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承認欲求と依存は何も悪くない

恋愛に少し困ったときに必ず出てくる単語「承認欲求」と「依存」

僕はこの言葉たちが悪い意味でしか使われないことにすごく違和感があります。

誰かに認められたい、好きな人に依存してしまう。

こんなの当たり前じゃありません?

そりゃ自分のしたことで誰かに褒められたら嬉しいし、好きな人とは一緒に居たいものだと思うんです。

それが過度になると確かに良くない。それを表現するための言葉として「承認欲求」と「依存」があるとは思います。

ただ誰かに認められたくて、褒めてもらいたくて何かを始めて、それがきっかけで人生変わったら立派な動機に変わります。

僕が「書く」というのが好きになったきっかけも今思えば、授業で書いた作文が学級新聞に載った嬉しさが始まりです。
そこから「バクマン。」にハマって漫画家になろうとして何かを作る楽しさを知って、右往左往して今があります。

もし人生が変わらなくても新しいことを始めるのにそういったものがあるだけで始めやすくなるのは確かです。

モテたいからオシャレをする。モテたいから髪型を変える。

これも立派な承認欲求です。

誰かに認められたくて、自分を傷付けて、自分を見失って色んな人に迷惑をかける。
これは確かに承認欲求に操られていて、恐らくほとんどの人が想像する承認欲求という言葉を使い方だと思います。

好きな人のことを1日思い浮かべるのはただの恋でも、そこからストーカーをしたり、相手に不快や、嫌な気持ちをさせてしまうけど止まらないのは依存の行き過ぎたものだと思います。

ただこの言葉に縛らすぎて、事あることに「これって承認欲求の塊だ、これって依存だから良くないとか」これらの言葉に依存して過度に萎縮するのもまたもったいないです。

「もっと私を見て!!」
これは主張です。

承認欲求とは主張です。
何も悪くないし、僕も含め若いと言われてる人に足りないとされているものです。

あれも大好き、これも大好き。
たくさんの依存先を持っていれば人生これ以上に幸せなことはありません。

何も依存は人だけではないので、趣味や生きがいになるものもいわば依存です。

言葉にすることは感情の整理にもなりますが、こういう言葉自体に縛られて、苦しむのは本末転倒だと思います。

もっと気楽に、そしてもっと言葉の解釈を大きく持てるようなると生きやすいなあと、ふと思いました。

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