見出し画像

ベートーヴェンのアトリエ (三)

 スペイン語の特別講義を受けるために大学へ来ていた。テーブルの上に伏せて置いてあるスマートフォンが短く震える。確認すると人見さんからメールが届いていた。今は小さめの講義室なので教授も近い。だけど、気になってメール画面を開く。
『三日分の報酬を振り込んでおきました。ご確認下さい。』
 大きなため息をついてしまった。続けてメールが届く。今日の予定を訪ねられた。今日も会えると思うと、一転、心がおどる。午前中で終わることを伝えた。隣に座っている美佐子がわたしの腕をつついてきた。横を向くと、嬉しそうに笑っていた。
「運命さん?」
 小声で話しかけてきた。頷く。付き合うことになったのかと訊かれたので、否定した。美佐子は、怪しむ顔を見せた後、前を向いた。手の中でスマホが震える。
『迎えに行くから、終わる時間を教えて』
『今、講義中なので、後でメールします』
 人見さんが来ると思うと緊張してきた。なにも考えず、普段着で来てしまった。
 講義が終わったとたんに、美佐子にいろいろ質問された。ドライブに行ったり食事をしたりと当たり障りのないことだけ報告した。
「告白しちゃえばいいのに」
 唐突に言われて驚く。
「告白って……そんなんじゃないから」
 美佐子が「じゃあ何?」と、せめてくる。どう言い訳しようか考えていると、メールが来た。
『そこの学食って一般人も入れるよね? 行ってみたい』
 画面をみてどう返そうか迷っていた。学外の人も入れたはずだ。時々、年配の女性が友達同士で来ているのをみかける。だけど、人見さんと一緒にいるところを知り合いにみられてしまう。恥ずかしいわけではなく、関係を訊かれた時どうこたえたらいいのかわからない。
「どうしたの? 変な顔して」
 美佐子が覗き込んでくる。
「人見さんが、学食でご飯食べたいって言ってるから」
「ほんとに! 運命さん来るの! どうせ行くつもりしてたし一緒に食べよう!」
 美佐子の声が響く。もうすぐ別の講義が始まるので、人が集まってきていた。
 わたしは気乗りせずに「でも」とうつむく。
 横からスマホを取り上げられた。美佐子が勝手に何かを打ち込んでいる。
「ああ、たのしみぃ」と、返してくれた。送信履歴を確認する。
『美佐子ってかわいい友達も一緒でいいですか! お昼に待ってます』
 ハートマークが三つも飛んでいる。
 美佐子を目で責めた。したり顔をしている。すぐに返信がきた。
『さっそく向かうね。着いたら連絡する』
 人見さんのメールにもハートマークがいくつもつけてあった。絵文字をみただけで、動悸が激しくなる。どんな顔をしてメールを打ったのか、なんとなく映像が浮かんだ。息苦しくなって大きなため息をついた。
 ひとまず、講義室を出た。
 美佐子は人見さんと会うのを楽しみにしている。今更来ないで欲しいとは言えない。人見さんとの関係について、美佐子に話していないことを、どうにかメールで伝えた。
『また、近所の友達ってことでいいよね?』
 それも無理があるとは思うけれど、他に案はなかった。 
『それでお願いします』
 美佐子は、わたしと違って明るくハキハキとしゃべるので、きっとすぐに打ち解けるだろう。それはそれで、不安になる。ネガティブな思考が始まると、なかなか抜け出せなくなる。
 美佐子は他の用事で後から合流すると言っていた。
 着信があり、スマートフォンが震えた。人見さんからだった。
〈着いたよ〉
 声が明るい。
「どの辺りにいるんですか?」
 正門のそばにいると言うので向かった。背が高いから、遠くからでもすぐにわかる。今日はいつもより軽い服装をしている。ジーンズも似合っている。わたしをみつけて、軽く手をあげた。
 人見さんに駆け寄った。
「ごめんね、無理言って。メールくれた子は?」
 言葉にほっとする。
「ハートが飛んでるから驚いた」と、クスクス笑っている。
 美佐子が遅れてくることを伝えた。
「そうそう、かわいい美佐子ちゃんだ! 面白い子だよね」
 美佐子を名前で呼ぶ。名前しか知らないのだから仕方のないことだとわかっている。美佐子は、わたしよりずっとキレイでおしゃれにも気を使っている。さっきよりも強く会わせたくなくなった。でもどうしようもない。
 正門の近くで立ち話をしているから、人の視線が気になる。食堂へ案内することにした。
 昼時なので講義棟から学生達がたくさん出てきた。みな、コートのポケットに手をいれて、首を縮めて歩く。人見さんは、姿勢がよいからそれだけで目立つ。
「当たり前だけど、みんな若いなあ。行くって言った後に、何を着ていくかで困ったよ。スーツを取っておけば業者のふりが出来たのに、しまったって思った」
 スーツを捨てたのかと、がっかりした。スーツ姿は特に素敵だった。わたしはこっそりため息をついた。地面をみながら歩く。
「午後はもうなにもないんでしょう? 車で来たし、食べたらどこかへ行こう。明日は椅子が届くから出られないんだ」
 わたしは頷いた。
 学食の近くまで来た。
「ササ!」
 美佐子に呼ばれた。両腕を上げて振りながら駆け寄ってきた。いつもよりテンションが高くて戸惑う。
「初めまして、早川美佐子です」
 人見さんは、簡単に名乗った。
 美佐子がわたしの肩に手をおいた。「運命さん、超やばい」と耳打ちされた。
「運命?」
 聞こえたようだ。美佐子は慌てて謝っていた。
「早川さん、メールありがとう。律は断り文句を考えてたんだろうし」
「そんなことありません」
 本気で否定した。
 しばらく、その場で立ち話をした。人見さんが何かを言うたび、美佐子から腕を引っ張られ、体を揺すられる。
「寒いし、中に入ろうか」
 人見さんは、笑っている。食堂は比較的すいていた。
「最近の学食って、なんかおしゃれだね。もっと古びたのを想像してたんだけど」
「古びたのもあるよね!」
 美佐子に同意を求められ、頷いた。一号館の生協の前に、古い学食もある。そこは、量が重視だと聞いたから行ったことはない。
「次はそこに行きたいな」
 人見さんは興味を持っている。
 それぞれトレーを持った。美佐子が食堂のルールを説明した。
「ジャンルごとに並ぶ列が違うんです。何にするんですか?」
 美佐子が訊いた。
「カレーにするよ。学生の頃よく食べたんだ」
 美佐子はカレーの列を指差した。
 人見さんから「律は何にするの?」と訊かれた。少し考えて「レディースセットにします」と返した。
 トレーにおかずを取ってレジに向かう。人見さんが手前で待っていた。
「早川さんは?」
「うどんの列に並んでいます」
「一緒に払うから、待ってて」
「そんな、悪いです」
 人見さんが笑う。
「お金を下ろしてきたから、大丈夫」
 大丈夫なのはわかっている。わたしの持っているトレーをみて「美味しそう」と言った。レディースセットは好きな小鉢を三種類選べる。色のきれいなものにした。
 美佐子が来たので、人見さんが会計を済ませる。美佐子は大げさなくらいお礼をいう。
「そうだ! 古い食堂行くときはおごります。一番高いのが五百八十円なんですよ!」
「高いのは何?」
「カツカレーです」
「学生の頃、カツカレーはちょっとした贅沢だったなあ」
 人見さんは楽しそうだ。美佐子が羨ましくなった。
 窓際の席にした。四人がけだ。人見さんの前に美佐子と二人並んで座る。早速食べ始める。
「学食の味じゃないなあ。ワインの香りがする。時代が違うなあ」
 嬉しそうに言う。
 二人とも食べるのがはやい。軽いメニューなのにわたしだけ残ってしまった。
「運命……あっ……」
 美佐子が話しかけた。
「別にそれでいいよ。何から変化したのか知ってるしね」
 人見さんがわたしをみた。
「ササから、すごくかっこいいって聞いてたんですけど」
 あわてて美佐子の腕を掴んだ。
「想像以上でビックリしちゃいました」
 美佐子はやめてくれない。
「律が、僕のこと話してたんだ」
「今日のネクタイが何色だったとか、美容院に行ったみたいだとか。だから、運命さん像っていい感じに固まってたんですよ」
 もう、顔を上げられなくなった。残りわずかになったシーフードマリネをみつめていた。
「へえ、嬉しいな」
「ササは本当に良い子なので、よろしくお願いします」
 美佐子はお礼を言い、バイトがあるからと、食堂を出ていった。早足で中庭を抜けていく。目で追った。
「早川さん、忙しそうだな」
 美佐子の言ったことなど、何も気にしていないようだ。
「バイトをフルでいれてて、いつも忙しいです」
 人見さんがわたしをみた。なかなか食べ終わらないので、満腹なのかと訊かれた。急いで食べきった。
 人見さんは、水の入ったグラスを手に持ってみつめている。
「早川さんの時間は濃密だな。無駄を嫌うタイプだよね。だけど、せっかちすぎて早とちりも多そうだ。律とは合わないようで……。きっと、律は彼女のオアシスみたいな存在なんだろうな」
 グラスを置いた。
 自動車学校の予約の仕方を訊ねられた。答えると、「食べ終わったのなら、教習の予約して」と、少し厳しめの口調で言われた。
 スマホを出した。自動車学校のページをひらく。七時から空いてはいる。急なキャンセルが出たのかもしれない。夜の路上教習は行ったことがなかった。不安だ。
「七時が空いてます」
「じゃあすぐ押さえて、送り迎えしてあげる」
 どこかで夜間教習は受けるつもりにしていた。頷いて、予約をいれた。
「思いついたことは全部することにしてるんだ。律が免許を取ったら、最初の助手席は僕ね」
 もしかして、人見さんの車を運転させられるのだろうか。
「無理です。あんな大きな車」
「どうせ処分するつもりだから、へこますくらいはかまわないよ」
 そんなわけにはいかない。
「送迎はするから、予約ができるところを探して、どんどんいれて」
 黙っていた。人見さんが頬杖をついて目を閉じた。しばらくして片目だけ開けてわたしをみた。
「大きな車が嫌なら、コンパクトカーを買うよ」
 人見さんが姿勢を正した。真っ直ぐにみつめられる。
「これは正式な依頼だから、できるだけ早く取ってよ。もうじき大学の決まった子達が教習所に押し寄せるよ」
 目は真剣そのものだ。
 頷いて、手帳を出した。大学は海外研修期間に入っているので通常の講義はない。時々特別講義が入るくらいだ。
 自動車学校の予約状況と照らし合わせていく。残りの実技は六時間、学科の授業も五時間残っている。
「昼間も入っていいんですか?」
「教習が最優先でいいよ」
 来月早々に卒業検定が受けられるようにした。
「出ようか」
 立ち上がり、わたしの分のトレーまで持って返却口に向かった。後を追いかけた。
 食堂を出て、正門へ向かう。
「車を、この前の画材屋の近くに駐めてあるんだ。少し距離があるけど腹ごなしに歩こう」
 緩やかな坂道をのぼっていく。教育大から帰る学生達とすれ違う。門から出てきた原付バイクが、大げさな音をたてて横切っていった。
 人見さんのマフラーの色が、画材屋でみた青い岩絵の具のグラデーションに似ていてきれいだ。空気は冷たいけれど、風もなく穏やかだ。歩いているうちに、体は温まってきた。
「そういや、律はどうして今頃教習所に通ってるの?」
「お金が貯まったから免許を取ると美佐子から誘われて」
 わたしは親に電話をかけて、代金を振り込んでもらった。
「早川さんも通ってるの?」
「いいえ、もう先月には取り終えました」
 美佐子のことを話すと、わたしの甘えが目立つ。
 歩くペースが落ちて、遅れてしまった。立ち止まって待ってくれた。わたしの手を取った。
「律はそのままでいいよ。きっと誰かが引っ張ってくれる」
 手を引かれて歩く。人見さんに繋がる自分の右手をみつめた。
 左手で、コートの二番目のボタンを握りしめた。
 その誰かが、人見さんならいいのにと思う。ずっと憧れていた。だけどもう、これは恋なんだと気づいてしまった。
 人見さんをみる。寒いから、耳の端が赤くなっている。髪が長かった頃、耳はほとんど隠れていた気がする。人見さんがわたしをみた。思わず目をそらす。「ごめんね」と、謝られた。どうしてなのか、理由を知れば傷つくのはわたしだ。わたしの気持ちなんて見透かされているのだろう。
「僕は悪い男だから、律をせいぜい利用するよ」
 今利用されているのかと疑問に思う。たった数日で、たくさんの物を与えられている。
 名前を呼ばれた。うつむいたまま、返事をした。
「今後のために、投資詐欺の常套手段を教えてあげる。高利回りをうたって、最初は小口で資金を引き出す。数回は約束した利息を渡すんだ。信用させて大きな資金を引き出した後……。消える。あなたのお掛けになった電話番号は現在使われておりませんってね」
 わたしの手を強く握った。
「わかりました。気を付けます」
 顔を上げ、人見さんをみた。淋しげに笑っていた。
「警戒心の強いタイプほど、信じた後が危ない。根こそぎ持っていかれた人を知ってるんだ。その利回りはあり得ないって何度も止めたのに。僕から買った株を、損切りしてまで現金化してさ。損させられた分、向こうで取り返すってきかなかった。あの人にとって僕は、儲け話で誘ってくる詐欺師と同類、いや、それ以下の存在でしかなかった」
 人見さんが足をとめ「どうしてこんな、つまらない話しをしてるんだろう」と、呟いた。
「これ以上話したら嫌われちゃうからやめとく」と言って、わたしの腕を強く引いた。その後で、手を掴んだ。
「少しだけ走ろう!」
 人見さんが駆けだした。速くて、足がもつれそうになる。手を離さないように必死で握り返した。
 坂道は緩やかにカーブを描く。少し前を走る背中をみていた。心拍数が上がる。腕は伸びきっていた。
「もう限界」
 人見さんは急に立ち止まって、手を放した。わたしは転びそうになる。なんとか体勢をたてなおした。
「僕にできるのは、こんな程度」
 肩で息をしている。しゃがみこんだ。背中を丸めていつもよりずいぶん小さくなっている。
「ニートだから」と、マフラーをとった。
 この前もすっかり体力が落ちたと言っていた。呼吸を整えながら、人見さんを見下ろしていた。今までこの角度からみたことはなかった。発見があって嬉しくなる。
「つむじが二つあるんですね」
「そう、だから、髪は長いほうが良いって、お世話になったお客さんに、アドバイスされてさ」
 額から汗が流れている。苦し気に片方の目をつぶる。お腹をおさえてさらにうずくまった。
「食後に走るなんて無茶は、良くないね」
 深く息を吐いて立ち上がる。車で休むと言って歩き出した。車にたどり着く。
 人見さんは、運転席に乗り込むとすぐにシートを倒した。仰向けに寝て両腕で顔を隠している。心配になり声をかけた。
「喉が渇いて死にそう」
 何が欲しいのか訊ねる。水がいいと言われ、駐車場の端にある自動販売機に買いに行くと車を出た。すぐに買って助手席に戻る。人見さんは腕をどけてわたしをみた。「ありがとう」と言って、こちらに手を伸ばす。ペットボトルを受け取り、体を起こすと一気に半分まで飲んで、また横になった。
「律も倒したら?」
 特に疲れてはいなかったが、言われたとおりにした。シートは意外に快適だった。車の天井をじっくりみたことはなかった。名前を呼ばれて人見さんの方をむく。
「後で、油絵の具を買いに行くよ」
 また画材屋へ行ける。つい笑顔になる。
「嬉しそう」
 わたしの頬を指で押して「えくぼ」と言った。思わず、首を縮める。人見さんは、すぐに手を戻した。
「明日はバイトあるの?」
 水曜と金曜、後は土日に入ると伝えた。
「結構あるね。起きられるかな」
 また、来てくれるのだろうか。
「でも、それ終わったら、最終日だけです」
 人見さんが頷いた。
「今夜、キャンバスの下塗りをするよ。みてみる?」
 何をするのかはわからなかったけれど、頷いた。人見さんが「車の中も寒い」と、言い出したから、それほど休まずに、画材屋へ移動した。人見さんは、買う物を決めてきていたようで、メモをみながら次々かごに入れていく。荷物を持つのを手伝った。
 たくさんの道具を買い込んで、満足げだ。トランクに積み込む。
「七時までまだ余裕がある。家に帰って、道具をチェックしてもいい?」
 わたしも楽しみだった。
 マンションに戻り、道具を、人見さんの部屋に運び込んだ。リビングの床に並べている。絵の具は十二色セットとは別に大きなチューブがあった。手に取ってみる。ずっしりと重い。
「下塗りをグレーにしようと思ってさ。白がたくさんいるんだ」
 瓶に入ったオリーブオイル色の液体もある。筆も刷毛もとてもきれいだ。バターナイフの大きいようなものまである。どんな風に使うのかはわからない。
「色は、ひとまず基本色があれば混ぜて作れるし、必要なら買えばいいと思って」
 楽しそうに話す。通販で買ったアトリエキャビネットは、明日届くらしい。どんな物かわからず訊くと「みればわかるよ」と言われた。明日は椅子も届くと言っていた。
「絵は、ここで描くんですか?」
 まだ決めていないと言う。
「リビングは広すぎるかな。早く決めないとね」
 まだ行ったことのない部屋もある。話をきいているうちに、予約時間が近づいてきた。
 夕食は帰りに寄ることになった。そのまま、ここへ戻って、下塗りという作業をみる。
 自動車学校まで送ってもらったので楽だった。バスで行くのが面倒で、なかなか通えていなかったのもある。
 今日は路上実習一時間だけだ。人見さんは終わる頃に戻って、近くで待っていると言っていた。
 夜の運転は、思っていたほど怖くはなかった。教官からも特に指摘はされなかった。この調子だと、追加無しですんなり卒業検定を受けられそうだ。
 自動車学校の近くに人見さんが車をとめて待っていた。食事に寄ろうと言われた。おなかはもちろんすいている。だけど、それよりも、油絵の作業をするところがみたかった。
「下塗りの時、においがきついから、軽めにしておこう」
 人見さんの提案で、おそばを食べた。
 マンションに着いた。頼まれて、いらないお皿を取りに帰った。
 パレットは明日キャビネットと一緒に届く。今日は、絵の具を混ぜるのにお皿を代用するらしい。実家から何枚も持って来ていたので余っている。真っ白で少し大きめのお皿を選んで持って行った。
 マンションへ行くと、人見さんは、着替えていた。長袖のTシャツと綿パンだ。すぐにお皿を渡す。「なんか、良い感じの皿だね。もう使えなくなるよ?」と、申し訳なさそうに言った。
 早速作業に入る。人見さんがキャンバスの前にしゃがんだ。よくみると素足だった。床にお皿を置いた。わたしは正面に、三角座りをした。
「下塗りには、イエローオーカーを……黄土色ね……使う人が多いんだ。でも、僕はいつも青みがかったグレーにしていた」
 大きな白のチューブをお皿の端に絞り出した。お皿の半分ほどが白い絵の具で埋まった。それから、指一本分ずつ、黒と、青を出した。
「黒は強いから、こんな量でも結構濃くなる」
 瓶を手に持った。
「結構においきついからね。気分が悪くなったら離れて」
 お皿の中央に液体を垂らした。石油のような嫌な臭いがした。思わず鼻を隠した。人見さんが顔をあげた。
「描くとき、律は少し離れた場所になるから大丈夫だよ」
 バターナイフのような物で、三色の絵の具と油を混ぜていく。できあがったグレーをみて、青を少し足していた。
「こんなもんかな」と言って、刷毛を手に持った。
「久しぶりなのに五十号は大きすぎるかと思ったけど、せっかくあるからさ」
 お皿の上で刷毛を左右に動かしながら言う。皿を持って立ち上がった。キャンバスの前に移動する。わたしは、斜め後ろに立った。 
 いきなり真ん中辺りを刷毛で撫でた。グレーのラインが弧を描く。
「真っ白なキャンバスを自分の色に塗り替えていく。それだけではあきたらず、自分の中にあるイメージを映しこもうとする。絵を描く人間はみんなエゴイストなんだ」
 人見さんはキャンバスを真っ直ぐみつめながら言った。
「律もやってみる?」振り向いてわたしに声をかけてきた。
「いいんですか?」
「今は塗るだけだから」
 刷毛に絵の具を取って渡してくれたとき、指が手に少しだけ触れた。熱かった。
 下端に刷毛を押し付けた。横に動かそうとしたが、引っ掛かってうまくできない。
「目地を埋めたいから、溶き油を少な目にしてあるんだ」
 背後から、刷毛を持つわたしの手に手を重ねた。手ごと刷毛を動かす。
「軽く撫でる感じで」
 手解きを受けてもうまくできなかった。
「どうせ上から絵を描くんだから、むらは気にしなくていい。もっと楽しんだら良いのに」
 人見さんが手のひらを向けたので、刷毛を返した。左手に持ったお皿の上に刷毛で円を描いた。親指に絵の具がついた。気にしていない。
 人見さんは、腕を伸ばして、上の方を塗っていく。 その動きを目で追った。
「さっき、絵を描く人間をエゴイストと言ったけど、小説を書く人はなんだと思う?」
 考えてみた。会ったことがないし、想像もつかない。
「自分の思い通りに登場人物を操る。飴もムチも至福も絶望も、すべてが作者の手の中にある。彼らは揃って、サディストだ」
 作業を続ける。上の部分はグレーに塗りつぶされて、曇り空のようだった。
「それじゃあ、律みたいに音楽をする人はなんでしょう?」
 わからなかった。顔を横に振る。
「もっと真剣に考えてみて」と、わたしをみた。
「ただでさえ自分はみえにくい。潜在的な部分は余計にわかりにくいよね」
 刷毛を持たされた。
「答えは、ナルシスト。理由は自分で考えて」
 人見さんの顔をみつめた。
「納得できないみたいだね。律は自分のことがそんなに好きじゃない。それは突き詰めると、自己愛が強いからだ」
 悪いことじゃないと言って、笑った。
「さあ、どんどん塗っちゃって」
 刷毛を握りしめた。同じように、円を描く。塗りながら、雲を描いている気になった。 下から三分の一ほど塗って、刷毛を返した。
 人見さんは、残りを全部を塗り終えた後、いろんな角度からキャンバスをみている。「ここが厚いかな」と言いながら、何ヵ所か刷毛で撫でた。それから 少し離れて、キャンバスを眺めた。
「二、三日乾燥させて、下絵に取りかかるよ」
 言葉を聞いただけで、少し緊張した。
 人見さんが道具を片付けながら、「お腹がすいた」と言い出した。冷蔵庫には何もなく、だからといって出掛けたくはないらしい。
「コンビニで何か買ってきましょうか?」
「遅いから危ない」と断られた。
「ピザなら持ってきてもらえるのかな? だけど、気分じゃないなあ」
 お昼はカレーで夜はお蕎麦だった。今は何が食べたいのだろう。自分の冷蔵庫の中身を思い浮かべる。
「うちに冷凍したご飯ありますよ。焼おにぎりか、お茶漬け、チャーハンくらいなら……」
 チャーハンが食べたいと言うので、いったん帰ることにした。
「二十分くらいで戻ります」と伝える。
 人見さんは「ちょっとだけ待ってて」と、片付けを中断して部屋を出ていった。なかなか戻ってこない。わたしはキャンバスの前に立った。何色かと問われれば、グレーと答える。だけど、不思議な色だった。顔を近づけると、油のにおいがした。
 人見さんの塗った部分はきれいに円く刷毛の跡がついている。雨粒が水面に降り注ぎいくつもの波紋を作るように、たくさんの円が描かれている。雨音が聞こえた気がした。
 わたしの塗ったところは本当にこのままで良いのだろうかと不安になる。
「お待たせ」
 声をかけられ振り向いた。人見さんは着替えていた。「早く行こう」と言われ、首をかしげる。
「律の部屋、どんな感じなのか楽しみだなあ」
 驚きすぎて、すぐには反応できなかった。
「あの……持って来るので……」
 人見さんが近づいてきた。
「この時間に律の部屋へ行くのは、公序良俗に反するかな?」
 契約の範囲内だということなのだろう。わたしは受け入れた。ご飯を食べに来るだけだ。自分に言い聞かせる。
 人見さんと家に向かう。散らかすほども物はない。部屋の前まで来て思い出した。
「少しだけ、ここで待っていて下さいね」
 自分だけ中に入って、部屋干ししていた洗濯物をクローゼットに隠した。玄関扉をあけて声をかけた。
 人見さんが「何か緊張してきた」と、思いがけないことを言うから、さらに緊張してしまった。中に入って最初に「無駄がない良い部屋だね」と言った。ワンルームなので寝室へ通すしかない。ソファーもないからクッションを渡した。部屋を見回され恥ずかしくてキッチンに逃げ出した。
 チャーハンは簡単だ。わたしはいらないので、一人分を用意する。具にできそうなのはネギと人参しかない。刻んでいるうちに落ち着いてきた。炒めていると、人見さんはキッチンへ来た。
「いい匂いがしたから」
「もうできますよ。インスタントですけど、卵スープもいりますか?」
 嬉しそうに笑う。
 わたしは人見さんが食べるのをみていた。家に来ると言われたときは、どうなるかと思った。美味しそうに食べてくれてほっとする。すぐに食べ終わった。満足してくれたようで、嬉しかった。
「何でも作れるの?」
「基本的なものなら」
 また何か作って欲しいと言われ、頷いた。
「零時を回った。そろそろ帰らないとね」
 お皿を重ねて片付けようとしている。
「そのまま置いといてください」
 人見さんは「ありがとう」と言って笑った。
「あのさ……」
 人見さんが、ベッドの方へ体を向けた。
「あれってギターだよね」
 脇に立て掛けてある黒いギターケースを指差した。みせてほしいと頼まれ、ケースから出す。
「きれいだなあ」
 熱心にみている。持ちたいと言うので渡した。裏返したり光にかざさしたり、いろんな角度からギターをみる。
「ねえ、律が大学いってる間、貸してくれないかな? 練習したいし」
「練習するんですか?」
 人見さんが頷く。
「コードとかわかるんですか?」
「デッサンの練習だから心配しないで。今さら楽器を始める気はないよ」
「そうなんですね」と返した。思い違いが恥ずかしくてうつむいた。
「練習って言ったのが悪かったね。別に美大を受験するわけでもなかったのに、描くときは、いつも練習って思っていた。描く度、もっと巧くなりたくて……」
 しばらく黙っていた。何も言えずうつむき続けた。
「もしも、絵を描き続けていたら、僕は今、どんな絵を描くんだろう」
 顔をあげる。人見さんは部屋の隅辺りをみていた。その目は冷たい光を帯びていて、少し怖くなった。
 人見さんがため息をついた。
「『たら』『れば』は、無意味だね。後悔をしている場合じゃない」
「今日はありがとう」と言って、立ち上がった。わたしも立つ。
「明日は荷物がたくさん届くから、また後日借りる」
 ギターを返された。最後にスケジュールを確認された。夕方には行けそうだ。
「一緒に、キャビネットに道具を並べよう」
 また明日が楽しみになった。

 今日は、何かとばたばたしているうちに人見さんの部屋へ行く時間になった。
 リビングよりも奥にある部屋に通された。初めて入る。六畳ほどだ。
 窓はあるが、雨戸がしてあった。港で買った椅子が置いてある。イーゼルも移動してあった。
 アトリエキャビネットには、引き出しや扉がついていて、キッチンワゴンに似ていた。天板を上に開くと、白い大きなタイルがあった。これが大理石のパレットらしい。二人で道具をしまっていく。わたしのあげたお皿も入れた。
 それほど時間はかからなかった。
「服はそのままで良いから、しばらくその椅子にじっと座ってて」
 リビングから椅子をとってきて近くに置いた。わたしは椅子に座った。丸みを帯びた肘掛けを手のひらで撫でる。年輪がきれいだ。
 人見さんは、正面に座って大きなスケッチブックを開いた。
「僕をじっとみておいて」
 言われて顔を上げる。みつめられて、呼吸をするのにも慎重になる。人見さんは、鉛筆を上に向けて持った。そのまま手を伸ばした。左目をつぶる。しばらく動かなかった。鉛筆を下ろすと、ふっと笑った。
「僕をみておくのは、拷問に近いな」
 人見さんは、首をかしげて顎に手をあて、じっとわたしをみていた。
「肘掛けに右手を置いて、その手をみておいてくれるかな?」
 言われたとおりにする。
 その姿勢で二十分ほど動かなかった。
「ほんと、律は絵画モデルの適正があるよね」
 スケッチブックを閉じる。
「一度デッサンがしたいんだけど、三時間ほどかかるから」
 目を見開いた。
「大丈夫、二十分おきに休憩を挟むよ」
 スケッチブックに描くのと、デッサンはどう違うのかもわからない。
「下絵の前に、デッサンをしといた方がいいと思うんだ。なんせブランクがあるから。明日はバイトも教習もあって忙しいね。木曜はどこかで三時間とれそう?」
「夜でもいいんですか?」
「次の日バイトだよね」
 十時までには終わらせられるよう、七時に約束をした。
 夕食は、駅前の食堂へ行くことになった。おばさんも喜んでくれた。
「律は料理が上手なんだ」とでたらめを言う。おばさんは「そりゃ困ったね。人見君が来てくれなくなっちゃうよ」と笑っていた。
 食堂からの帰りに、「通帳の確認した?」と訊かれた。わたしは黙っていた。
「昨日の分も振り込んでおいたからね」
「今日もですか?」
「日払いの方が安心でしょう」
 貰いそびれたとしてもかまわない。
 別れ際に「明日は、朝、起きられたら行く」と言われた。夜は教習の送迎をしてもらう。自分で行くと言ったけれど、認めてくれなかった。
 朝、バイトに入った。また田中君がいた。人見さんに言われたことも手伝って、気まずい。このシフトが嫌いだと言っていただけに、顔を合わせた時から不機嫌そうだった。ほうきとちりとりを持って、駐車場の清掃へ向かった。いつもなら制服の上から上着を羽織る。早く外に出たくてそのままで出た。寒かった。鼻がつんと痛む。
 車止めの横に、吸い殻がたくさん落ちていた。つい渋い顔をしてしまう。
 掃除を終えて店内に戻る。お客さんはいない。田中君が「おつかれ」と言った。「鼻が赤いよ」指摘される。
 こんな日に限って、お客さんがあまり来ない。カップ麺の棚を補充してみたり、作業を探しては田中君から逃げ回った。
 人見さんは、来てくれるかもわからない。後少しで辞めるからか、もう、全部休んでしまいたい気分になる。
 そろそろ中華まんを蒸し始める時間だった。冷蔵庫から出してレジカウンターに戻る。田中君と目があった。じろりとみられてどうしていいかわからなかった。
「中華まんを蒸すので……」
「みればわかるし」
 田中君の後ろを通り抜けて、中華まんのケースをあけた。まだ固い肉まんを網棚に並べていく。水を足して、蒸しモードにした。
「あの客さあ」
 背後から話しかけられた。振り返ることができなかった。
「一緒に大学の近くを歩いてたけど、つきあってんの?」
 トングをケースの横にかけた。
「そういうのじゃない」
 訊いてきたくせに「ふーん」と興味のなさそうな返事をした。
 大学の近くでみられたようだ。みかけたことはないけれど、外大に通っているんだろうか。また、人見さんが学食に来ると言っていた。
「外大、なんですか?」
「違う」
 どこなんだろうと思ったけれど、訊かなかった。他のホットスナックを準備しようと冷凍庫の方へ向かった。
「工業大の精密工学」
 背後から聞こえたので、振り向いた。理系のことはよくわからない。「すごいですね……」と、当たり障りのない感想をのべた。
 田中君が眉根をよせた。適当なことを言って、怒らせたかと思った。
「そうでもない」
 勢いよく体を翻しレジカウンターから出ていった。どこへ行くのだろう。
 ちょうどお客さんも入ってきた。少し経てば会計にくるだろう。様子を伺いながら、唐揚げやコロッケを準備し始めた。
 しばらくして田中君がレジに戻ってきた。それからは特に話しかけてこない。安心した。無事シフトの時間も終わろうとしていた。
 ギリギリで人見さんが入ってきた。目があって、微笑みを返す。
 早く帰りたくなってレジ回りを整理し始めた。顔を上げると、田中君と目があった。コロッケを紙袋に入れているところだった。無表情だ。接客中なので、すぐに戻っていった。
 カウンターに、買い物かごが置かれたので顔をあげる。人見さんだった。
 かごの中にはヨーグルトがたくさん入っていた。全種類入っていそうだ。思わず笑ってしまう。スキャンして袋に入れていく。
「スプーンいりますか?」
「どうしようか?」と、質問で返されて少し困った。
「ひとつかみ入れといて」と言われた。わたしはレジを確認して買った数とおなじだけスプーンを入れた。人見さんはレジを済ませたあと、雑誌のコーナーに移動した。
 奥から、次のシフトの人たちが出てきた。挨拶をする。入れ替わりでスタッフルームに入った。制服を脱ぐ。田中君も入ってきた。「おつかれ」と声をかけられる。わたしも返した。何か言われるかと思ったけれど、田中君はすぐに着替え始める。
「お先です」と言って部屋を出た。店内をみながら出口へ向かう。人見さんはもういなかった。外に出て探すと、店の脇に立っていた。
「ギターを借りようと思ってさ。またあの子と一緒だったんだね」
 田中君と続けて一緒になるのは、めずらしい。理由は、わからなかった。信号が変わったので、国道を渡る。
「あの子、接客業、向いてなさそうだよね」
「工業大の、精密……って言ってましたよ。接客業には就かないと思いますよ」
「へえ、メーカー志望かな? いくつなの?」
 首をかしげる。
「院生かもしれないね」
 田中君のことはよく知らない。すぐにマンションの前についた。一旦立ち止まる。
「取りに行くよ」と、部屋の前までついてきた。玄関先でギターを渡した。
「ギターの扱いで気をつけることは?」
「濡らさないようにだけ」
「そんなもんでいいの?」と言って笑った。念のために、落とさないようにと付け加えた。
 補講も今日で終わる。大学へはしばらく用がなくなる。
「そういえば、学食、休みになりますよ」
「春休み入ってるんだった?」
「春休み自体は明日からです。今は海外研修期間で、もう、ほとんど休みですけど」
 しばらく考え込んで「今日は絵が描きたいから、カツカレーは諦める」と言った。
「四月に入れば、また営業しますよ」
「四月かあ、どうなってるかな?」  
 その頃にはもう、興味がなくなっていると思うのだろうか。 
 別れ際、ヨーグルトを分けてくれた。それから、ギターを大事そうに抱えて、帰っていった。今日の教習は夕方だ。その後、講習も入っている。着替えていると、携帯がなった。人見さんだ。
〈さっき、外で、あの子と出くわした〉
 申し訳なさそうに言う。
「別にいいですよ。もう会うことないと思いますし」
〈そう? すごい顔でみられたよ。ほっといてくれないんじゃない?〉
 人見さんが、何を心配しているのかわからなかった。
 教習までは少し時間があく。ふとギターの練習がしたくなった。最近まともにひいていない。デッサンをすると言っていたから、多分何時間かかけるのだろう。来月には、絵のモデルだけになるから、ギターの練習をする時間もとれるはずだ。教習も講習も六時前には終わった。
 人見さんから食べたいものを訊かれた。特に思いつかない。
「律って、親子丼作れる?」
「一応は……」
 スーパーへ買い物に行くことになった。
 ショッピングカートを押しながら店内を歩いていた。お肉コーナーにいく。時々バイトで一緒になる坂井さんという主婦に会った。あからさまに驚かれる。
 人見さんは、笑顔で会釈をしていた。坂井さんの顔が明るくなる。
 家に帰って早速作り始めた。調理にはそれほどかからなかったが、少し遅めの夕食になった。
「次から、少し遠くのスーパーに行く?」
 気をつかってくれる。「構いません」とこたえた。
「しかし、ギターってきれいだよね」
 食事を終えた人見さんが言う。頷いた。
「本当に貸してもらえてよかった。デッサンするのも楽しくってさ」
 喜んでいる。
「どんな感じに描いたんですか?」
 みたいかと訊かれ、大きく頷く。
「ギターの方ならいいよ」と、強調して言われた。
「明日来た時ね」
 今すぐ、みに行きたいくらいだ。
「今度ギターを弾いて欲しいな」
 あまり上手くないからと断った。
「無理強いはしたくないんだけどね。いつのお仕事にしようかな」
 笑顔でこちらみている。
「少し練習してからでいいですか?」
「いいけど、普段どこで練習してるの?」
 笑われるんじゃないかと思って、小さな声でこたえた。聞き返された。
「カラオケボックスです」
 人見さんが驚く。
「そんな発想なかった。川原か公園なのかと思った」と、わたしをみつめる。
 それから、「一緒にカラオケに行きたい」と言い出した。それでは意味がないと思ったけれど、すでに断れる雰囲気ではなくなっていた。カラオケには土曜日の午後行くことになった。

 次の日になり、大学で美佐子と会った。
「告白した?」と、いきなり訊かれる。
「無理、そんなことできない」
「どうして、運命さん、まんざらでもなさそうだったじゃない」
 頭を横にふる。
「せっかく前ふりしてあげたのに」
 美佐子が頬を膨らませる。
「いいの。一緒に出掛けたりできるだけで。もう会えないのかと思ってたんだもん」
 今度カラオケに行く話をした。
「ギターの練習をみたいって? 変わってる」
 頷く。
「だけど、律のギターの音、わたし、好きだよ。時々キュってなるのとか」
「ああ、キュってね」
 美佐子が「聞きたくなってきたなあ。今夜は配信しないの?」と言う。
「ギターを貸してるから」
 美佐子は残念そうだ。
「最近、呟きも少ないしね」
 言われるまで気づかなかった。
「これだからリア充は」と、おでこを押された。
 用事は予定よりは早くすんだ。人見さんに連絡をするか迷う。考えたら、三時間もじっとみられる。シャワーを浴びて、ドライヤーで髪を丁寧にのばした。服は着替えるのかもしれない。簡単に脱ぎ着できる服を選んだ。
 約束の時間までには二時間ほどある。早めの夕食をとろうかと思った。一応、人見さんに声をかけることにした。
「出るのも億劫で、どうしようかと思ってた」という。
 うちで、うどんを軽く食べることになった。料理のために、まっすぐにのばしたばかりの髪を、後ろで一つにまとめた。
 できあがる頃、人見さんはタイミングよく家に来た。出迎えるというのは初めてで、違う緊張がある。
「お出汁のいい匂いがする」
 玄関先で嬉しそうにいう。
「ごくごく普通の味なので……がっかりしないで下さいね」
 人見さんはすぐに食べ終わった。満足してくれたようだ。わたしはまだ半分も食べていない。みられながら食べるのは落ち着かない。
「律の部屋って落ち着く」
 人見さんの方はリラックスできるようだ。
「現役……働いてた頃、あの家の玄関入ってすぐの寝室と、バストイレくらいしか使ってなくてさ。外食ばかりで、キッチンには特に用はなかったんだ。律のコンビニが冷蔵庫がわりで、飲みたいものがあれば買って帰った。無駄に部屋があるから、使わないのに応接セットを並べて、読む時間もないのに本棚いっぱいに本を並べて。いらないから全部捨てた」
 ご両親の死は、きっと価値観を大きくかえてしまったのだと思う。
 わたしは父を幼い頃に亡くしたけれど、理解できる年齢ではなかった。家族を失ったら、かわるのだろうか。
「食事中に湿っぽい話をしてごめんね。この後、絵をみるよね?」
 つい笑顔になってしまう。
 食べ終わると、人見さんが後片付けをしてくれると言いだした。すぐに絵がみたくて断った。どんな絵なのだろう。
 人見さんの部屋にむかうエレベーターの中で「期待してくれてるみたいだけど、下手の横好きだから」と言われた。人見さんがアトリエに決めた部屋に入る。前もって暖めてあった。人見さんが机の上から大きな板を持ってきた。
「なんか、みせるの嫌になってきた」
 わたしはみせて欲しかった。
「男らしくないな。仕方ない」と、ため息混じりに言う。板をわたしの方へ向けて、渡してくれた。
 驚きで、何も言葉が出なかった。大きなモノクロ写真なのかと思った。
 ギターのボディに蛍光灯が映りこんでいる。弦が、金属なのがわかる。ネックにまっすぐと張られた弦が、等間隔に配置されたフレットに影を落としている。 
 うっかりつけた傷も、みつかっていた。
 だけど目を凝らせば、確かに紙の上に芯を擦り付けたあとがあった。
 どのくらい眺めていたかわからない。何度も繰り返し、隅々まで、人見さんの描いたギターを視線でなぞった。
「昔はこのくらいのモチーフは、二時間もかからなかった。すっかり遅くなった」
 顔を上げた。
「物を二つ以上配置すると、もっと画面に奥行きや拡がりが出る。時間が取れたら、ギターはもう一度描きたいなあ」と言って、微笑んだ。
 絵のことはわからない。それでも、人見さんの絵はすごいと思う。
「そろそろ、お願いできる?」
 その言葉で我にかえる。デッサンをよく知らなかったから、こんな風に緻密に描かれるとは思っていなかった。
「か、鏡をみてきていいですか?」
「どうぞ」
 服はこのままでいいという。
 洗面所に移動した。鏡に映る自分をみてため息をつく。これ以上鏡を眺めても何も変わらないので諦めた。
 アトリエに戻る。
「椅子に自然な感じで腰かけて」
 言われたとおりにする。
「手は、体の横にそのまま置いといて」
 少し小さめのイーゼルを持ってきて、さっきの板を立て掛けた。新しい紙が挟んである。次に、自分の座る椅子を持ってきて正面に座った。
「瞳が描きたいから、まっすぐこっちをみておいて」
 緊張が増した。
「怯えなくていいのに。まっ、いいや。一時間も経てば 慣れてくれるよね」
 休憩が入るとはいえ、三時間もみつめ続けなければならない。神経が持つだろうか。
「始めるよ」
 とにかく人見さんをみた。
 真剣な目でわたしをみている。わたしに向かって鉛筆を持った手を伸ばした。手を伸ばしたら届きそうな距離だった。
 鉛筆を、上に向けたり、横に倒したりしている。
 イーゼルの向きを少し変えて、椅子も動かした。わたしは、じっと動かないようにして、みていた。
「瞬きはしていいからね」
 言われてみると、目が乾いて痛む。
「描く間はしゃべらないから、眠くなると思うけど頑張って」
 視線は、紙とわたしを行ったり来たりする。時おり、目を閉じているのかと思うくらいに細めて、わたしをみる。
 鉛筆を持った手が、わたしの方へのばされる。指の関節がきれいだと思った。手が遠ざかる。わたしは指をもう少しみていたかったと残念に思う。
 人見さんの視線は髪や頬や肩やあらゆるところに注がれる。
 わたしに許されているのは、瞬きと呼吸だけだった。
 しばらく動かずにいると、自分が人形に閉じ込められているような感覚になった。
 人見さんの呼吸の音がきこえる。鉛筆を動かす度、衣擦れがする。
 息を潜めていた。鼓動はなかなかおさまらない。
 人見さんは一言も話さない。それでも表情は変化していく。わたしを観察し、何かをみつけてはふと笑みを浮かべる。鉛筆を持った手を口元に添えて考え込む。
 以前コンビニでよくみかけていた頃とも、最近の少しおどけた感じとも全然違う。今目の前にいるのが、本来の人見さんなのかもしれないと思った。
 休憩に入った。「絵はみないでね」と釘をさされた。他に会話はなかった。
 ひとまず立ち上がった。人見さんは、絵に手をいれている。
 することもないので、すぐに座った。
「喉が渇いたなら、冷蔵庫にあるから」
 手を止めて、そう言った。すぐ作業に戻ってしまった。
 横顔を眺めていた。鉛筆を何度も持ち変えて何かをしている。
 突然こちらを向いた。
「そろそろ再開するよ」
 頷いて、さっきと同じように座り直した。
 また、ひたすら人見さんをみつめ続ける。 飽きることはなかった。
 人見さんは、時には疑うように、時には見下すように、時には懐かしむように、わたしをみた。
 何か言いたげに唇が開きかけては、また固く結ばれる。
 髭が少し伸びていることに気づいた。右の、少し垂れ下がった目尻の横に、小さなほくろがある。わたしは、長いまつげが涙袋に落とす影も、こめかみに残る小さな傷も、見逃さず、脳裏に描写していく。
 贅沢な時間だと思った。
 何度か軽い休憩を挟んだ。そろそろ三時間近く経つ。
 さっきから、人見さんがあまりに集中しているから、あちこち痺れていることが言い出せず、たえていた。
 鉛筆を置いて立ち上がった。優しく微笑みかけてくれる。こちらへ近づいてきた。「長時間、お疲れ様。ありがとう」
 人見さんをみあげる。立ち上がろうとしたら、腰の辺りが痛んだ。
「ごめん。最後長かったよね」
 差し出された手は、真っ黒に汚れていた。
「待ってて、手を洗ってくるから」
 足をあげようとしたが、関節が痛くて動かせない。
 人見さんはすぐに戻ってきた。
 腕を引き上げてくれた。うまく立っていられない。腕に倒れこむ。
「言ってくれれば良かったのに」と、わたしを抱えたまま、床に腰を下ろした。
 人見さんから、良い香りがする。触れたところから熱が伝わる。
「ソファーでもあれば……凭れるの僕で我慢しいといて」
 髪を撫でられる。
「艶やかで、描いてて楽しかった」
 指が、耳をなぞった。驚いて首を縮めた。
「油絵を描けると思うと、楽しみで仕方ない」
 顔をあげるように言われる。頬に手が触れた。親指が下唇をなぞる。
「頬も、柔らかな唇も、澄んだ瞳も、全部……」
 声が低く響く。わたしは動けなかった。
 人見さんは絵を描くときの顔でわたしをみている。
「僕が、閉じ込める」
 全身から力を抜き取られるような、不思議な感覚におそわれた。顔をあげていられなくなった。
 崩れ落ちそうな体を、支えてくれる。
「少し横になる?」
 なんとか頭を横に振る。
 引き寄せられた。あぐらをかいた人見さんの膝に座らされる。
「体が、冷え切ってる」
 両腕でわたしを包み込んだ。
「明日、早いのに……無理させてごめん」
 自分の鼓動がうるさい。目眩もおさまらず、何も言えなかった。
 大きな体に包まれる。背中が温かい。腕に体を預けていた。
 目を閉じると、もっと体が沈み込んでいく気がした。苦しかった。それなのに、このまま温もりに包まれていたかった。
「送っていくから。体を温めて早く休んだ方がいい」

 自分の部屋に戻ってからも、なかなか眠れなかった。人見さんの目が何度も蘇る。腕や胸の感触もまだ残っている。
 寒気ではなく、体が熱くなって身震いした。ベッドの中で身を縮めた。
 うつらうつらしては、暗闇に目をあける。繰り返しているだけで、目覚ましが鳴った。
 今朝は、一段と冷え込んでいた。寒波が近づいていると気象予報士が言っていた。とにかく着替えてコンビニへ向かうことにした。
 部屋を出ると、頬に空気が刺さった。足早に歩く気力も無い。マンションの外へ出る。風が強くなる。鼻にも染みる。痛くて涙がにじんだ。できるだけ小さくなって歩く。
 もうすぐで大通りに出ると言うときに、後ろから、足音が近づいていることに気づいた。少し、速度をあげた。
 交差点の信号は赤だった。早く渡ってコンビニの中に入りたかった。
 後ろから肩をたたかれた。わたしは驚いて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫か?」
 田中君の声だった。
「信号、変わった」と、腕を掴んで引き上げてくれた。腕を取られたまま、信号を渡る。わたしを引っ張って、そのままコンビニに入っていく。深夜シフトの人が、わたし達をみて驚いた顔をした。スタッフルームに入って、やっと腕を放してくれた。
「顔色、悪いけど」
 田中君に言われる。ただの寝不足だとも言えず「大丈夫です」とこたえた。それ以上は何も言われなかった。田中君はロッカーをあけて、着替え始めた。
「今日も、朝一なんですか?」
 田中君が振り向いて「悪い?」と言った。わたしは顔を横に振る。頭もよくまわらないので、それ以上考えなかった。
「レジはお願いしていいですか」
 ぼーっとしている上に、吐き気までする。この調子だと、大きなミスをしかねないと思った。
「どうせヒマだから、裏で在庫整理でもしてたら?」
 抑揚もなにもない口調だけれど、気遣ってくれているのかもしれない。
 カップ麺の段ボールをあけて、取り出しやすいようにして置き直した。しばらくは、そこで過ごした。
 冷蔵庫の温度チェックの時間になり、店内に出た。いつも以上にお客さんが少ない。通常の準備をすすめていく。
 長く感じたけれど、ようやく時間がきた。
 人見さんは来なかった。昨日、かなり集中していたので、疲れたのかもしれない。午後には教習が入っているので、とにかく帰って寝たい。
 スタッフルームで田中君にお礼を言った。かなり負担をかけたと思う。
「別に、客少なかったし」
 相変わらずの無愛想だ。挨拶をして帰ろうとした。
「待って、俺も帰る」
 呼び止められる。逃げ帰るわけにもいかず、待っていた。
 コンビニから出て、いつも人見さんが待っている場所をみた。いない。田中君がわたしに並んで歩く。国道の交差点で信号待ちをした。
「あの客、今日は来なかった」
 返事をせず、ただうつむいていた。
「どうしてギターを貸した?」
 人見さんが、みられたと言っていた。
「絵のモチーフにするって……」
「あの客、絵描き?」
 答えに困る。人見さんは、ニートだと言っている。
 やっと信号が変わり、歩き始めた。ゆっくり歩いていると、歩調を合わせられる。だけど、早く歩く元気はない。
「答えないなら、向こうに訊く」
 驚いて、田中君をみた。
「近所で、たまたま話すようになっただけだから、よく知りません」
 それ以上言いようがない。田中君はわたしをじろっとみて「ふーん」とまた関心のなさそうな返事をした。
「そんな程度で、大事なギターを貸すんだ」
 田中君の言葉には、とげがあった。関心がないのかと思ったのに、分かりにくい人だ。大事なギターではあっても田中君に責められるいわれはない。さすがにむっとした。
「勝手でしょう」
 人見さんはわたしにとって、そんな程度の人ではない。
「ムキになったりするんだ。意外」
 いつの間にか、家の前についていた。
「また、明日」
 わたしは、立ち止まった。田中君はにこりともしない。
 今まで、滅多に同じシフトにならなかったのに、明日も入るんだろうか。シフト表を確認してくれば良かったと思った。不安はあるが、今は眠気の方が勝っていた。教習までに回復させなければ、卒検が遠のいてしまう。
 予約した十五時までまだ時間はある。今日は、教習のあと、人見さんの部屋に行く。いよいよ下絵に入るらしい。わたしを描いた絵はみせてくれないので、どんな風になるのか想像もつかない。
 家に帰ってすぐ、ベッドに倒れ込んだ。
 田中君のことは面倒ではあるけれど、バイトの間だけの話なのでたいしたことは無い。
 今日も明日も、結構長い時間一緒に過ごせる。
 腕の温もりが蘇って、誰にみられているわけでもないのに、顔を覆い隠した。
 ほとんど寝ずにバイトに入って、疲労していた。目を閉じた途端に、意識がなくなった。
 携帯が鳴っている。目を閉じたまま、枕元を探す。手に取った後も、スマートフォンは震え続ける。片目をあけて、画面をみる。人見さんからだった。慌てて出る。「もしもし」と言った自分の声がかすれていて驚く。
「もしかして寝てた?」
「ちょっと昨日眠れなくて……何時ですか?」
 お昼過ぎだった。まだ三時間ほどしか寝ていなかった。そのわりに頭はすっきりとしていた。
「お昼でもどうかなと思って電話したんだけど」
 すぐに下りると言って、電話を切った。簡単に身支度をすませ外へ出た。晴れてはいるが、やはり今日は寒い。人見さんは表で車をとめて待っていた。
「昨日はありがとう。今朝はごめんね。寝過ごしちゃって間に合わなかった」
 自動車学校の近くのパスタランチに連れていってくれるという。
「急に思い出したんだ。職場の女の子に連れてってほしいって何度も言われて、結局行かなかったお店。あんなに行きたがってたから、きっと美味しいと思うんだよね」
 途端に食欲がなくなってきた。きっときれいな人にちがいない。運転をする横顔をみる。楽しげだ。
「電話したら予約なくても大丈夫だって言うから」
 適当に相づちを打つ。勤めていた頃なら、髪も長くてスーツ姿でと考えてしまう。職場では、今みたいな笑顔もみせていたんだろうか。
 窓の外に視線をうつした。会ったこともない人に、嫉妬してしまう。
「元気ないけど、あの子に何か言われた?」
 ベランダから、田中君と歩いているのがみえたという。
「どうしてギターを貸したのか訊かれただけです」
「律のこと気になるんだね」
 否定もできず黙っていた。
「なんかさあ、僕は、ずっと束縛するのもされるのも好きじゃなくってさ。自分はそういうタイプなんだって思ってたんだけどね。最近、執着するほどの相手じゃなかっただけだと気付いた」
 イタリアンレストランの前で、車をとめた。サイドブレーキをかける音が車内に響いた。
「僕は自分で思ってたより、ずっと嫉妬深いらしい」
 怒っているのかと思うくらいに、声が低い。わたしは人見さんをみた。みつめかえされる。
「誰にも触れさせたくない」
 一瞬にして胸が締め付けられた。
「絵が完成するまで、律は僕のものだよ。そのこと忘れないで」
「わかりました」
 唇をかみしめる。結局、わたしはモチーフでしかない。
 イタリアンレストランは、内装も女の人が好みそうだ。生パスタも、バジルのソースの緑がきれいで、美味しかった。職場の人が、一緒に来たがったのもよくわかる。それでも、落ち込んだままだった。
 路上教習も、何事もなくこなした。
 人見さんは待っている間、近くのカフェで本を読んでいた。カバーが掛けてあるので、タイトルもわからない。訊いても教えてもらえなかった。
「下絵はやめておく」と、言われた。
「律の機嫌が悪い」
 そんなことはないと伝えた。
「どちらにしても、今日はもう気分じゃないから……。そうだ、律の家って、ブルーレイのプレーヤーある?」
 DVDプレーヤーしかないと返した。
「今日は映画でもみよう」
 レンタルビデオ店に行った。車で待たされる。すぐに借りて出てきた。
「怖いやつ」
 そう言ったけれど、実際は『真珠の耳飾りの少女』という映画だった。
 とても美しい映画だった。
 オランダの画家フェルメールの有名な絵、『青いターバンを巻く少女』にまつわる物語だ。
 絵画と同じ光と影をたたえた映像にみいった。
 芸術のために身も心も捧げる。わたしには、そんなことはできないけれど、何を求められているのかはなんとなくわかった。見終わった後も、しばらく放心していた。
 人見さんも、しばらく何も言わずに、その場から動かなかった。
 どのくらい経っただろうか、名前を呼ばれた。隣に顔を向けた。人見さんは、まだ画面をまっすぐとみていた。
「後、ひと月ふた月でいいんだ。無償でとも言わない。理解してほしいとも言わない。だから、ただ黙って、律の時間を全部、僕に下さい」
 その言葉は、たんたんとしていて、かえって、重く響いた。
「明日も早いね」
 わたしをみる目が赤かった。
「明日はちゃんと起きるよ」
 笑顔をみせてくれたから、ほっとした。
 それでも、言葉から、はっきりと感じ取ってしまった。人見さんには何か覚悟があって、それは多分揺るがない。
『ひと月ふた月』その限られた期間ではあっても、必要としてくれている。人生の節目、新たな出発点の、重要な儀式として絵を描くのかもしれない。
 きっとここから居なくなってしまう。それがわかっても、今、求められている役割を放棄などできない。
 何もわからず、契約書にサインをした。人見さんにはあの時からその重みがわかっていたのだろう。
 どんな理由でもいい。一分一秒でも多く一緒に過ごしたい。わたしの内側でこんこんと湧き出る、確かな願いだった。
 涙が溢れてしまいそうだった。
 人見さんは、DVDを取り出した。レンタルの袋にしまっている。
「ギター、楽しみにしてるから」
 わたしは頷いた。
 その夜、夢をみた。
 夢の中でわたしは、フェルメールの使用人をしていた。映画でみた美しい情景の一部になって、絵を描くフェルメールをみつめていた。
 そばにいるのに、決して届くことのない想いを抱えて、筆を握る手を、みつめていた。フェルメールが振り向く。その姿はいつの間にか人見さんに変わっていた。
「僕が、閉じ込める」
 わたしの意識は、少女から離れた。目の前に青いターバンを巻いた美しい少女が立っている。
「心まで、描くの……」
 少女は人見さんに問いかけた。
「違う、心を描くんだ」
 胸が苦しくなって目を覚ました。心臓が激しく打っている。汗もひどくかいていた。起き上がって呼吸を整えた。
 なぜわたしを選んだのか、わかった気がした。「つけこむ」「利用する」という言葉は警告だったのだろう。
 再会した時に、自分でも気づいていなかった想いを、見透かされたのだ。
 わたしは、泣いた。もう、手遅れだと思った。
 コンビニで会うのを楽しみにしていた頃よりも、待ちわびていた頃よりも、一週間前よりも、昨日よりも、人見さんのことしか考えられなくなっていた。
 起きるにはまだ早い時間だった。それでも眠れそうにない。
 鏡をみるとまぶたも唇も腫れていた。冷たい水で顔を洗おうと蛇口をあけた。冷たすぎて、指が芯まで痛んだ。頬や鼻の下に水がしみる。
 着替えもすませ、ベッドを背もたれに座って時間を過ごした。
 失恋ってこんな感じなのかもしれない。やけに腑に落ちて、また涙がこぼれた。
 時間になり、外へ出る。いきなり田中君と鉢合わせた。
「おはよう」と言われ、会釈した。
 コンビニまで、一緒に行くしかなかった。早いので、人見さんにみつかりはしないだろう。それでも、できるだけ距離をとって並んだ。
 スタッフルームに入ったとたん田中君に腕を掴まれた。
「泣かされた?」
 頭を横に振った。
「あんなおっさんのどこがいい? 遊ばれてるんだろ」
 さっきよりも強く頭を横に振った。大事にされていることはわかっている。それがわたしの望む方向でないだけだ。また涙があふれてきた。
「ごめん、忙しくなるまでは裏にいていいから」
 田中君は素早く制服を着て店内に出ていった。
 鼻をすすり上げる。人目がないといくらでも泣いてしまいそうだった。店内整理をすることにした。
 土曜日のわりに朝からお客さんが来た。目の前の仕事をこなしていくことで、徐々に気力を取り戻した。パンの棚に到着したばかりの商品を並べていると、後ろから人見さんに話しかけられた。
「朝は、パンでいい? おすすめをかごにいれて」
 辺りを見回した。田中君のいるレジはちょうどみえない。リンゴのデニッシュやベーコンのクロワッサンを選んで渡した。
「律が終わるまで中にいるから、一緒に帰ろう。そのままうちにおいで」
 言い残して、別の場所に移動した。
 パンを並べ終わり、箱を倉庫へしまった。もうすぐ終わるので、レジカウンターへ戻った。田中君はわたしをジロッとみただけで何も言わなかった。
 少し列ができたので、レジに入った。人見さんは、田中君の方に並んでいる。気になってしかたがない。ごく当たり前にレジをすませていた。
 交代の時間になり、スタッフルームに入った。
「あの客、何しに来てる?」
「買い物に……」
 田中君が乱暴にロッカーをあけた。大きな音がして身体を縮めた。
「わたしが、来て欲しいって……」
 田中君は制服をロッカーにしまって、激しく閉じた。
「待ってるんだろ。着替えれば」
 腕組みをして、わたしをみている。制服を脱いでロッカーにしまう。上着を抱えて、スタッフルームから逃げでた。そのまま店の外まで、小走りで出た。
 駐車場の真ん中辺りまで来た。
「律!」
 後ろから呼ばれて立ち止まった。人見さんが駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
 思わず、腕にしがみついた。
「何があったの?」と、心配してくれている。
「あの子になんかされた?」
 何もされていない。ただ怖かっただけだ。人見さんから離れた。顔をあげることができなかった。上着を着せてくれた。
「とにかく帰ろう」と、わたしの手を取った。温かい。
「パンを食べたら、元気が出るよ」
 コンビニの袋をわたしの目の前で揺らす。乾いた音がする。
「信号がかわるよ。ほら、歩いて」
 手を引かれて歩く。そのまま、人見さんの家に行った。
 人見さんが言ったように、パンを食べたら、少し落ち着いた。カラオケボックスが開くのは昼なので、しばらく時間がある。
 人見さんがギターを取ってきた。
「借りっぱなしでごめんね。あれから、何枚か描いたけど飽きないね」
 絵をみせてくれた。
 構図について、いろいろと話してくれる。確かに別のものを配置すると、奥行きが感じられた。
「弦を描くのが楽しいんだ。微妙に太さが違うし、ピンとはりつめているでしょう。おまけにワイヤーだから……ずっと、こういうアナログなギターってナイロンの弦だと思ってたんだけど」
 質問された。
「ナイロンの方が音は柔らかいんですけど……母が……ギターは母のおさがりなので」
「律のおかあさん、楽器もするんだ」と感心している。
「いえ、好きなバンドの曲を弾きたいって、楽譜やギターを買って、すぐにやめちゃいました」
 だから、最初の頃、母の好きなバンドの曲でギターを練習していた。バンド名を訊かれ答えると、嬉しそうに目を見開いた。
「僕の友達も、好きだったよ」
 友達について話してくれるのは初めてだった。「なんか、思い出したら会いたくなったな」
 何か考え込んでいる。
「家具なんかを捨てたときにね、一旦携帯も解約して、プロバイダもやめてパソコンのデータも全部消去してしまったから、連絡がつきにくいんだよ」
 あまりの徹底に驚いた。同じ事をしたら、どれだけ困るだろう。
「大阪で法律事務所を開いてるから、一度連絡してみるよ」
 お友達は山崎さんといった。
 カラオケボックスには徒歩で行けるので向かい始めた。人見さんがギターを持ってくれている。
「きっかけは、あいつからラブレターをもらってさ。いや、僕の絵が好きだって内容だったんだけど、いつもね、絵の右下にHitomiってサインをいれてたから女だと思われててさ。直接渡してくれれば読まずにいられたのに、人伝だったから。僕が男だってわかって、えらく嫌われちゃって」
 それでも、その後仲良くなったらしい。山崎さんのことを話す人見さんは、いつもと雰囲気が違った。また、新たな一面をみることができて嬉しかった。学生時代、どんな制服を着ていたんだろう。いろいろと想像していると楽しくなってきた。きっと山崎さんも素敵な人だろう。
 妄想に浸っている間にカラオケボックスに着いた。
 フリータイムで申し込む。人見さんが受付の人に頼んで、タンバリンを借りる。
「あの、アップテンポのは弾かないです」
「ん? みえたから借りとこうと思って。せっかくだから楽しみたいしね」
 渡された番号の部屋に入る。いつも一人なので狭くても不満はなかったが、二人だと窮屈だった。モニターと向かい合う形で、三人がけのソファーと、背もたれのない椅子があった。
 暗くて距離が近い。
 椅子をモニターの前に移動させた。それから自分はソファーに座る。テーブルの上にギターケースを寝かせて置いた。
「どうぞ、リサイタル始めてください」と、立ったままでいるわたしを見上げた。
「れ、練習です。それに、飲み物が来てからでないと」
 店員さんに聞かれてしまう。
 数日ギターに触っていないので、うまく弾けるわけがなかった。
「チューニングもしますし……それに、指をならすのに時間下さい」
「ごめん、楽器のこと何も知らなくて」と、シュンとした。
「知らなくても何も問題ありません」と声をかけた。ひとまず、椅子に座った。ドリンクも運ばれてきた。
 テーブルの上のギターケースに手を伸ばした。手が震えて、すんなり開けられなかった。
 ギターを取り出した。ネックを握って引き寄せる。
 左手の指に触れる硬い弦の感触が嬉しくて、ボディを手のひらで撫でた。
 ペグを指でつまんで少し巻いた。弦を弾いて音を確認していく。チューナーをつかってすべて合わせた。
 顔をあげると、手を叩いた。音を合わせただけで誉められた。あまり感心されると恥ずかしい。
「僕のことはいないと思って、いつも通りにしてね」
 そう言われても緊張はしてしまう。回線越しでなく、人前で弾くことなどほとんどなかった。
 それでも、ギターを弾きたいので、極力人見さんが視界に入らないように斜めを向いて構えた。
 開放弦でまず、上から下に向かって弦を撫でた。
 耳に心地よく響く。
 簡単なコードから押さえていく。和音をばらして鳴らしていく。徐々に速度をあげる。
「驚いた」
 声が聞こえて、手を止めた。
「ごめん、気が散ったね。ここまで巧いとは思ってなかった。あっ、僕は全くの素人だけど……」
 上手いほうではないと訂正しておいた。
 少し指もなれてきたので、左手の運指トレーニングを始めた。
 ネック部分の弦を人差し指、中指、薬指、小指と動かして、低い方の弦から順に押さえていく。
「それだけで、音が出るんだ」
 人見さんが驚いている。
「いちいち話しかけてごめん」
「練習してるだけなので、気にせず話しかけてください」
 とにかく指を動かしたくて続けた。一弦まで行ったら、小指から中指と順番をかえて低い弦へと押さえていく。パターンをかえながら、何往復かした。
 指がつかれてきたので休憩したくて、一旦ギターを置いた。
「休む? 食べるもの頼んでもいいかな。適当でいい?」
 気がついたら、一時を回っていた。数日ぶりにさわるギターはとても楽しくて、時間が経つのも忘れていた。
 ドア横の受話器をとって注文している。戻ってきて、ギターを手に取った。
「律くらい弾けたら楽しいだろうな」
 すぐにテーブルに戻す。何を頼んだかを訊くと、ホットサンドやポテトフライだった。
 ギターをケースにしまって脇に置いた。
 人見さんは嬉しそうにわたしを誉めてくれる。恥ずかしくてうつむいた。
 食べたあと、人見さんが知っていそうな曲をいくつかひいた。演奏は、思ったほど緊張しなかった。
 ただカラオケに来たときは少し強めにかき鳴らしたり、声をはって歌ったりするけれど、家で練習するのとそう変わらない内容になった。
 歌ってほしいと頼まれたけれど、鼻歌で許してもらった。
 途中、山崎さんに連れられて夏の野外ライブに行った話など、音楽に関するエピソードを話してくれた。
 カラオケの後は、おばさんの食堂によることになった。
 人見さんが「ギターが巧い」と大袈裟に話すから「今度聴かせてね」と言われた。
 別れ際に「明日から下絵に入ってもいいかな?」訊かれて、わたしは頷いた。
 今日はギターを持って帰った。少しゆっくりした後に、久しぶりにSNSで呟いた。
『配信したら来るひといるかな?』
 夜九時過ぎだった。
『行く、行く』
 美佐子からリプライがあった。一人でも来てくれればいいと思って、マイクなどをセッティングした。
『今日は一方的に歌います! スピッツメドレー』
 画面も静止画にした。ヒット曲を次々、弾き語りしていった。
『運命さんとのカラオケどうだった?』
 美佐子が余計なことを書き込むから、コメントが変に盛り上がった。
「お友達とギターの練習に行っただけです!」
『彼氏じゃないの?』
「違う違う」
 面倒になったので、延長せずに三十分で配信を終わらせた。
 思っていたより人が来てくれた。普段は来ない人の名前もある。ギターをしまって一息ついた。パソコンを閉じる。スマホに通知があったので確認した。
 田中君からラインにメッセージが来ていた。
『配信おつかれ』
 たった一言なのに、不安にかられた。
 しばらく画面をみつめたままで動けなかった。
 SNSは本名ではしていない。地域くらいは書いてある。でも、大学も明かしていない。
 あまり写真を撮らないので、あげたりしない。
 美佐子とはよく会話する。だからと言って、大学も違う田中君にみつけられた理由がわからない。
 今日、たまたま来てわかるはずはない。いつもは服が映っているが、今夜の画面はネットで拾った風景写真だった。 
 フォロワーの中に田中君がいるんだろうか。
 スマホを操作した。フォロワーは九百人ほどだ。画面をスクロールしていくけれど、みつけられる気はしなかった。
 どうして、配信をしたことがわかったんだろう。
 この間、『大事なギター』と言われた。前から配信に来ていたのかもしれない。
 考えてもわからない。余計なことを呟くのをやめようと思った。
 今更遅いけれど、ラインを教えなければよかった。
 だけど、バイトはあと二回で終わる。田中君と直接会うことはないだろう。ラインは、間をあけて返せばいい。『既読無視』をするのもよくないと思い、『?』のついたスタンプを押しておいた。
 明日は下絵に入るといっていた。よく眠ってコンディションをととのえたい。
 田中君のIDは通知が来ないように設定した。不安はあったけれど、ギターをたくさん弾いたので疲れていた。
 習慣になっているせいか、朝はすんなり起きられた。用意をして部屋を出た。今日も寒い。マンションを出たところで、また田中君に会った。まだ、辺りは暗い。田中君がマンションの玄関灯に照らされている。わたしは動けなくなった。
「ラインを送った」
 上着のポケットに入っているスマホを手で押さえた。
「今日も朝一で入るんですか」
「そうだけど」と、田中君は単調に言う。どうにかして家に帰れないかと考えた。どうにもならない。黙って、コンビニに向かい歩き始めた。田中君は横に並ぶ。
「ギターを返してもらったんだ」
 聞こえないふりをしていた。
「あの客の正体わかった」
 息をのんだ。
「ベートーヴェンって呼んでたサラリーマンだろ」
 以前、よく呟いていた。結構前からSNSのアカウントを知られていたことになる。怖くなった。わたしの方は田中君のアカウント名も家も何も知らない。こちらは、どこまで知られているのかわからない。
「どうして……」
「あれだけ情報を垂れ流したら、簡単に特定できる」
 血の気がひいた。
「佐々原さんの初出勤の日、たまたま深夜シフトで入ってた。終わったあと『初日無事終了!』って呟いただろ」
 一年ほど前の話だ。そんなことはおぼえていない。
「大学生ならSNSくらいしてるだろうと思って、いろんなキーワードで検索かけてそれっぽいのを全員フォローした。段々と人数が絞れて……」
 国道に出て、急に明るくなった。田中君をみる。口許が笑っているように思えた。わたしは、身震いした。
「配信のとき、声が一緒だった」
 信号が変わる。わたしは前に進めなくなった。田中君が横断歩道の真ん中から引き返してくる。腕を掴まれた。思わず身をよじる。田中君から「遅刻する」と、強く腕をひかれる。思いきり空気を吸い込む。冷たくて鼻にしみる。引きずられて、コンビニにたどり着いた。
 店内に入ってやっと田中君は手を放してくれた。時間にはまだ少し余裕があった。真っ直ぐトイレに向かった。
『今日は必ず来て下さい』
 人見さんにメールをした。
 スタッフルームに入ると、田中君はすでに着替えていた。別に話しかけては来ない。
 時間になったので、駐車場の清掃から始めることにした。
 いつもより念入りに掃除する。店内の様子をみる。田中君はレジ近くで立っていた。
 一台の車が駐車場に入ってきた。車のライトに照らされて眩しかった。目をそらす。
 何も止まっていないのに、店の前ではなく脇に駐車する。みたことのある車だと思った。運転席から降りてきたのは、人見さんだった。車の脇に立ったまま、手招きをする。
 店内を確認する。田中君はレジの最中だった。駆け寄った。
「何かあった?」
 黙って頷いた。
「今日もあの子いるね」
 頷く。
「今日は店には入らないようにするね。時間になったらここに戻ってくるから」
 人見さんは「大丈夫」と言って、わたしの肩に手を置いた。少し安心して、店内に戻った。
 上着を置きにスタッフルームに入る。気は重いが、いつまでもここにいるわけにはいかない。帰りは人見さんが来てくれると、自分に言い聞かせた。
 よいタイミングで、配送トラックが来た。受け取りのあと、陳列を始めた。よく考えれば、勤務中に長話をする時間などないのだから、怯えることはなかった。
 時々、目が合う。それだけだ。しばらくTwitterはやめておこう。美佐子に相談したいとも思った。
 無事に時間が終わった。スタッフルームに入る。田中君がロッカーの前にいた。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
 それだけで緊張してしまう。うつむいた。田中君がいるのはわたしの使っているロッカーの前だ。
「怖がるのやめて」
 顔をあげられない。
「あー、佐々原さん、いたいた」
 背後から大きな声で呼ばれた。
 振り向くと、スーパーで会った坂井さんがいた。
「ちょっと訊きたいことあって、倉庫に付き合って」
 坂井さんはわたしの背中を軽く押して、商品倉庫の方へ連れていく。
「田中君、お疲れ様! どうせまた寝てないんでしょ。早く帰って寝なさいよ」
 声をかけている。
 坂井さんは、倉庫の電気をつけた。商品の在庫が積み上げてある。
「奥、行こう」
 言われてついていく。
「大丈夫? 変な話を耳にしたんだけどね」
 坂井さんが心配してくれているのがわかる。
「田中君が、無理やり佐々原さんのシフトに合わせてるって。働いたのは自分なのに、代わってもらった相手に、その分のお金を渡してるらしいのよ」
 両手で口許を押さえた。かすかに手が震えている。
「バイトは今月いっぱいでしょう」
 頷いた。
「最後の日も、この時間で入ってるから、気を付けといてあげるしね」
 坂井さんは田中君が帰ったかを確認してくれた。
「あの素敵な彼に相談したほうがいいわよ」
 坂井さんは、手を振りながらそう言った。
 人見さんがいる場所に向かう。車がみえた。わたしに気づいて、降りてきた。
「遅いから、心配した」と、手をとって、助手席に乗せてくれる。
 車の中は、いつもの不思議な香りがした。人見さんが運転席に乗り込んだ。
「とにかく、離れよっか。気分転換にドライブでもしよう」
 ギアを動かすと、電子音がなり始める。車が後ろに下がっていく。
 ほっとして、涙がこぼれた。シートベルトを握りしめた。
 人見さんは何も言わなかった。膝の上にティッシュケースをのせてくれた。窓の外をみて、そっと泣いた。
 無自覚でしてきたことをいろいろと後悔した。ギターを誰かに聴いて欲しくて配信を始めたことも、顔がみえなければ大丈夫だと軽く考えていた。
 ティッシュを目に押しつける。しばらく、泣き続けた。
 どこへ向かっているかわからない。だけど、不安はなかった。
 顔をあげて、外をみる。いつの間にか、町外れにきていた。
「寒いけど、海に行く?」
 海には心ひかれる。わたしは少し迷う。
「みたい気はしますけど、寒いですから……」
 横顔をみる。
「だよね」と、人見さんは笑った。
「海沿いを走ろう」
 朝日をみた日に寄った喫茶店で、遅めの朝食をとった。
 窓から海がみえる。所々に細くたつ白波が鮮やかだ。今日は空も真っ青で、水平線がくっきりとみえる。貨物船がゆっくりと進んでいく。水面は上から照らす太陽を反射して煌めいた。
「話したくなったらでいいから」
 話しかけられて、視線を向ける。頬杖をついて、優しく笑いかけてくれる。
「たいしたことじゃ……」
「たいしたことでしょう?」
 心配してくれているのがわかる。
 少しずつ話した。田中君が配信に来ていたこと。シフトを無理やり合わせていたこと。うまく話せなかったと思う。
「配信?」
「ネット上で、個人が配信できるシステムがあるんです。ギターを弾いて、時々歌ったりしてたんです。顔がみえないようにして……」
「律が?」
 驚かれてしまった。自己顕示欲を知られて恥ずかしくなる。うつむいた。
「でも、わかるなあ。あれだけ一生懸命に練習してたら、誰かに聴いてもらいたいよね」
 わたしは顔をあげた。目が合う。人見さんは、目を細めた。
「恥じることではないよ」
 嬉しかった。
「だけど、あの子には悪いことした」
 人見さんは、いつもあの子と呼んでいるのに、すぐには田中君と結びつかなかった。
「不器用だな。そんなこと言ったら、怖がらせるだけなのに……ね」
 わたしは、言葉の意味がすんなり入ってこなかった。
「律は、脅されたと思ってるでしょう」
 頷いた。
「それ、きっと純粋に、告白だよ」
 その場にいなかったからそう思えるだけだ。
「律の気持ちも理解できるよ、もちろん」
 窓の外に顔を向けた。しばらく海を眺めたあと、視線だけをわたしに戻した。
「幽霊の正体みたり枯れ尾花って言うでしょ。証券会社でまだ若手だった頃、リーマンショックっていうのが起こってさ。アメリカの大きな証券会社が破綻……倒産しちゃったんだけどね。百年に一度の危機って言われてさ。どこまで株価が下がるか誰にもわからなかった。その時に、バブル崩壊も経験したベテランの先輩が僕に言ったんだ」
 人見さんは、正面を向いた。
「破綻で出る損失の実態がみえてきたら、下げどまる。それがどんなに巨額でも、わからないよりはずっと安心できるからって」
 何を言いたいのかわからなかった。
「あの子のSNSでの名前がわかれば、安心できるんじゃないかな」
 確かにそうかもしれない。
「律のSNSの名前教えて。僕も一応はアカウントあるんだよ。日経新聞社とかロイター通信しかフォローしてないけどね。ログインすれば使えると思う」
 躊躇した。過去の呟きをみられてしまう。最近『会いたかった人に会えた』と呟いたばかりだ。
「そうだな、律の教習の間で探そう。それと、配信している間、監視するのもいいかもしれない」
 わたしは、頭を横に振る。人見さんに配信に来られたら困る。うつむいた。
 視界に人見さんの指先が入った。机をとんとんと鳴らす。
「過去の書き込み消しちゃダメだよ。あの子をみつけられなくなるから」
 そっとため息をついた。気持ちはとうに知られている。今更隠そうとするのは無意味かもしれない。それでも、会いたい会いたいと頻繁に呟いていた時期がある。気が重い。
「律ってフォロワー何人いるの?」
 こたえた。人見さんは口をポカンと開けてかたまった後、「これは一仕事だ」と言った。腕を組んで考えている。眉間のシワが懐かしい。
「女の子のふりしてるかもしれないしな……後で、海の写真を撮って、あげてごらん。ドライブ中とか言ってさ。よい反応の子はまず除外」
「わかりました」
 人見さんがまた頬杖をつく。わたしをみて嬉しそうな顔をした。
「歌うんでしょ。配信楽しみ」
 一瞬にして耳まで熱くなった。
「ひとまず、方向性も決まったことだし、帰って下絵に取りかかろう」
 伝票を持って立ち上がった。
 帰りの車の中で、何かを考え込んでいた。時々ため息をつく。
「僕が律の周りをちょろちょろしなかったら、たまにバイトで一緒になったり、配信みたりして、満足してたと思うんだよね」
 人見さんは田中君に同情的だ。納得がいかない。今朝も本当に怖かった。不満に感じながら、横顔をみた。運転しているので、こちらはみない。
「しばらく僕の家に入り浸りなんだから、接触の機会自体がなくなる。そのうち……」
 人見さんは、続きを言わなかった。そのまま、しばらく黙っていた。
 窓の外をみながら、言葉を待った。市街地に入って、建物が増えてきた。
 人見さんが大きく息をはいた。
「僕は、手を引く気はない。絶対に、絵は完成させる」
 絵を描かないわたしには、理解できない。だけど、あの夜言われた言葉は、忘れていない。必要としてくれるだけ、人見さんと過ごす。
 人見さんの部屋に着いた。
 早速着替えた。ボタンを留めてもらうのにも慣れた。
「ネックレス、つけてくれてるんだ」と言いながら、チェーンを指でなぞった。
 くすぐったくて首を竦める。
 椅子に座るように言われた。
 人見さんはキャンバスの位置へ行く。わたしを眺めて、戻ってきた。髪を少しだけ、肩の前に流す。
 それから何度かキャンバスとわたしの間を行き来して、部屋から出ていった。スタンドとサイドテーブルを持って戻ってきた。ベッドルームでみた覚えがある。椅子の脇に置いた。また部屋を出ていった。
 手に箱を持っている。中から出てきたのは、大きめの砂時計だった。白い木枠と青い砂が綺麗だった。
「三十分の砂時計。これを置いておけば、ちゃんと休憩を挟めるかなと思ってさ。綺麗でしょう」
 頷く。サイドテーブルに置いた。砂が落ち始める。
「砂時計の括れた場所が今。砂は落ちて、未来は過去になっていく」
 落ちていく青い砂をみていた。
「律、始めるよ。こっちをみて」
 頷いた。
「左手は脚の上に置いて。右手はそのままで」
 キャンバスの前に座ってわたしをみる。
「写真を撮るから、動かないでね」
 思いがけない言葉に緊張した。人見さんは、スマートフォンで写真を撮る。
「位置を記録しとけば楽だから。砂の落ちている量も、いい具合だ。律の人生そのものって感じする」
 人見さんが笑う。
 それからは、静かな時間が続いた。砂が落ちきってしまう前に休憩を挟んでくれる。
 今日は二時間ほどで終わった。
「ごめんね、下絵って言いながら、少し塗ってしまった」
 スーパーに買い物へ行くことになった。
「教習のない日は、晩御飯をお願いできる?」
 車の中で訊かれた。教習も残り少ない。
「レパートリーそれほどないです」
「毎日、うどんでもいい。律が作ったものが食べたい」
 つい、口許が緩む。
「だけど、時々は肉じゃがとか、ハンバーグとかさ」
 それとなくリクエストされた。今日は、買い物をして、ハンバーグを作った。何でも喜んでくれる。明日は、自動車学校に合計で三時間ほどとられる。人見さんからSNSのアカウントを訊かれ、仕方なく教えた。
「ドライブの反応どうだった?」
「結構、『イイね』されました」
 食事がすむと、「律のフォロワーのリスト化をする」と言って帰っていった。
 玄関先まで見送ってため息をついた。思い出せる範囲でも、結構人見さんに関するツイートがある。ため息しかでない。
 しばらくして、SNSからの通知が来た。フォローされた。アルファベットと数字の羅列でよくわからないアカウントだが、多分、人見さんだ。
 一応、プロフィールをみる。女子高生設定になっている。それっぽく何人かフォローしてあった。
 今頃、呟きを遡られていると思うと、消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
 次の日、自動車学校へ行くのに迎えに来てくれた。わたしは目を合わせられない。
「まだ、フォロワーのプロフィールしかみに行ってないよ」
 何を気にしているかわかっているようだ。
 お昼に空き時間があるので、そこで昼食をとる約束をした。授業を受けた。
 人見さんが「スタバ♪」と呟いていた。クリームたっぷりで美味しそうな画像つきだ。
 午前の授業も終わり、近くのスターバックスへ向かう。
 店内をのぞく。こちらに気づいて手をあげた。トレーを持って立ち上がり、片付けている。
 外で待った。
「さっき呟きました?」
「それっぽかった?」と、嬉しそうにしている。
「女子高生は今頃、学校にいると思うんですよ」
 人見さんが失敗したって表情をみせる。
「これだからニートは……。曜日感覚もない。ま、いいや。そんなに人も来ないだろうし」
「何人みたか確認できますよ」
 知らなかったと感心している。
「それよりさ、写真のせたやつ、甘すぎてさ。なんかラーメンが食べたくなったんだ。お昼はそれでいい?」

 午後は路上教習だった。
「考えるの面倒だから、またスタバにいる」と言っていた。
 あと少しで卒業検定が受けられる。自動車学校の車の大きさが精一杯で、人見さんの車を運転できる気はしない。それでも、とにかく、期待に応えたかった。
 終わったので、スタバを覗く。手招きされてなかに入った。人見さんはカウンターまで出てきた。
「何がいい?」
 メニューをみて迷っていると「朝、僕が飲んだやつにしたら?」と言った。甘すぎると言っていたのに、人にすすめるのがおかしくて笑ってしまった。甘いものが好きなので、それでいいと伝えた。
 テーブルに座ると、人見さんは、紙を出した。わたしのフォロワーの名前とアイコン画像が一覧になっている。
「後でデータに落とすけど、どの内容に反応してるか。律の友達だとわかった子は除外してカウントしてある」
 わたしの呟きを分類してある。大学のこと、ギターのこと、友だちのこと、後はブランクで表になっている。リプライ、リツイート、ファボの回数が『正』の字で数えてあった。ブランクは多分、人見さんに関することだ。
「明日さ、最後のバイトに入るでしょう。あの子の来月のシフトを控えてきてくれるかな? バイトに入っている時間帯で配信しよう。それでさらに絞れる」
 頷いた。確かに、来月分だけでもシフトを把握していれば安心できる。だけど、配信する方は気が乗らない。
「今日は目が疲れたから、絵を描くのは無理だな……。そうだ、食事の後、試しに配信してよ」
 そっとため息をつく。
「ギターだけでいいですか?」
「いや、この間と同じメニューにして。知ってる歌のほうがいいからさ」
 配信告知のツイートをみたのだろう。黙っていた。
「こんなにフォロワーいるからさ。結構、頑張ったと思うんだよね」
 紙を手に持って、目の前にぶら下げた。確かに手間のかかる作業だったと思う。
「歌うのは、三曲くらいでいいですか」
「三曲か……わかった、選ぶね。古いやつは結構知ってるからさ」
 まさか、リクエストまでされるとは思っていなかった。
 夕食は、食堂ですませた。
 部屋に帰って配信をさせられた。緊張してミスをたくさんした上に、声も出なかった。『今日、調子悪い?』とコメントされてしまった。
「次からは、家でこっそりみるよ」
 人見さんは帰り際に言った。
 明日は、バイト最終日だ。しなければならないこともある。明日の夕飯はシチューなので、作ってから、早めに休むことにした。

 目覚ましが鳴った。布団から出ると、ひどく冷え込んでいた。いつもなら我慢するのに、エアコンをつけた。なかなか温風が出ない。すぐに布団にもどった。
 着替えて、家を出た。短い距離なのにカイロが欲しいくらいだった。空気の冷たさが違った。
 今日は、田中君に会わずにコンビニに辿り着いた。深夜シフトの人は、ぼんやりとレジカウンターに立っている。
 スタッフルームで一人きりになった。いけないかもしれないと思いながら、来月からのシフト表をスマートフォンで撮影した。スマートフォンをポケットにしまう。ちょうど、田中君が来た。
「おはようございます」
 今日はきちんと挨拶をした。田中君に目を反らされた。避けられる方が、あれこれ言われるよりは気が楽だった。
 先にスタッフルームを出た。深夜バイトの人は、気怠げにこちらをみて頭を下げてきた。後五分ほどで交代だ。店内にお客さんはいない。
 田中君がシフトに入るときは、わたしが駐車場を掃除するような分担になってしまった。一旦スタッフルームにもどって、上着をとることにした。まだ田中君がいる。
「外の掃除へ行くので」
「あっ、俺が行く」
 田中君がロッカーから上着を取り出した。わたしは、頭をさげ、店内に戻ろうと背中をむけた。
「もう、配信してくれないかと思った」
 昨日も来ていたのか。コメントは残さなかったかもしれない。
「へたくそで……すみません」
 少し振り向いて、言った。
「そんなことない」
 田中君はそういって目を反らした。一応、お礼を言った。
 深夜シフトの人が、スタッフルームに入ってきて「あがっていい?」と言った。「すぐに出ます」と、早足でレジカウンターへ向かった。店内にお客さんはいなかった。
 レジカウンターから出て、近くの棚の整理をする。田中君は駐車場を掃除している。震えながら、帰ってきた。
「寒い。雪が降り始めた」
 田中君とすれ違う。頬に冷たい空気を感じ取った。今朝は寒い。人見さんは来てくれるだろうか。寒いのはあまり得意ではなかったはずだ。
 こういう時はおでんが良く出る。中華まんも多めに解凍した方が良いかも知れない。田中君が戻ってきたので、相談した。
「俺は、わかんない」
 確かに早朝のシフトには今まであまり入らなかった。
「好きにしたら? どうせ最後だろ」
 売れ残りが多く出ても、結果はわからない。
 田中君は雑誌のコーナーの方へ歩いて行った。なかなかお客さんは来ない。いつもより少しだけ数を増やすことにした。
 外が明るくなってきた。本当に雪が降っている。自動ドア外のマットの横に、雪が少したまっていた。来た人がその辺りで傘に載った雪を振り落とす。みんな首を縮めていた。出勤途中による人は、ホットドリンクを買っていく。駅まではまだ少し歩かなければならない。冷えたからだを温めるために寄るのだろうか。ある時間を過ぎてから、お客さんがいつもより多くなってきた。忙しさも落ち着いた頃、人見さんが来た。
 上がる時間まであと二十分ほどだ。今日は坂井さんも来る。それに、田中君は少し前と同じような態度に戻ってくれた。気まずさも薄らいできた。
 人見さんは、雑誌コーナーに立っていた。
 もうすぐ上がる時間だ。
 人見さんがわたしのレジに並んだ。順番になりガムを台に置く。
「二十四番」
 一瞬何を言われたかわからなかった。タバコのことだと気づく。
「本気ですか?」
 人見さんは、頷いた。
 取りに行く。願いが叶ったんだろうか。スキャンしてレジをすすめた。お釣りを渡すと、「ありがとう」と言った。
 時間が来た。坂井さんに呼び止められる。田中君は先にスタッフルームに入っていった。
「しばらくここにいたらいいわよ」
 レジ下の整理をするふりをして、坂井さんがいう。田中君は、すぐに着替えて出てきた。
「お疲れ様でした」と声をかけると、田中君はただ頷いた。わたしも上がることにした。
 制服はクリーニングに出すために持ち帰る。
 ここでバイトをしなければ、人見さんと出会うことはなかった。不思議な気持ちがわきおこる。バイトをして本当に良かった。坂井さんたちにお礼を言って、コンビニから出ようとした。
 雪がたくさん降っている。車の上にうっすら積もっていた。
 外で、傘をさした人見さんと、フードを深くかぶった田中君が向き合って話をしている。いったい何が起こったんだろう。
「彼が呼び止めたわよ」
 坂井さんが出てきて教えてくれた。様子を窺っていると、田中君は軽く頭を下げて帰っていった。
 人見さんがこちらを向いた。わたしをみて首をかしげる。こちらへ向かってくる。とにかく外に出た。
「傘がないの?」
 出勤時間には降っていなかった。人見さんが「一緒に入ろう」と言ってくれた。
 並んで歩き始めた。時々腕が触れる。ちょうど信号が赤にかわって立ち止まる。
「今年はもう、雪は降らないと思ってた」
「暖冬って言われてましたね」
 傘を渡された。背の高い人見さんにさすのは、大変だ。
「いいよ」と言って、わたしから少し離れて空を見上げた。横顔をみつめる。目を、閉じている。
 人見さんに雪が降りかかる。頬やまぶたに白い雪はしばらくとどまり、そして溶けて流れはじめる。
 頬を伝う滴が煌めいて胸が締め付けられた。
「名残惜しいな」
 顔に着いた水滴を手で払った。肩に残る雪も落とす。
「冷たかった」
 人見さんに傘を渡すと、わたしが濡れないようにさしかけてくれた。信号が変わりまた歩き始めた。
 帰りながら、田中君と何を話していたのか訊いてみた。
「フォロワーを絞っていくのも、手間がかかるからさ。それに、どこまで効果があるかもわからない。しばらくそっとしておいてって頼んでみた」
 田中君はあっさり了承したらしい。しばらくというのが引っかかる。
「春から留学するらしいよ」
 来月のシフトはわかっている。顔を合わすことはなさそうだ。
「これで絵に集中できる」
 真面目な口調でそう言った。
「乾かしながらでも、順調に行けば二週間くらいで描けるかもしれない」
 ショックだった。そんなに早く描きあがったら、どうなるのだろう。
「絵ができあがった後は、遠出をしたり、律にギターを弾いてもらったり、他のことをたくさんしよう。死んだら困るから、律の助手席も絵の完成後で」
 顔をみた。人見さんは片方の眉を上げた。わたしは、笑顔で頷く。
 マンションに着いた。エレベーターの中で思い出した。
「そういえばタバコ……願掛け叶ったんですか?」
 人見さんは、笑った。
「願掛けは関係ないよ。まだ、叶いかけって感じかな?」
 首をかしげる。
「あれは、やり直したかったんだ。いつも会ってたのに、顔もみず、お礼も言わずいたなんて、どうかしてた」
「出勤途中の人は、普通にそんな感じです」
 人見さんからお礼を言われた。
「本当にそうなんです」
「まあ、いいや。そういうことにしておこう」
 人見さんの家に着いた。
 濡れた髪を拭いている。
「短いと乾くのがはやいから、楽だ」
 最初は、前の髪型の方がよかったと思ったが、今はそうでもない。
 軽く朝食を済ませた。すぐに絵の制作に入る。テーブルの砂時計の位置にテープが貼ってある。砂時計を置いた。砂が落ち始める。
 描かれている間、数メートルは離れている。それでも、キャンバスを擦る音、筆を洗う音、椅子がきしむ音がきこえる。
 デッサンの時よりも、深くみつめられている気がした。
 視線がキャンバスに向かう。パレットの上で絵の具を混ぜはじめた。なかなかこちらをみてくれない。寂しくなる。
 人見さんが顔をあげる。ゆっくりとわたしの方へ顔を向け、目が合う。
 心拍がはやまる。
 喜び。
 そんな単語が浮かぶ。
 幸せはこんな瞬間にも感じられることを知った。
 人見さんがわたしをみている。微笑んだ。その後で唇が動く。何かを言ったけれど、聞き取れなかった。すぐに、絵を描く顔に戻った。
 三時間経つと、人見さんは筆を置く。
 手を洗って、背中のボタンをはずしてくれた。肌に触れた指が冷たかった。わずかに背中を縮める。
「疲れたから少し寝る。また一時間で起こして」
 ギターを取りに行っていいか訊きたかったが、人見さんがつらそうにみえて言い出せなかった。
 ひとまず、着替えた。
 絵はみないように言われている。リビングの壁に持たれてスマートフォンをみていた。SNSをひらく。タイムラインを流していく。少し交流のある相手は、相互フォローになっている。この中に田中君がいるかもしれない。今日は平気になった気がしたが、考えはじめると、怖くなる。本当にそっとしておいてくれるかなんてわからない。それでも人見さんにまかせるしかない。
 エアコンだけでなく床暖房もつけてある。丸くなって転がってみた。肩や頬に温もりが染み込んでくる。気持ちがよかった。
 人見さんと、遠出ができる。 絵を描き終えても、会ってもらえる。少しは希望を持ってもよいのだろうか。目を閉じる。床の温もりが心地よい。
 いろいろな場面でみた人見さんを思い出す。今朝の雪は本当に綺麗だった。何か現実と違うものが混ざった映像が思い浮かんだ。
「律」
 耳元で人見さんの声がきこえた。返事をしたいのに体が動かない。
「律」
 肩を優しく叩かれる。どうも寝てしまったようだ。目を開けようと意識を向ける。ようやく目を開けると、至近距離に人見さんの顔があって心臓がはねあがる。お互い向き合って寝転がっていた。
 人見さんは「床暖房で転がるの病みつきになりそう」と言って、起き上がった。
 ようやく体を起こした。それにしても、あんまり近くに顔があったから、驚いた。座って髪をととのえた。
「起こしてって言ったのに……」
「ごめんなさい」
 突然笑われた。
「頬にいっぱい型がついてる」
 下にしていた方の頬を手で隠した。
 夕飯を食べるため、わたしの家に移動する。日が落ちて冷え込んではいるが、雪はやんでいた。
 マンションのエントランスの明かりが路面の端を照らす。溶けかけた雪と土とが混ざって、シャーベット状だ。
 今日は前もって作ったクリームシチューを温めるだけだった。
「寒い日にぴったりだ」といつもどおり喜んでくれた。
「来週には免許が取れるよね」と確認された。その見込みなので頷いた。
「教習のない日は、もう少し描きたいんだけど、いい?」
「人見さんに合わせます」
「絵の具を乾かす日は、デッサンしてもいい?」
 頷くとお礼を言われた。人見さんが目を細める。ついみとれてしまう。
「スピッツの有名な歌あるでしょう」
 どれのことだろうと思う。
「卒業式でも歌われる」
 見当がついた。
「さびの部分、最初は『奇跡』じゃなくて『痛み』だったんだって」
 歌はあっていたけれど、そのエピソードは知らなかった。母なら知っているんだろうか。
「いつだったか山崎に熱弁されてさ。正直どちらでもいいと思った。今は、どちらもいいと思う」
 その曲の歌詞に思いをめぐらす。出会いは『奇跡』でもあり『痛み』でもある。その通りかもしれない。
「今までね、歌詞なんて本当に自己陶酔が激しくて、一言でいうと『くさい』って思っていた」
 人見さんは、遠くをみるような顔をした。
「目の前にするとうまく伝えられない想いをそれでも伝えたくて、歌は生まれるのかもしれない」
 わたしは、歌が作りたいと、心から思った。零れそうな涙を隠したくて、うつむいた。
「ねえ、人に与えられた時間は、一日二十四時間で平等だって言い方するけど、本当にそうだと思う?」
 うつむいたまま首をかしげた。
「これはさあ、使い方で差が拡がっていくって話なんだけどね。そもそも、寿命だって様々なのに、平等な訳がない」
 わたしは相槌をうった。
「株や通貨の取引に、レバレッジをかけて行うのがあるんだ。レバレッジって『てこの原理』ね。少ない資金を、何倍何十倍にふくらませて運用する。具体的にいうと三十万円の証拠金て名前のお金を預けたら、三倍の九十万円分、株を運用できる」
 何のためにそんなことをするのかがわからなかった。
「律は、運用には興味はないだろうし、理解しなくていいんだけど。そうだな、本当に多くの命を助けたかったら、名医になるより、特効薬を開発した方がいいって話は聞いたことある?」
 顔をあげて、横に振った。人見さんは、真剣な顔をしている。
「どんな凄腕の外科医でも、同時に何百人もの手術はできない」
 わたしは頷いた。
「教育者は、自分の時間にレバレッジをかけられる。それから、クリエーターやアーティストと呼ばれる人も」
 なんとなく、言いたいことがわかってきた。
「モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、作品を作るのに使った時間は数ヵ月かもしれない。その後何百年も残って、星の数ほどの人に聴かれて、その人達の時間を豊かにし続けている。ゴッホやモネのような画家もそう。シェークスピアやドストエフスキーもしかり」
 深く頷いた。
「僕はね、何百年分とは言わない。数十年分でいい。自分の時間にレバレッジをかけたいんだ」と、目を細めてわたしをみつめた。
 だから絵を描くのだろうか。わたしは、歌を作れば、自分の時間にレバレッジがかけられるんだろうか。
 人見さんの言葉が、深く胸にささった。
 わたしは心の底に不思議な火種のようなものを感じ、さらに強く、歌を作りたいと思いはじめた。

 一人になったあと、誰かにギターを聴いてもらいたくて、配信を始めた。ほぼ、無言だった。ただ、指だけを動かした。アルペジオのパターンを思いつくままにひいていく。GからC、D7とコードをおさえ、またGへと戻る。次は同じコード進行で三連符をいれた。そうしているうちに、どこからか、主旋律が流れてきた。
 わたしは音を拾って、ハミングする。
 コメントが増えていく。コインが投げられ、たまっていた。
 ほんの一瞬、弦から指を離し、マウスに手をのばす。三十分延長した。
 それからは、見知らぬ誰かと繋がっていることも忘れ、自分のなかの音を探し続けた。

#創作大賞2024   #恋愛小説部門 #創作大賞2024   #恋愛小説部門 #長編小説 #恋愛小説部門 #切ない #完結 #泣ける

嬉しいです♪