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亀歩当棒録006.与那国島のスーパーレディ(2011年3月)

 「ごめんくださぁーい 」とガラス戸をひけば,カウンターの手前に20代半ばくらいの若者と,それに相対する年配のご婦人の姿が。あっ,この方が!

 与那国島旅行の初日。娘(10歳になった記念の父娘ふたり旅だった)を連れて祖納の集落を散策中に,まず探したのが与那国民俗資料館。私邸の一部が展示室になっていて,室内にところ狭しと民具が陳列されている。この資料館の主宰が大正8年(1919年)生まれの池間苗さんだ。

 ともかく私の与那国への旅の幸運は,空港のせまい待合室で,
 池間苗さんという活字だけで知っている名前の人に遇えたことだった。
 与那国島についての総合的な知識をあたえてくれる書物というのは,
 彼女の亡夫であられる池間栄三氏の『与那国の歴史』一冊きりしかない。

 司馬遼太郎さんが『街道をゆく/沖縄・先島への道』でそう記したのは,昭和49年(1974年/週刊朝日にて連載)のこと。当時すでに苗さんは知る人ぞ知る存在だった。『与那国の歴史』(琉球新報社,1972)は,苗さんの実父・新里和盛さんとご主人・池間栄三さんが残した原稿を苗さんがまとめたもので,与那国島を研究する人間にとっての基礎資料になっている。さらには苗さんご自身も平成10年(1998年)に『与那国ことば辞典』を著して沖縄タイムス出版文化賞受賞と,まさに与那国島の生き字引なのだ。

 「よくぞこんな果ての島においでくださいました」

 苗さんはきれいな東京言葉でそうおっしゃって,まずわたしと娘のためにお茶を淹れてくださった。先客である若者はMくん。沖縄本島の大学院で民俗学を学んでいるそうで,丸2日間かけて苗さんから聞き取りをしているとのことだった(彼のおかげで苗さんの話に適当な間合いで研究者の解説が加わるという,実に贅沢な与那国島講座の時間になった)。

 「こんな田舎だから恥ずかしくて,むかしは那覇の人たちにも自分が与那国出身だなんていえませんでした」

 若き日々の苦心談が滔々と紡ぎだされるのだが,話すリズムが心地よく,適度にユーモア交じりで,こういってはなんだが実に面白かった。引き続いて館内の展示物の説明をしてくださって,それらをひととおり聴き終えた頃にはすでに入館から2時間が経過しようとしていた。

 娘が退屈しているとでも思ったのだろうか,次に苗さんは,

 「与那国の子ども遊びを教えましょう」

とナイフを片手に庭に出て,一見してパイナップルのような樹の葉っぱを切り始めた。植物の名はアダン(阿檀)。それを2枚ほど短冊状に切って折り曲げてゆくと見事な“風車”になった。続いて私,娘,Mくんの3人それぞれが見様見真似で作ってみたが,悔しいことにいちばん上手にできたのは娘だった(さすが現役の子どもには敵わない)。

 そんなこんなで楽しい時間は過ぎてゆき,いよいよお暇の時間に。「与那国の言葉で“ありがとう”は何というのですか?」と尋ねてみたところ,

 「“ふがらさ”といいます」

とのこと。そこですかさず娘と一緒に苗さんに一礼。ふがらさ!

 宿に帰った娘は,苗さんから聴いた与那国語を自分のノートに書き留め,アダンの風車を挟みこむと,大事そうに自宅用の土産にしていた。何だか妙に嬉しかった。

 与那国島を発つ日の朝。僅かな時間を見つけ,ひとりで与那国民俗資料館に向かった。『与那国の歴史』そして『与那国語辞典』(先の『与那国ことば辞典』を全面的に改訂したもので2003年に出版)を購入しておこうと思ったからだ。苗さんはわたしのことを覚えていてくれて,そこでまた一時間ほど話し込んでしまった。

 立ち去る際に「せっかくなので本にサインをいただいてもよろしいですか? 」とお願いすると快く承諾してくれて,わたしの名前,それから

 平成23年3月21日 与那国民俗資料館 池間苗

と、人柄そのもののような矍鑠とした美しい字で書き記してくださった。ワタシ的与那国島旅行のいちばんの土産品に決定。

 一生の宝物にしますね。ふがらさ,苗さん。

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