解像度をあげたり、さげたり、
こんにちは。あゆみ/ayumimuです。
さっそくのpcpです〜。
(完璧主義な私のための、完璧じゃなくていい、短めコラムシリーズ)
コラボ
今noteで出会った仲間とつくったクリエイターチーム「マジックパフェ」で、いわゆる"コラボ"がいくつも発生しています。
歌詞を書く人、曲をつける人、イラストをつける人。文章を書く人、朗読する人、歌う人、踊る人、映像にする人。
今のところそんな感じなんですけど、いや、これは面白いですね。
ずーーーーっと昔、表現について考えていたことをふと思い出しました....。
表現の次元を、あげたり、さげたり
表現って「あわらす」に「あわらす」が重なっている。
そこにないものを、あるようにすること。
いや、ないわけじゃない。すでにある。
私たちの胸の中にはすでにある。
それを注意深く、あるいは大胆に取り出して、あるようにする。可視化する。
言葉になって、文章になって、詩歌になって、小説になって、
これが線。一次元。
絵になって、写真になって、グラフィックになって、
これが面。二次元。
人になって、オブジェクトができて、
これが立体。三次元。
動きがついて、音楽もついて、演劇になって、映像になって、映画になって
三次元のさらなるリッチバージョン。
短歌を読んで、そのエピソードを絵にしてみたり、写真を見て、感じることで詩を書いてみたり。その表現の次元をあげたり、さげたり。私たちは、自在にできる。
私たちの胸の内にあるものを、いろんな角度から表現してみたい。
解像度を、あげたり、さげたり
なお、表現の次元と解像度の高さは比例しない。
解像度という言葉は、「見えなかったもの」を可視化する(表現する)プロセスでどれだけ細かく再現するか、というイメージで使っている。
いつどこで誰が何をしてどう思って何と発言してそしてその際同じ部屋では云々....... その細かな情報をどこまで入れるのかということだ。
さて、表現の解像度が高くなればなるほど、受け手側の想像できる余白は狭くなる。
解像度が低ければ低いほど、読み手がクリエイティブにならざるを得ない。このバランスは、面白い。
表現の次元が上がるにつれ、その内容の解像度も高くなることは多いと、つまり詩よりも写真、写真よりも映画がより精緻な表現だと、昔は思っていた。
しかし、緻密に書き尽くされた小説と抽象画、ないしはたとえばセリフを一切排除した前衛スタイルな映画、どれが受け手の想像の余白が多いだろう?表現の次元とは逆になると思うのだ。
なので、表現の次元と解像度の高さは比例しない。
エモと解像度
結局のところ、物語は作り手が作るのだろうか、読み手だろうか。
作り手によって存在させられたその物語は一度、凍結される。その後、読み手が解凍し、補完しながら読み終えることで完成させるものかもしれない。
エモという言葉がはびこって久しい。
エモいとは何か。一言で言えば「追体験」ということらしい。エモのものさしで見れば、受け手にとってちょうどよい追体験ができればできるほど、最高ということになる。
書き手がどこまで書くか。読み手にどこまで補完してもらうか(させてあげるか)。そのバランスは、自由に調整して良いはずだ。
さて、どんな次元で、どのくらいまで、作り込もうかな。
いろんな表現、余白も含めて楽しみたいね。
* * *
そんなことを書いてたら。こんなコンテストが始まってるじゃないですか!偶然ですよ。シンクロニシティ。
気持ち/人への想い/葛藤/心象を、解像度の高い言葉でうまく表現した作品
解像度は、高くね!書けたら書いてみよう。読んでくださったみなさんも、よかったらぜひ。
それにしても綺麗な(好みの)アメジストだなあ。。。
<あとがき>
pcpなのに〜〜!結局長いじゃん〜〜!! 1600字!
しかも抽象的な話でちょっと大変だった。。みなさま、お疲れ様でした!
次は1000字以内目標です。
誰でも「スキ(♡)」できます。「読んだよ」って軽い気持ちで押してくれたら嬉しいです^^ サポートはnoteを書くカフェ代に使わせていただきます。ありがとうございます。