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もしかして、稼がなくてもいいんじゃない?

実家に帰ってしばらく寄生しようと思っている。

これは、そんな私の自己弁明かつ拡大解釈を展開するnote。興味のある方だけ読んでほしい。ちなみに私はハンドメイドアクセサリー作家の個人事業主(実質ほぼ無職)最近パートナーと別れそのうちに家を失う30代女性で、転職活動に手を出すものの、志望理由を書くうちにやる気を失ってしまった。心身はたぶんかなり健康だ。noteを書いたりnoteユーザー向けの非公式イベントの活動は着々と進めている。

何ともふざけた話だな...  ←もう一人の私からのツッコミ


以前、「もしも、世界中の全員が好きなことだけやっていたら」(世界はうまくいくはずである)というnoteを書いたことがある。4年前のこの文章は今でも私の中で最高傑作なので、良かったらあとでぜひ読んで欲しい。

その続きというか、少し角度を変えた話でもあると思う。


上記noteには「お金がなくても(世界は回るだろう)」という視点が入っている。この"お金が存在しない社会"を想像するのは私もまだ難しい。だってキャッシュレスでもマネーはあるし、評価経済だって"評価"はあるわけだし。じゃあ根本は同じだろう。

"お金が存在しない社会"よりも、"お金が存在しない個人"の方がまだ想像できる。考えてみれば、私は個人であって社会ではない。もしお金が存在しない個人が成り立つんだったら、別に社会にお金があっても私にお金がなくっても別にいいじゃん。

なんでこんな話をしているかというと。

どこからか「もしかして、稼がなくてもいいんじゃない?」というアホなタイトルが浮かんでしまった。頭がおかしくなった可能性もあるから、理解不能と思ったらどうか責めずに見逃して欲しい。


好きなことで、生きていく?

またこの話である。もう何度もしている。私だけではない。好きなことをしていたいがそれだけでは生活できない。みんなこんな話ばっかりしている。

「生きていく」とは呼吸ではなく稼ぐことを指しているようだ。

私自身は、土日休みの会社員だった時は経済的には成り立ち「私の好きなことってなんだろうな?好きなこと見つかったら辞めよう」なんて悠長なことを思っていた。(結局「自由に生きよう」的な風潮、思想に影響を受けて勢いで辞めた。)

無職やら起業やらするようになってからは、確かに好きなことを好き勝手やっている代わりに、一時期事業収入があった時代を除けば、経済的にほとんど成り立っていなかった。成り立っていない時は貯金や借りたお金を切り崩していた。

会社を辞めたあとの私を総括すると、好きなことで生きていけなかった。

それでも。
好きなことはした。

好きなことで生きていきたい社会人の大多数、実は「好きなことをする」ことすら本気でやってないんじゃないの? そんなことを胸の中でつぶやいて自分を正当化し続けている。だって私だってそうだった。生きる(稼ぐ)を取って好きなこと(に気づく)ことを捨てていた。


今の私の懐事情

労働契約をかわして働いている人、ちゃんと自営業で利益が出ている人には私のようなプー太郎がいったいどうやって生きているのか興味があるかもしれないから、すこし公開しておきます。

最近の私は、私のお店"ひかりのいしむろ"の天然石ペンダントの売り上げ約数万円、9月にひかりのいしむろの挑戦にいただいたみなさんからのサポート約8万円、数年前に払ったリノベーション会社からの突然の返金10万円(この連絡には心底びっくりした)、などで必要最低限を支払っている。ただし家賃はもう数ヶ月払っていない。元パートナーがなんとかしてくれることになったので、その半分を出世払いにしてもらうことになっている。クレジットカードは滞納により強制的に任意解約され(こういう仕組みになっているらしい)リボ払い返済に回され、毎月少しずつ払う予定。

しかしnoteのサポートで8万円って... すごい金額をいただいてしまっている。noteではなく口座に直接いただいたものを合わせると10万円を超える。

天然石アクセサリーの材料費もここから支払わせていただいていて、この石についてはひかむろ日誌の方で活動報告をしていく予定だが、材料費は10万円のうち一部であり、他は私の生活費にさせていただいた。本当にありがとうございます。この石たちはゆっくりでも、いつか作品にしていきたいと思っています。

ともかくきっちり働いていた時と比べると意味不明な収支になっている。そして、今後もしばらくこの不安定感に乗り続けようと思う。


本当に全員が稼がないといけない?

そこにある親のお金で生活するのはいけないことだろうか、夫(妻)のお金で好きなことをするのは咎められることだろうか。

自分自身で稼がずとも、周りの人が稼いでいて、私を生活させてくれたらそれでいいんじゃないの?もちろんそれが迷惑だったら断ってもらっていい、でももし協力を得られるんだったら、得てもいいんじゃないの。

人生は有限で、私はわがままで欲張りだ。社会人としてのプライドも親を安心させたい気持ちも、今はいったんどこかに放り投げよう。



いったん自分で生計を立てることは諦める

いったん諦める。で、生計を考えず好きにやる。そのあと何かの流れでうまくいくはずだと思う。その流れに任せることにした。

目的もなくモノを買い漁ったりしたいわけではない。ただ、その日食べて寝て書きたいものを書いて読みたいものを読んで、人と交流して、企画して実行して...稼ぎもせずに。普通は許されないだろうことを続けようとしている。

私の親は小金持ちで大人になった子どもを一時的に食べさせるくらいのことは普通にできてしまうし、私が困っているといえば助けてくれるだろう。これはむしろ親御さんへ仕送りをしているような方がいると思うと大変言いづらいことだが、人にはいろいろな持ち札があるはずだから、私の持ち札として今使う。もし、私に親がいなければ生活保護や友達に頼ろうと思う。

そして、私の体が健康であること。これもまた心身に不調を抱える人のことを思うと、私が持たざる者だとはもう全く言えない。私は私の健康という資産を今後もフルで活用しようと思う。



稼いでいない創作物たち

一銭にもなっていない、小説、エッセイ、詩、イラスト。

これらは無駄だろうか?

これを読んでいる人で、この問いに頷く人は一人もいないだろう。私ももちろん、逆に尊いと思っている。改めて強調することですらない。

お金のために書かれていない。その純粋性に勝るものはない。

お金を稼いでいる創作物を否定したいわけではない。もしかすると単なる稼げない負け犬のルサンチマンである可能性だってあるけれど、もし仮にそうだったとしても"稼いでいない創作物をつくる人"をどうして邪険にできるだろう。その尊さには変わりがない。

”稼いでいない創作物”を作っている人に、いったいどうやって生活しろというのだろう? 創作し続けてはいけないということなの?

結局、その疑問に突き当たる。


創作や表現で食っていこうとしている人たちが、それがなんとか実現できればいいと思っていたけれど、そもそもの前提が違う可能性に気づいた。


そもそも....

「もしかして、稼がなくてもいいんじゃない?」

それは、"文章で稼がなくても"ではない。生活全体として他の仕事をしながら稼がなくてもいいんじゃない、と思っている。私のように親に頼れる環境がない人に対してはうまく答えられない。でも、そう思っている。

結果的に創作や好きなことで稼ぐようなことはあると思うし、それを目指して成功できる人のことを否定したいわけではない。

でも、前提として「全員が(健康である限りは)自分一人の生活費を稼がないければならない。」これは疑ってもいいのではないか。


そう思っている。



私は、小説家志望でもエッセイスト志望でもないけれど、自分の生き方をまだ模索したいやっかいな人間だから、自分で稼ぐより好きなことを取ろう。

都合よく、それもまた一人のクリエイターの生き方ってことにしておこう。



***


ちなみにこれだけ書きながらまだ親には相談していないので、親が私のお願いを受け入れてくれなかったら旅にでも出るか、ルームシェアにもぐりこむか、何かしようと思っています。また何か進んだら書きます。

冒頭に引用したnoteを貼っておきます。良かったら読んでみてください。


こちらのマガジンで、私や他のnoterさんの表現・創作・クリエイター等についてのnoteをこっそり集めています。これからもこっそり集めます。


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