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ヒーローじゃない15


 アマネの車で宮前家の前まで来ると、音で分かったのか顔を真っ青にした七都子が転がるようにして玄関から出てくる。一旦車を降りて助手席に座るひめのが無事であることを告げると、七都子は涙声で礼を言った。普段は気丈で滅多に動じない彼女がここまで取り乱すのは珍しい。大したことはしていないし、気にしなくて良いと宥めてからひめのを車から降ろす。そしてまた車に乗り込んで家へと帰った。
 自宅である平家に帰る頃にはすっかり夜の帳が下りていた。真っ暗な廊下の電気を手早く点けてから、後ろで靴を脱いでいるチアキの方を振り返る。

「とりあえず、ちゃんと手当するから。ソファに座って、あと服も脱いで」
「えっ?」

 ぴし、とリビングを指差すと分かりやすくチアキが固まる。あの魔獣は毒を持っていない種類のようなので毒抜きは必要ないが、だからといって止血したまま放っておくわけにもいかない。腕から肩にかけて怪我をしているので、服を着られたままでは手当てすることは難しいだろう。という、ごく当たり前の考えに基づいて言っただけなのに、こんな反応が返ってくるとは意外だった。

「何?」
「いや、えっと、大丈夫だよ。手当てなら自分で出来るし」
「そんな場所、自分で包帯巻けないでしょ。そもそも変に腕動かされたら止血した意味がないし」
「それはそうなんだけど……」

 尚も躊躇するチアキにため息を吐きつつ、彼の怪我をしていない方の腕を引っ張ってリビングに入る。ソファに座らせてから、戸棚に置いてあった薬箱を持って隣に座る。しかし彼はそのまま動かず、困った顔でアマネを見下ろしているだけだった。

「ちょっと、早く脱いでよ。治療出来ない」
「あのねアマネさん……男にそういうこと軽々しく言うのは良くないと思う……俺、凄く心配になってきた」
「心配なのは貴方の腕の傷だから。それとも何、脱がせて欲しいとでも言うつもり? 我が儘ね」
「わ、分かった、もう十分! お願いします!」

 焦った様子で手を振って、観念したようにチアキはまず上着を脱ぐ。それから止血の為に締め上げるようにして巻いていた布を取り、長袖のニットから注意深く腕を抜いていく。上着は紺だがニットは白なので、右腕の布は彼の血で真っ赤に染まっている。見た目ほど重症ではないと本人が言っているのでとりあえず信じているが、やせ我慢をしている可能性も拭いきれない。アマネが治療をするのはそれを確かめる為でもある。
 チアキが服を脱いでいる間にガーゼを二枚取り出しそれぞれ清潔な水と消毒液を染み込ませる。魔獣の嘴による怪我だ、念のため傷口は軽く拭っておいた方が良いだろう。

「はい、これで良い?」

 準備を終えたチアキが声をかけてくる。ピンセットで水を含ませた方のガーゼを取りつつ顔を上げた。
 視界にチアキが映る。たったそれだけのことなのに、アマネは目を見開いた。

「え……」

 均整の取れた身体、日頃から鍛えていると一目で分かる筋肉の付き方。誰が見ても、彼はヒーローとしての体躯を持っていた。しかしアマネが絶句した理由はそこではない。
 動揺している理由がなんとなく分かっているのだろう。彼は、だから言ったのに、とでもいうような笑みを浮かべた。

「……アマネさん」
「あ……うん」

 我に返って、ソファに片膝をついてチアキを見下ろす格好に変わる。水を染み込ませたガーゼで傷口を洗い、別に用意したガーゼで消毒し、乾いたガーゼで傷口を覆う。それから包帯で補強すれば完璧だ。
 手当てをしている間は終始無言だった。沈黙が重いとは考えたが、一体何を言えば良いのか分からなかった。
 服の下にあったチアキの肌。そこは無数の傷跡で埋め尽くされていたからだ。
 裂傷、火傷、凍傷、打撲。ざっと見ただけでも傷の原因は一つだけではない。全て治っているようだが、痛々しい痕が数えきれないほど彼の身体に刻まれているのだ。一体どうすればこんなに傷を作れるのか。困惑が頭を渦巻いていたが、疑問自体にはとっくに答えが出ている。彼が傷を作る原因など、一つしか考えられない。

 もう捨てるしかなくなった服を手繰り寄せて、手当てが終わったと判断したらしいチアキが立ち上がろうとする。咄嗟にその腕を掴むと、彼は視線を向けた。しかし、口を開くことはなかった。耳鳴りがしそうな静寂が、二人の間に横たわる。

「……その」

 先に声を発したのはアマネだった。ぺたりとソファに座り直して、次の言葉を探す。
 聞いて良いのか、それとも聞かない方が良いのか。どちらを取っても駄目が気がしてその先の言葉を紡げない。
 胸中で足踏みをしていると、チアキは苦笑して手に持っていた上着を軽く羽織る。秋も深まる季節、流石に上半身裸は寒いだろう。

「……痛くないの」

 結局、言えたのはこれだけだった。俯く視界の端でチアキが頷く。

「そんなに痛くはないよ。手当てして貰ったしね」
「そうじゃなくて……」

 腕に触れる。そういえば上半身どころか腕すらも彼は服でずっと隠していた。山は寒いし、単に防寒の為だと思っていたのだが、どうやら本当の理由は別にあったようだ。
 腕に走る裂傷痕を親指でなぞる。ほんの少しだけ引きつった皮膚がざらりと指先を掠める感覚。
 完治はしている。しかし、漠然とそういう問題ではないような気がした。

「ああいう場所にいると、どうしても仕事はハードになるんだよ」

 まるで他人事のようにチアキが話し出す。穏やかな笑みを浮かべる彼が今何を考えているのか全く分からない。

「一種で、特級で、そうすると、世界で活躍することを求められる。それが、人を魔獣の恐怖から遠ざけられる一番の近道だから」
「でも、こんな傷……尋常じゃない」
「怪我しないような任務なんて、最初から回ってこないんだ。高難度の討伐を捌けるようなヒーローも限られてるから。現地に行って……帰ってくると、いつもどこかに包帯を巻いてた。今日の怪我なんて比にならないくらいね」

 大怪我をすると分かっていて、それでも魔獣と戦って、心も体も疲れ切ってそれでも凱旋した時にはメディアに笑顔を振りまく。民間人の精神的支柱となる。それがどれほど大変なことなのか、アマネには分からない。知らなかったのだ。彼が都心で一体何をしていたのか。上辺の人気に嫉妬して、自分の方が出来るのにと勝手に憤って。とんだ勘違いだ。
 チアキはずっと、誰よりも、ヒーローとして誰かを救い続けていた。

「ごめんなさい……私」

 震える声で謝る。今ならもう分かる、彼がどうして自殺しようとしたのか。
 こんな状態になるまで戦い続けて、平気でいられるわけがない。過酷な仕事と人々からの重圧に耐えきれなくなる時がきっと来る。否、もう彼はとっくに限界を超えていた。だからあの山で命を断とうとしたのだ。
 それなのに、自分勝手な苛つきを理不尽に投げつけて。しかし彼は怒ることも悲しむこともしなかった。ただいつも、ほんの少しだけ困った笑みを浮かべて傍にいた。今まで無神経なことをしていた自分自身が恥ずかしく思える程に。
 狼狽えるアマネにチアキはそっと顔を寄せる。至近距離で銀の目に射抜かれて、ひくりと肩が揺れた。それを咎めるように、チアキに手首を掴まれる。

「同情した?」
「それは……」

 返す言葉にまた迷った。どう答えても彼の何かを傷付けることにしか繋がらないような気がしたからだ。言葉を詰まらせると、手首を掴んでいる方とは反対の手でチアキに頬を撫でられる。
 自分の手よりも随分大きい手のひらは容易に頬を包んでしまえるし、長い指は容易に耳を擽ってしまう。思わず小さな声を上げると、彼は緩く笑う。しかしそれ以上何かすることはせず、呆気なく両手は離れていった。

「駄目だよ、アマネさん。良心につけ込まれて流されちゃ」
「あ……」
「でも嬉しいよ。俺には同情してくれる人すら、もういないからね」

 自嘲的な言葉を置いて、今度こそチアキは自分の部屋へと戻っていく。
 後に残されたアマネは、しかしその場から暫く動けない。滲み出る困惑と訳の分からない焦燥が、内で渦巻いてどうしたら良いのか分からないのだ。
 それを更に加速させるように、彼に触れられた場所は今もほんのりと熱を帯びていた。


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