるよ」と、真面目な顔になった。
 道を渡るために、車が来ていないかを確認した時、こちらへ向かって歩いてくる田中君をみつけた。歩きスマホをしていてこちらには気づいていない。
 人見さんの袖をひっぱった。人見さんも田中君に気づいたようだ。ひとまず、二人で建物内にはいった。
「彼も、この辺りなの?」
 集合ポストの前で人見さんに訊かれた。
「あんまりシフトも重ならなかったので、知らないんです」
 田中君が前を通っている。急に振り返って目が合った。明らかにこちらをみた。立ち止まるわけでもなく、そのまま通り過ぎて行った。よく考えたら、隠れる必要もなかった。少しだけ待って、マンションに向かう。エレベーターの中で、話しかけられた。「今日、誘われたの?」と訊かれ、思い切り否定した。
「用事があるか訊かれただけです」
「それ、誘われたんでしょ」と、言われて戸惑う。連絡先を教えなければ良かったと後悔した。
「でもわかるなあ。律みたいな可愛い女の子とバイトで一緒になって、同年代ならそりゃあね」
 一人で納得している。
「バイトを辞めるんだと思って、焦ったのかな? それなのに、こんなおっさんと好きな子が歩いてたらねえ」
 気の毒そうに言う。わたしの心は沈んだ。 
「まあいいや。君たちはまだまだ若くて時間もあるんだし、縁があればいくらでもね」
「田中君のこと、なんとも思ってません」
 変なことを言うから、少しムキになって言い返してしまった。 
「気にさわった?」
 うつむいて「いいえ」と小さく返した。
「無神経だから……いつもそれで、愛想をつかされるんだ」
 何も言えなかった。人見さんは三十五歳で、女の人との思い出もいろいろあるだろう。今だって、付き合っている人がいるかもしれない。ここ数日、ずっとわたしといてくれるからって、わからない。気になっても、彼女がいるかどうか、訊いていい関係ではない。微妙な空気のまま、部屋についた。
「パンは半分ずつしよう。切ってくる」
 人見さんはしばらくキッチンにいて、お皿を二つもって戻ってきた。
「まともなテーブルもないね」
 お皿を手渡された。
「野菜ジュースはどれがいい」
 五種類も買ってある。少し迷って人参ベースのパックを選んだ。人見さんは「緑黄色が体によさそう」と言いながら一つ手に取った。
「菓子パンの朝食なんて、僕一人だったら哀愁が漂うけど、律が一緒だと楽しくなるな」
 人見さんの言葉に心拍数があがる。うつむいたまま、パンを口に押し込んだ。
「野菜ジュースより、コーヒーの方が合うかもね。インスタントだけどいれてくるよ」と、立ち上がってキッチンの方へ行ってしまった。わたしは、深呼吸した。
 すぐに戻ってきた。コーヒーカップだけでなく、シュガースティックとポーションミルクも渡された。
 人見さんは、普段は朝食をほとんど食べないらしい。カップを手に持つ。話題が続かない。
「仕事をしていた頃は、忙しかったし、律と会う前は、いつも昼過ぎまで寝てたしね」
 いれてくれたコーヒーは濃かった。表情で気づかれてしまう。入れなおすと言うので平気だと断った。人見さんの手が伸びてくる。わたしの持つカップに触れる。
「かして」
 もう一方の手が持ち手にかけたわたしの指に触れた。
「大丈夫ですから」
 カップにかけた指に力をいれた。指を無理にはがされた。驚いて人見さんをみる。真剣な目でわたしをみている。「胃に悪い」と、本当にカップを持って行った。飲もうと思えば飲めた。顔に出さないように気をつければ良かった。気を悪くしたんだろうか。
 人見さんは、数分で戻ってきた。カップを受け取る。
「濃すぎるコーヒーを飲んで、一日調子悪かったことがあったんだ。今日は律とでかけてまだいろいろ買いたいからね」
 人見さんの言葉をきいてほっとした。
 画材屋さん以外にもどこかへ連れて行ってもらえるんだろうか。人見さんはいろいろなことを教えてくれる。今日は何が起こるんだろう。言葉ひとつに喜んだり悲しんだり、少し近づけた事で心が忙しく動かされる。もっと時間を共有したいと思ってしまう。
 お金なんて要らない。
「菓子パンもたまに食べると美味しいね」
 笑顔で頷く。わたしが、パンさえあれば生きていけるってくらい好きだと言うと、意外がられた。
「大学の近くにものすごく美味しいパン屋さんがあるから、今度買ってきます」
「ほんとに! 楽しみだなあ」
 笑顔が素敵だったから、嬉しくなってうつむいた。本当はもっと顔をみていたいのに、すぐに目をそらしてしまう。思わずため息をついた。
「体調悪い?」と、声をかけられて、少しだけ顔をあげた。手が近づいてきた。額に触れる。
「少し熱いかな?」
 苦しくて目をきつく閉じた。このまま風邪と判断されたら、出掛けられなくなる。
「時々、あがっちゃうというか、それだけです」
「律って、本当に新鮮。いろんな意味で」と、頭を撫でられた。
「少しは、男慣れしといた方がいいよ」
 顔から火をふくんじゃないかと思うくらい熱くなる。確かに男の人には慣れていないけど、誰にでも緊張するわけじゃない。
 優しい顔でわたしをみている。笑顔を返したいのに、できずにうつむく。会話もないままに朝食をおえた。
 出かけるために着替えるよう言われた。たしかに、バイトに行くために着た服なので、街を歩くには少しラフすぎるかもしれない。人見さんが選んでくれると言う。二人でウォークインクローゼットにはいる。買った服はキレイに整理されていた。
 選んでくれた服は、少しアンティークな雰囲気のあるものだった。裾の広がったスカートにファーのついたセーターあわせてある。ロングコートの袖口にクラシカルなレースがあしらわれている。
「僕は出るから、ここで着替えて」
 閉じ込められても圧迫感はない。広いクローゼットだ。それなのにわたしに買ってくれた服しかない。
 寒いので、急いで着替えた。出て行くと、満足げに頷いた。頭からつま先まで眺めた後で、クローゼットに入っていった。茶色い皮のバッグと編み上げのブーツを渡された。
「後で、髪飾りを買いに行こう」
 人見さんが何かを選んでくれのは、楽しみだった。
「芸大の近くに大きな画材屋があるみたいなんだ」
 画材は必要としたことがないので知らない。
「律の大学も近いよね?」
 あの辺りは各種大学が集まっているので、近い。敷地が広いから他の大学についてはわからなかった。
「まあ、いいや。とにかく行こう。今日はまだデッサン用の紙と鉛筆だけでいいからさ」
 人見さんの絵がもうすぐみられると思って嬉しくなった。軽い足取りで後をついていく。
 マンションの裏に駐車場はあった。車に乗りこむ。また不思議な良い香りがした。シートに座って、自分のはいているスカートの柄を眺める。よくみると星座が刺繍してあった。思えず「かわいい」と言うと、人見さんが車をバックさせながら、「何が?」と訊いてきた。
「スカートの模様がかわいくて」
「ああ、星座だよね。ブーツのファスナーについてるチャームも凝ってるよ」
 よくみると、それぞれ鍵と錠前の形をしていた。
「デザインしながら愉しかっただろうな。拘りと遊び心とを感じる」
 デザイナーの気持ちは考えたことがなかった。スカートの裾模様をそっと指でなぞる。生地の素材、星座の配置、糸の色、すべてをデザイナーが選んだのだ。
「洋服をみて、そういう風に考えたことなかったです」
 シートベルトをかける。ギアを操作する音が聞こえる。
「他人との関わりを極端に減らしてから、物に対する見方が変わったよ。人は結局、他者とのコミュニケーションを欲するんだよね。話す相手がいなければ、物を持って、その向こうに居る誰かの心をみようとする。それも嫌で、持ち物を次々処分した」
 言葉が気になって顔をあげた。
 真剣な顔で運転をしている。ゆっくりと車は進む。マンションの横を通り抜け敷地を出た。
「きっかけ一つで、人の気なんて百八十度かわるもんなんだよね。あの日……まだ二日前か。律と会ってなかったら僕は全て捨てていたかもしれない。絵を描きに出てそのまま家には帰らないのもありだと思っていた」
 人見さんの横顔をみつめる。
 あの朝、偶然の積み重ねでわたしのレジに並んでくれたことが、奇跡に思えた。空っぽになりそうだった人見さんの部屋で朝食をとった。クローゼットにはわたしのために選んでくれた服がつまっている。たった三日でわたしの世界も変わった。三ヶ月の間だけなのかもしれない。そうだとしても、人見さんと過ごせる時間は、きっともっとわたしの世界を変えてくれる。本当は一年でも二年でも歳の離れた友達としてでも、繋がっていたい。人見さんがわたしといてくれる理由は、新鮮だからだろう。三ヶ月が賞味期限なのかもしれない。
 泣いてしまいそうだった。悲しいのかもしれないし、悔しいのかもしれない。どうして子供なんだろう。二十歳になったって、何も知らない。何もできない。
 フロントガラスを通してみると見慣れているはずの街並みもかわる。人見さんのみる世界をほんの少し共有させてもらっている。それだけでも、貴重なことなのに。涙で視界が滲んだ。
「どうしたの?」
 もう泣いていることに気づかれてしまった。何でもないと返したのに、なぜか謝られた。それ以上は何も訊いてこない。目をつぶると膝の上で握りしめた手に、涙が落ちた。
 車が停まり、そのあと、下がっていく。
「落ち着いた?」
 頷いたものの顔をあげられない。
「画材屋についたけど、一人で行ってこようか?」
 人見さんがエンジンを止めた。一緒に行くと言って、鼻をすすり上げた。後部座席からティッシュケースを取ってくれた。引き出して鼻にあてると車と同じ匂いがした。
「潤んだ瞳も悪くないけどね」
 人見さんの方をみる。
「僕は、律の笑顔をみていたい」
「『スマイル0円』に……なんでしたっけ?」
 首をかしげた。
「革命だよ」
「大げさですね」
 笑顔がこぼれる。
「大げさなんかじゃないよ」
 人見さんが真顔になった。
「だって、命懸けだからさ」
 不安になって、もう一度首をかしげた。人見さんは「なんてね」と、すぐに笑顔になった。頭を撫でられた。それだけで、首の後ろあたりがなんだかそわそわした。
「とにかく行こうか。絵を描かない律でも楽しめると思うよ」
 人見さんが先に車を降りた。わたしも続く。駆け寄ってとなりに並ぶ。大学が近いとはいえ、ここに来るのは初めてだった。結構広い駐車場をコの字で囲んで店舗が立ち並ぶ。別に学生向けでもないようだ。貴金属店もある。
「ネットでみてさ。店が明るいから驚いたんだ」
 歩きながら、言う。
 画材屋は二階建てで煉瓦調の外壁だ。窓から明るい店内が覗ける。みえているところだけで、色鮮やかなのがわかる。
「僕が学生時代によく行った画材屋は、ものすごく暗くてごちゃごちゃしてて、おじいさんが店番だった」
 店舗に入る。オルゴールアレンジの曲が流れていた。入って右手には、手のひらに隠れそうな小瓶に色とりどりの粉が入って並んでいた。気になってみていると、「岩絵の具だよ」と教えてくれた。微妙な色味で名前が違う。値段も違った。
「日本画を描くとき使うんだ」
 三十色セット二万円と書いてある。青い粉の入った瓶が並んだ棚には『霞群青』『美群青』『濃群緑』など、札がはってあった。同じ名前の色でも、瓶によって濃さが違う。
 人見さんが棚の上の方を指さした。
「五十グラム一万四千円!」
 札に書いている文字を声に出してしまった。
「ラピスラズリの粉末だからね」
 もう一度その瓶をみつめた。ずっと絵の具はチューブに入っていると思っていた。膠に溶かして使うと教えてもらった。人見さんも日本画は描いたことなく詳しくは知らないらしい。岩絵の具の棚は、本当にキレイでいくらでも眺めていられそうだった。
 目当ての鉛筆を探して奥へ進む。万年筆がショーケースに並んでいたり、色とりどりのインク瓶があったり、画材屋という場所は綺麗な物で溢れていた。左右の棚を確認しながら、奥へと進んでいく。人見さんが通路を曲がったのでついて行く。急に色味の少ない空間になった。鉛筆の棚の前に立ち止まった。あごに手を当てて考え込んでいる。少し近づいて棚をみた。鉛筆立てを横に倒して積み重ねたようなケースに並べてある。プラスチックの区切りをよくみると『10H』から『10B』まである。メーカーは、UNIと、真っ青の鉛筆のところと、種類はそれほどなさそうだ。
「ハイユニにしようかな」
 鉛筆の黒い頭を指でつまんで引きだした。金色の文字で『6B』とある。次々引きだして行く。
「『6H』から『6B』にしておく」
 わからなかったけれど、頷いた。
「しばらくはクロッキー帳と練り消しがあればことたりる」
 人見さんはわたしの方をみて笑った。絵具は別の日に買いに来ると言う。イーゼルとキャンバスがあったので、絵具もあるものだと思い込んでいた。そう伝えると「ああ」と言って頷いた。
「あれは、捨てられなかったから家に残ってたんだよ。始めてボーナスもらったときにさ、ずっと欲しかった大型イーゼルを買った。何も置かないのは寂しいからキャンバスも買ってさ。描くひまがないまま置いてあったんだ」
 学生時代に使っていた道具は傷んだから随分前に捨てていたらしい。
「律の周りに、油絵をやってる人はいる?」
「母が習いに行ってるのは多分油絵だと思います」
 人見さんが目を見開いたあと、本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあ、パレットは大理石にする。一枚しか描かないのにどのくらいの道具をそろえるか迷ってたんだ。描き終わったら全部、律のお母さんに譲るよ」
 言葉に驚いたけれど、何も訊けなかった。
 人見さんは店内を見回して「行こう」と手をとった。引っ張られてたどり着いた先には、油絵の道具が並んでいた。
「律のおかげで、使いたい道具が全部買える」
 わたしは困っていた。確かに母は描いていたけれど、ノート大の小さな絵ばかりだ。ほとんどが、リンゴなどの果物や一輪挿しだ。下手ではなかったけれど高い道具が必要な感じではない。
 棚一杯に油絵の具が並んでいる。キャップもチューブも白い。チューブのおなかに色見本と名前が貼ってある。
 手を放して、通路のはしに歩いていく。わたしも着いていった。店内かごを手に持った。
 人見さんが左手をかごに入れた。たくさんの鉛筆を握りしめていた手を開く。細木がぶつかり合って軽やかな音色を奏でた。もう一度聴きたくなる。
 人見さんは絵の具の棚の前でしばらく考え込んでいた。
「速く乾いた方がいいけど、ひび割れるのは困るなあ」
 呟きがきこえた。腕を組むと、かごの中の鉛筆が転がってまた音を奏でた。考え込む人見さんを、斜め後ろ辺りからみていた。人見さんはしばらく迷った末に、絵具は調べてから買うことに決めた。「また付き合って」と言われ、笑顔で頷いた。画材屋さんは楽しい。
 それから練り消しと、大きくて高いスケッチブックを買って、画材屋を出た。
 人見さんの家に戻ったら、いよいよ絵のモデルになるのかと緊張してきた。車に乗り込むと「もう少し買い物に付き合って」と言われた。
「街中を走るのあんまり好きじゃないんだけど。帰って電車に乗り換えるのも面倒だよね」
 首をかしげた。
 ゆっくりと車は走り出す。すぐに駐車場を出た。国道の青い看板が『中心街』を示している方へ曲がった。窓から街路樹を眺めていた。まだ春までは遠く、幹と枝だけだ。
「律は、免許持ってるの?」と、話しかけられた。自動車学校に通っていることを離した。
「いつ取れそう?」
 すぐには返事ができなかった。人見さんと会っていたら、時間がかかりそうだ。
「絵が済んだあとになるかと」
 人見さんが「それじゃ、遅い」と、言葉を遮った。
「早く取ってしまおう。そうだ、教習所は僕の依頼で行くってことにしよう」
 思いがけないことを言うから、顔をみた。運転中だから目は合わない。
「あっ、てことは、大学も僕の依頼で行ってることにできるよね」
 横顔が嬉しそうだ。「それは、おかしいです」と、慌てて返した。
「固いこと言わないの」
 黙っていた。
「どうせ休みに入るでしょう」
 言われてみると確かにそうだった。今はほとんど講義がない。こうやって話している間にもお金をもらっている。それが契約上決められていることであっても、胸が痛む。
「お金は、欲しくありません」
 横顔に話しかけた。
「わかってるよ」
 人見さんが一瞬、わたしをみた。真剣な顔をしていた。運転中だからすぐに正面を向いてしまう。さっきみた人見さんの目に、まだとらえられていた。
「お金は、汚い物じゃないよ。いつか絶対必要な時がくるから持ってて損はない」
 言葉は低く響いた。
 人見さんからみれば、幼い考えなのかもしれない。生きていくのにお金が必要なことくらいわかっている。お金で成り立っている関係に抵抗があるだけだ。
「律が僕に会ってくれるのは、お金が目的じゃないってわかってる。自己満足でしかないけど、僕は律にお金があげたいんだ。理解して欲しいとは言わない。ただ黙って受け取ってほしい」
 どう返したらいいのかわからず、窓の外に視線を向けた。
 道が混んでいる。ゆっくりと動いていく景色に意識を向けた。高層ビルが建ち並び、歩道には、たくさんの人たちが行き交う。寄り添いあう恋人達もいれば、幼い子供を連れた家族連れもいる。誰もが幸せそうにみえる。
 隣から、ため息がきこえた。
「そんなに嫌なら、律に他の使い方を選んでもらおうかな。毎晩キャバクラ行って、百万ずつ使うか、これから、競馬場に行って適当な馬に全財産かけるか、大気圏外に出るほどは持っていないから無理だけど……」
 ふざけているようにはみえなかった。
「意外に思いつかないなあ。まあ、いいや。律が選んで、二択だから簡単でしょう」
 どうしたらいいのかわからずに、ただ謝った。 
「律は何も悪くないよ」と、頭を撫でられた。
「君にあげるお金は、きっと無駄にはならないって僕は思っている」
 もちろん無駄遣いをしようとは思わない。
「今言ったことと矛盾するんだけど、お金は持ちすぎるとろくなことにならないから、とにかく減らしたいんだ」
「わかりました」
 納得したわけではなかった。これ以上訴えても、聞き入れてもらえそうにない。貴重な人見さんとの時間なのに、雰囲気が悪いままでは余計に落ち込む。
 わたしが一番大切にすべきは、人見さんとできるだけ楽しく過ごすことだ。
「律は、素直だね」と、頭を優しくゆっくりとたたいた。子供扱いであろうと触れられれば胸が締め付けられる。人見さんがわたしの頭を上から押さえた。
「律には教えといてあげるけど、世の中、信用できると思った相手と、最もらしい言葉には余計に警戒した方がいいからね。特に択一を迫られるときは気をつけて。本当に選ぶべき選択肢がなくても人はつい答えてしまう。それに不安を煽られた後には判断力も鈍る」
 手を離してハンドルを握った。 車内にウインカーの音が響いた。右にハンドルを切る。
「律はさっき了承したよね。撤回は受け付けないよ。だからって遡るのは卑怯だから月曜から適用ね」
 無い知恵をしぼって反論したところで敵うわけでもない。
 もう一度「わかりました」と返した。
 立体駐車場に車を預けた。
「いろいろ買いたいものがあるから」
 駐車場から出ると、アーケード街を少し歩いて百貨店に入った。
 足を踏み入れた途端に、店内がきらびやかで目が眩んだ。色々な香りがいりまじって鼻腔を刺激する。マネキンのようにキレイな店員さんがたくさんいる。お客さんたちもコンビニに来る人たちとは全然雰囲気が違う。華やかだ。いつもの服では来ちゃいけない場所だと思った。遅れないようについて行く。
「香水は苦手なんだけどね」と言って、振り向いた。
「律って肌弱い?」
「いいえ、特に無いですけど」
「じゃあさ、メイクしてもらう?」
 興味はあるけれど、この間不評だったのが気になる。
「化粧品のことは、僕も詳しくないんだけどね。ちょっと待ってよ」
 店内を一回りした。わたしでも知っている国内外の有名会社が並んでいる。
 人見さんが、立ち止まった。
「ここにしよう」と言うと、わたしの肩に手を回して引き寄せ、自分の前に立たせた。店員さんを呼び寄せた。
「この子の良さを、さらに引き出してもらえるかな」と、注文をつけた。
 カウンターの前に座らされた。前髪をあげて留められたあと、まず、化粧水を塗られた。キレイな美容部員さんが、触れるか触れないかの軽いタッチで、わたしの顔に化粧品をのせていく。わたしは、指示されるままに目を閉じたり、上を向いたりしていた。
 メイクが完了したあと、楕円形の鏡で確認した。たしかにわたしの顔なのに、どこか華がある。人見さんは出来ばえに満足したらしく、そこで基礎からすべてのメイク用品を買い込んだ。
「たまにはいいと思うよ。清楚なお嬢様みたいで」
 嬉しそうに笑いかけてくれた。
「だけど、普段の律が一番だけどね」
 目を細めてそう言った。嬉しすぎて、これ以上無理だと思うくらいうつむいた。人見さんがわたしの肩を軽くたたいた。
「あれだけ服を買い込んだのにね。なんかイメージに合うのがなかったから、また探したいんだ。行こう」
 言われて、顔をあげた。
「律の純真な感じを損なわない服……いっそのこと服がない方がいいかとも思ったけどね」
 あまりにあっさりと口にするから、すぐには気づけなかった。意味が理解できた途端に、瞬きもできずにその場に立ち尽くした。ショーウインドウのマネキンがゆがんでみえた。呼吸も忘れていた。
「服がなければないで損なわれる気がするしさ」と言い、わたしの腕をとって軽く引いた。
「行こう。服がみつからないと、律は困るでしょう」
 腕をひかれながら、色とりどりのハイヒールが並ぶショップを横目にみた。店舗の壁には、唇に人差し指を当てた美しい女性の顔が描かれている。
 うまく歩けなくて、少し遅れてしまう。人見さんが立ち止まった。
「大丈夫だよ。基本、着衣でと思ってるからさ」
 真顔だった。今は、イメージに合う服がみつかることを願うしかない。男の人に裸をみせるなんてできない。相手が人見さんならなおさらだ。
 婦人服の階に上がった。スタイル抜群のマネキンが派手な服を着こなしている。大人な雰囲気の店が続く。
「婦人服の店って、どうしてこんなにあるの?」
 訊ねられたけれど、わからなかった。
「探すの面倒だな……」
「ど、どんなイメージで探したらいいんですか? 一人で探してきます」と、訴える。
「そんなのわからないよ。みた瞬間これだって思えるのが、探してる服」
 わたしはうなだれた。
「そう気を落とさないで、ちゃんと探すよ。それに、ヌードデッサンがしたい時は、ちゃんとプロを呼ぶからさ」
 人見さんが歩く速度をあげた。取り残されそうだ。
 わたしがきっと駄目なんだと思う。絵のモデルとして裸体をさらすことに恥ずかしさをおぼえる方が間違っている。だから、他の女の人を呼んで、絵を描くかもしれないからといって、こんな風に苦しくなるのが、おかしい。
 足を止めてしまった。 
 背中が遠ざかっていく。左右に頭を動かしながら、イメージに合う服を探している。すれ違う女の人達が、人見さんをみた。わざわざ振り返って目で追っている。きれいな髪が揺れている。二人はこちらを向くと、楽しげに何かを話している。
 人見さんが振り返った。わたしを探してくれている。
「律」 
 呼ばれて駆け寄る。人見さんがわたしの顔をのぞき込んできた。
「いいこと教えてあげようか」
 首をかしげる。
「そういう時は消去法。より嫌な方を排除したらいい」
 目を細めて、少し意地悪な顔で笑った。
「心配しないで」と、頭に手のひらをのせた。
「ちゃんと探すよ」
 しばらくフロアを歩き回って、人見さんはふと足を止めた。店内に入っていく。知らないブランドだった。
 全ての服がモノトーンだ。人見さんは白いワンピースを一着手に取った。真珠のように輝く生地で、ハンガーを自分の目の前で振って、光の加減をみているようだった。
「律、これ試着して」
 ハンガーごと受け取る。
「形は極めてシンプルだけど、不思議な素材だよね」
 袖もない、ウエストの辺りに切り返しもギャザーもない。襟もとは少し大きめにとってある気はするが、丈も膝辺りまでありそうだ。
 店員さんに連れられて、試着室へ行く。人見さんもついてきた。とても広い試着室だった。一人、鏡張りの部屋の中で着替える。ハンガーから外すと、驚くほど軽かった。
 本当に白い服なので、汚さないか気が気ではない。
 シンプルで飾り気のないワンピースだったが、人見さんの言うように生地の光沢がきれいだった。着てきた服を脱いで、ワンピースに足を通す。素足に触れた裏地が冷たい。袖に腕を通して、困ったことに気づいた。
 背中を閉じるのが、ファスナーではなくボタンだった。必死で腕を後ろにまわし、留められるところは留めた。店員さんに頼もうと思い、試着室の扉を開けて顔を出す。
 いきなり人見さんと目があった。近づいてくる。
「まだ途中で……」
「えっ、着てるじゃない」
「ボタンですね。お待ちください」と、店員さんの声がきこえほっとした。
「どういうこと?」
「ご試着されたワンピースは後ろボタンになっておりますので」
 人見さんは「なんだ」と言って、中途半端に開いた試着室の扉を開けた。中に入ってくる。
「背中向けて、留めてあげる」
 動けないでいるわたしの体を、勝手に回した。髪を手で束ねて前に流してきた。ちょうど真ん中辺りが止められなかった。下着がみえてしまう。人見さんはなんの躊躇もなくボタンを留めた。それからわたしの体をまた回した。少し前屈みになって髪を整えた。
「サイズはぴったりだね。もういいよ、着替えて出てきて」
 そう言い残して、試着室から出ると扉を閉めた。そしてまたすぐに扉をあけて入ってきた。
「ボタン外してあげるの忘れてた」
 一気に顔が熱くなる。
「て、店員さんにお願いしますから」
 みつめられる。ますます恥ずかしくなってしまう。
「問題を先送りにしても、無意味だよ」
 意外な言葉だったので首をかしげた。
「今、店員にボタンを外してもらったとして、次からはどうするつもりでいるの? 僕の家に来る度に友達にでも頼む?」
 言われてみるとそうだった。
「その服やめようか? もう少し探しに行こう。でも、みつからなかった時はわかってるよね」
 頭を横に振った。
「この服でいいです。とてもきれいですし……」
 人見さんは微笑むと、わたしの肩を掴んで、体の向きを強制的にかえた。
 鏡に映った自分の顔が真っ赤でさらに頬が熱くなった。後ろに立つ人見さんが鏡越しに笑いかけてくれる。わたしの髪を何度か撫でて、肩から前に流した。目線が背中に落ちる。
 あまりの緊張に目を開けていられなくなった。唇が震えてしまう。
 背中の布地がわずかに引っ張られる。徐々に手が下りていく。
 心臓の音が、人見さんにまで聞こえるんじゃないかと思う。腰のあたりまである全てのボタンを外された。
「はい、できた」と、肩をぽんとたたいた。
「着替えて出てきて、次はアクセサリーを探そう」
 人見さんは試着室を出て行った。
 わたしはその場に座り込んだ。ワンピースが肩からも滑り落ち、胸元までが露わになった。慌てて布地を引き上げた。
 自分ばかりが意識をして、恥ずかしい。唇を噛みしめた。鏡に映った自分に言い聞かせる。人見さんからすればわたしは単なる絵のモデルだ。母の描くリンゴや花と同じなのだ。
 着替えて試着室からでた。店員さんから促され、ワンピースを渡した。
 人見さんは、「これと同じものを十着欲しい」と、店員さんに声をかけた。言葉に驚いて、変な声を出してしまった。
「あいにく、こちらのサイズは在庫が三点しかございません」
「他店にでも問い合わせをして探して」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
 値札は確認していないけれど、近くにかかっているブラウスでも二万円近い。
「同じ服をそんなに買ってどうするんですか?」
「替えだよ。三ヶ月間同じ服を着続けるわけにはいかないでしょう」
「洗えば……」
 人見さんが目を細めた。
「その感覚は大事だよ。だけど、僕には時間の方が大事だからさ。お金で解決できることは、お金で済ます」
 何も言えなかった。店員さんが戻ってきて、今週中には揃うと言った。
「支払いは済ませておきますので自宅まで送ってもらえますか?」
 店員さんは人見さんの顔をまっすぐとみて、嬉しそうに話す。四十万近い金額を現金で支払っていた。三着だけ入った紙袋を渡された。店から出て人見さんから耳打ちされた。
「あの店員、途中から目がお金になってキラキラしたよね」
 わたしには、人見さんにみとれているように感じられた。
 人見さんが疲れたからと休憩できる場所を探している。
 フロアの端に、カフェをみつけた。そこだけ薄暗く、別の空間だった。ダークブラウンのカウンターがあり、テーブル席も同じ色で統一されている。
 人見さんは丸いテーブルを選んだ。猫足の椅子が二脚あった。ひくと重く、床が擦れて大きな音を出してしまった。
「重いもんね」と、フォローしてくれた。
 店員さんが水を運んできてくれた。人見さんがオレンジジュースを頼んだのが意外だった。わたしはミルクティーにした。
 人見さんは水の入ったグラスを回した。中の氷が軽やかな音をならす。一口含むと、少し遠くをみるような目をした。
「仕事をしてた頃ね、相場の環境が悪かったりすると、目標という名のノルマをクリアするのが難しい時もあってさ。だけど、そんなときには、救いの手をさしのべてくれる人が現れたりね。世の中には株を、何千万円って単位で買う人もいるんだよ。本当にありがたかったなあ。今日の彼女にもちょっとした幸せをあげられたと思う」
 目を閉じて、それからゆっくりと開けた。
「律はどんな仕事に就くんだろうね」
 二十歳にもなって、まだ何も決められていない。
 ただ家を出たくて、あまりにも遠くに行くのは怖くて、だからこの土地を選らび、少し英語が得意だったから外国語大学にした。それだけのことだ。英語教師になりたいわけでも、翻訳家になりたいわけでもなかった。
「ゆっくり選んだらいいよ。律にはまだ時間がある」
 そう言って優しく笑った。
 飲み終わるとすぐにアクセサリーショップに向かった。辿り着いた店はカフェとは真逆の明るく真っ白な空間だ。
「首元が少し広くあいているから、淋しい気がしてさ」
 ガラスケースに手をかけてのぞき込んでいる。
「律くらいの年代って、小ぶりの可愛らしいデザインの方が似合うよね」
 少しのぞいてみる。値札をみて思わず口を押さえた。ダイヤモンドのコーナーは当たり前に何十万かするらしい。
「律って誕生日何月なの」
「一月です」
 ケースをのぞきながら店の奥の方へと入っていく。
「ガーネットかあ」
 誕生石をみているようだ。「あんまりイメージじゃないなあ」と、腕組みをして考えている。男性店員に「何かお探しでしょうか?」と話しかけられ、プレゼントを選んでいると返した。店員さんは、わたしをみた。
「常に身につけるようなイメージですか?」
 訊ねられた。人見さんをみると目があった。人見さんに貰ったものなら、ずっとつけていたい。小さく頷いた。
「アミュレットはいかがでしょう」
 人見さんが説明を求めた。七色の貴石をあしらったお守りらしい。人見さんが興味をもったので、アミュレットのコーナーに移動した。
「女性は七色のものを身につけると、厄を払い幸せになると言われているんです」
 人見さんがショーケースの中を熱心にみている。ネックレスや指輪があったけれど、どれもキレイだった。オープンハートや単に縦に並んでいるものやデザインも豊富にあった。値段も、手頃なものからそこそこするものまである。
「僕が選んでもいい?」
 笑顔で頷いた。人見さんは、店員さんに言って、ネックレスを一つ出してもらった。
 七色の三日月から、さらに少しだけチェーンが下がっていて、ダイヤが揺れるデザインだった。
「宵の明星……」と、呟いたのが聞こえた。
「プラチナとゴールドはどっちがいい?」
 訊ねられた。手に持っているのはゴールドだ。店員がショーケースからプラチナの方も出してくれた。
「金属にもそれぞれ意味があります」
 人見さんは二つのネックレスを目の前にぶら下げて見比べている。どちらもキレイで選べない。
「金は朝の光、プラチナは純潔と永遠の愛のシンボルです」
「僕は冷たい色の方が好きなんだけどなあ。永遠の愛かあ、重たいなあ。ま、いいや」
 呟いた。こちらを向いた。
「プラチナでいい?」
 人見さんが気に入った方が良いので、頷いた。
「値段も、このくらいはしないとね」
 留め金の部分に小さな札が付いている。ため息の出そうな金額だ。
「石のクラスも高めのものを使ってあります。ダイヤは特に輝きが大切ですので」
 すすめられて、超音波洗浄器も買うことになった。また現金で支払っている。
「今日は君に案内してもらって、本当によかったよ。ありがとう」
 紙袋を受け取って、店員に声をかけていた。店員はとても嬉しそうにお礼を言い、深々と頭を下げた。 店を出て、通路を歩きながら、名前を呼ばれた。
「最近、出会いってつくづく奇跡だと思う」
「わたしもそう思います」
 人見さんは目を細め「若いのにえらいね」と言った。褒められたけれど嬉しくなかった。
 軽く昼食をとって、人見さんのマンションに戻った。さっそくワンピースをクローゼットにかけた。改めてきれいな生地だと思う。リビングへいく。
 人見さんが机の前で何かをしている。集中しているようなのでそっと近づいた。鉛筆を研いでいた。芯を五センチほどむき出しにしている。
「折れないんですか?」とつい訊いてしまった。手をとめて、「折れないよ」と笑う。
「何本も研がなきゃいけないから時間がかかる。今日はラフスケッチだけにしようかな。律が大学行っている間にちびちびやっとくよ」
 カッターと鉛筆を机の上に置いた。
「『4B』だけでいいや」
 その後「みて」と、手のひらをみせられた。
「黒くなった。久しぶりだから巧く芯が出せなくてさ。がたがただよ」
 机の上にも黒い粉が落ちている。
「手を洗ってくるね。さっきの服を着てみて」
 頷いたけれど、気は重かった。
「やっぱり手を洗ってくる。エアコンをつけておいて」と、部屋を出て行った。
 袖もないワンピースだから確かに肌寒そうだ。リモコンを手に持って少し考えた。二十八度まで上げておいた。後ろのボタンは、練習すればとめられるようになる気がした。お店では少し焦っただけだ。
 人見さんが戻って、きれいになった手をみせてくれた。
 わたしは、クローゼットに移動した。リビングより寒い。すぐ、ドアがノックされた。人見さんが電気ストーブを持ってきてくれた。
「こんなんじゃ効かないくらい寒いなあ」
 人見さんはハンガーにかかったワンピースを一着手に取った。
「向こうで着替えたらいいよ。僕が出ておくから」
 真面目な顔をしていた。
「最初に心配いらないって、言ったよね」
「そうだな」と呟いたあと、難しい顔で考え込んでいる。何かを思いついたのか二、三回頷いた。
「僕のことはゲイだと思っておいて」
 恋愛対象としていないと言いたいのだろう。「わかってます」と返すと、人見さんが驚いた顔をした。
「そういう意味じゃなくて……とにかく、わかってます」
 ワンピースを受け取ってリビングに向かう。人見さんはどこにいるつもりだろうか。
 振り向いた。
「ストーブにあたっとく」
 訊く前にこたえてくれた。
「キッチンにいるから、着たら呼んで」
「キッチンですか?」
「こいつの定位置」
 手に持った電気ストーブを指さした。
 リビングはすっかり暖まっていた。端で着替え始める。誰もいないのに広いというだけで落ち着かない。ワンピースはそれほどゆとりのあるデザインではない。一旦下着姿になって、ワンピースに足を通した。後ろボタンを留めていく。さっき留められなかったボタンが残る。腕の角度をかえて工夫をした。腕が痛くなってきたので諦めた。
 仕方なく人見さんを呼びに行った。ダイニングとキッチンの境で立ち止まる。
 人見さんがフローリングに 座り込んで、システムキッチンの扉にもたれ掛かっている。電気ストーブがオレンジ色に光っている。手をかざし、みつめていた。
 わたしは、声をかけられずにいた。体が冷えて身震いした。腕に触れると鳥肌がたっていた。
 人見さんがこちらをみた。「いたんだ」と、ストーブを消して立ち上がる。近づいてくる。
「悪戦苦闘したんじゃないの?」
 首をかしげて目を細め、わたしの腕を手に取った。手が温かい。
「冷えきってる。すぐに声をかけてくれたらよかったのに」
 二の腕をさすってくれる。
「はやくリビングに入ろう」
 後について、リビングに戻った。暖かい。
「僕には暑いくらいだ」
 人見さんがセーターを脱ぎ始めた。淡いブルーのシャツ一枚になった。裾を引き出して袖をまくった。脱いだセーターを背もたれにかけている。
「あ、そうだ」と、近づいてきた。背後に立つ。
「一つくらい、留まってなくてもいいんだけどね」
 そう言いながら留めてくれた。人見さんは机に戻って紙袋からネックレスの箱を出した。包装紙を無造作にはいで、ケースの蓋をあけた。指先にぶら下げながら戻ってきた。またわたしの背後に立つ。
「じっとしておいて」
 目の前をネックレスがおりていく。つけてくれているようだ。あごの下にチェーンがあたる。うなじのあたりで、人見さんの手が動いている。
「意外に難しいなあ」
 気配が近づく。何となく息を潜めてしまう。「できた」そう聞こえた途端に、人見さんの手が視界の両端に入った。頬に触れた。手が線対称で動いていく。指先はあごのしたを通り、耳の下からうなじまでゆっくりとなぞる。
 人見さんが、わたしの髪を、チェーンの輪の中から引きだした。指先が首に触れる。チェーンに指をかけて前に引っ張っている。鎖骨と鎖骨の間にトップをおいた。手が離れた。自分が息を止めていたことに気づいた。ゆっくりと吸い込む。
 髪を整えてくれている。「こっちを向いて」と言われたけれど、緊張がとけず、うつむいた。「仕方ないなあ」と、いきなり後ろから抱きしめられた。あまりの驚きで瞬きも呼吸もできなくなった。肩に重みがかかる。頭にあごを載せられた。鼓動が、腕に伝わってしまいそうだ。自分が立っているのかもわからなくなる。呼吸をするのにも震えてしまう。
「律……免疫療法って知ってる?」
 髪に息がかかる。わたしは、きつく目を閉じた。一度大きく息を吸い込んで、頭を横に振った。
「花粉症の人がさ、花粉をわざわざ摂取して、少量では症状がでにくくするんだけどね」
 体の中の鼓動が強すぎて、声が遠くに聞こえる。
「か、花粉症なんですか……」
 背中から振動が伝わる。人見さんが笑っている。体から力が抜けてしまいそうだった。膝から崩れ落ちそうになる。腕でわたしの体を支えてくれた。ゆっくりと座らせてくれる。
「名案だと思ったんだけど、これじゃあ、アナフィラキシーショックだ」
 わたしは座り込んだまま動けない。人見さんがわたしの前にしゃがんだ。顔をあげられなかった。
 人見さんが「似合ってるよ」と、立ち上がった。
「律、そのまま動かないで」
 わたしの回りを歩いて何かを呟いている。少し離れたり近づいたり、動けないから何をしているのかがわからない。
「椅子を取ってくるから、そのままね」
 足音が遠ざかっていく。すぐに戻ってきた。
 今度は椅子を移動させては座って、どこに置くか考えているようだ。
「決めた。律はしばらくじっとしておいてよ」
 みえない位置に座っている。人見さんのたてる微かな音に敏感になってしまう。多分、画材屋で買った大きなスケッチブックを開いた。こんな恥ずかしい状態を、描かれるんだろうか。
「デッサンをする訳じゃないし、そんなには時間かけないから」
 鉛筆の芯が紙の上を滑る音が聞こえ始めた。しばらく長めの音が続いて、小刻みに変わった。わたしは、人見さんの作るリズムに聞き入った。
 これ以上同じ姿勢を保つのが難しくなっていた。足の感覚がなくなり、どう伝えようかと迷っていた。人見さんがスケッチブックを閉じた。
「ありがとう、もういいよ」
 そう言って、立ち上がる。わたしは、顔をむける。少し姿勢を変えるだけで、痺れた足に感電したような刺激が走る。
 机にスケッチブックを置くと「手を洗ってくるね」と言い残してリビングを出て行った。
 どのくらいじっとしていたのだろう。二十分ほどだろうか。関節が固まって、動かすと痛みをともなう。どうにか立ち上がろうと体をひねった。左脚の痺れが強くて、動く度にうめいてしまう。腕にもうまく力が入らなくてその場に倒れ込んでしまった。
 人見さんが戻ってきた。「大丈夫?」と、駆け寄ってくれる。上半身を起こして、人見さんをみた。
「脚が痺れてしまって」
「痺れてるのこっちだよね」
 そばにしゃがんで、ふくらはぎに触れた。変な声を出してしまった。
「嫌だろうけど、こうした方が早いよ」
 ふくらはぎをさすってくれる。声が出ないように我慢してももれてしまう。次第に感覚が戻ってくる。恥ずかしくて人見さんの顔をみることができない。
「ごめんね、夢中になって気づかなかった。言ってくれたら良かったのに。デッサンをするときは無理な姿勢は頼まないから心配しないで」と、立ち上がって手をさしのべてくれた。手をとった。引っ張り上げてくれる。
「久しぶりに描いたら、本当に愉しかった。ありがとう」
 人見さんがどんな風にわたしを描いてくれたのかみせて欲しかった。だけど、言葉にはできなかった。

 配信の準備をした。服は、わざわざ普段着に替えた。ペンダントは、つけたままだ。PC画面にうつる首元が気恥ずかしい。ペンダントトップを襟の中に隠した。
 通知に気づいたフォロワーさんがもう来てくれている。
『今、何か隠さなかった?』
『彼からのプレゼントだったりして』
「ちがうちがう、親からもらいました」と、嘘を吐いた。
「今日は、リクエストとかなしで、ぽろぽろギターならすくらいです」
『たまには、いい!』
 優しいコメントをくれる。
 何も言わずアクセスしてきて、何も言わずに去って行く人もいる。
 のべの来場者数は増えていくけれど、今実際に繋がっているのは十三人だ。
 わたしはコードをおさえた。一弦一弦、指ではじいていく。弦の振動を愉しむ。
「そうだ、みんなって、足がしびれちゃったらどうする?」
『変な質問wwwwww』
『つついて、遊ぶ』
『無理に立つの危ないよ。骨折した人知ってる!』
「普通、ひたすらたえるよね」
『うん、治るまで待つ』
「だよね~」
 わたしは、スマートフォンを取り出して、昨日録音した自分の声を再生した。
『音、小さくて聞こえねえ』
『今日は歌つくるんだよね』
『メロディから作る派なんだ』
「メロディからじゃなくって、メロディしかだよ。歌詞が書けないから鼻歌」
 メロディラインを「ラララ」で歌ってみた。
 ギターを合わせてみる。
『歌詞、つけなよ』
「そうだね、今なら、歌詞も書けそうな気がする」
 わたしは、ギターのボディを二回手のひらでたたいた。

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