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内海くん

二年の片思いは長いのか?調べてみたら割と普通らしい。
 
私の普通の片思いは普通に潰えたのかというと、存外普通じゃない気もする。これから綴るのは掌編の記憶の記録の恋話譚。
 
遡ること青き日々、恋も華やぐ女学生たるワタシは一人の男子学生に恋をした。ブルーエポックのハムレット、名前は『内海くん』私と同い年である。孤独を好み知己に富む、健全な青少年とは一線を画する剣呑な思想家、神童・内海くん…それが私の見立てだった。
 
最初の出会いは私のナンパだ。彼は携帯を持たず、時代錯誤な文通が始まる。彼の言葉のチョイスや議題の選定はおよそ高校生とは思えぬ大人びたもので、私は彼の知性に見合うよう、駆け足で勉学に励んだ。彼との文通がなければ私はシェイクスピアにもニーチェにも生涯触れる事は無かったろう。
 
『演繹的な思想の拡充、それが学徒の勉めだ。文化的遺伝子の知覚が僕等の未来の養分となる。個性は、選択し、水をまき、はじめて発芽するものだと僕は思う』
 
よく分からないながら彼の文面には毎度感心していた。私は自身の文筆欲をへし折り、彼の文才に生涯を捧げたいと思うまでに至っていた。この時点で少しヤバい。手紙のやり取りの最中私は彼の進学先を聞き出し、追いかけるように同じ大学に入学した。半ばストーカーである。
 
大学生活、学部も違い彼と直接会える機会はそう無かった。下宿暮らしを始めた内海くんが、飢えた女学生に騙され手籠めにされたりしないだろうか…という不安は無かった。彼は誰かに影響を受ける類ではない。それに彼は同年代の殆ど全ての人間を見下していた。それは恐らく、私を含めて。そんな彼が大学生活を軒並みに謳歌できるとは思っていなかったから。内海くんは内海くんのまま、孤独に成長していくのだ、心配はいらない…でもそれは結局私の願望だった。
 
入学して一年も経とうとする頃、内海くんの環境に変化が見られた。内海くんが友達を作っていたのである。私はかなりショックを受けた。そこら辺の少年の様に、くだらない議題で笑い合っている、あの内海くんが!…その場を目撃した私を、内海くんも目撃していた。深淵を覗くときは何とやらだ。それから、二人の関係は少し曖昧になった気がする。
 
それから数か月後、内海くんは唐突に筆を置いた。『僕は二度と指先から言葉を綴らない宣言』をしたのだ。私との文通を辞めたいなら、そう言えばいいのに。その宣言が内海くんの優しさかどうか、私には判断できなかった。でも物事の本質は私の想像とは大きく違ったらしい。彼が最後に私に送った手紙、それは遺書だったのだ。
 
ここからは私が内海くんと最後に会った日の視点をミクロに記していく。その方がきっと、私の認識も明確になるから。それは内海くんとの文通が途切れ四か月後、内海くんと出会って二年と二ヶ月が過ぎたある日の出来事。
 
 
「香川、講堂前行ける?」
「今ですか?」
「喧嘩だって、写真撮って来て」
「行く頃には終わってますよ」
「それが結構泥沼の修羅場らしい。ダッシュダッシュ!」
出版サークルの代表からの電話だった。取材を終えた私がお高いカメラを持ってるのを知って連絡してきたのだろう。ゴシップ好きな学生に低俗な学内情報誌を提供するのが私のサークルの業務だ。全く嫌になる…素直に言うことを聞く自分に。
 
私が駆けつける頃には警備員や教職員が事態の終息に当たっている頃だった。ほら間に合わなかった…一先ず喧騒の写真でも収めておくか。シャッターに指をかけた時、喧嘩の当事者と思しき男が目に入った。ラッキーと思いフォーカスをあてる。その男の衣服はボロボロで顔中が赤黒く腫れあがっている。痛々しいな…それでも私はシャッターを切る。
 
内海くんだった。
 
涙を拭う手が目元を覆い即座に気付けなかったが、それはまごうこと無き内海くんの姿だ。内海くんが喧嘩?どうして?
 
「内海!謝れ!泣いてんじゃねえぞ!」
 
喧嘩相手と思しき男が声を上げる。彼の剣幕は凄まじいものだった。警備員が二人掛りでやっと抑え込んでいる。内海くんは何も返事をせず、子どものように泣いている。私は思わず駆け寄ってしまった。「内海くん、どうしたの」
 
内海くんは最初私が誰だか分からないようだった。凝らした目で私に気付くと、彼は泣きながら鼻で笑った。「ほんと、間が悪いよね、香川さんて…」
 
それだけ言い残し、内海くんは教員に保険センターに連れていかれた。取り残された喧騒は散り散りになり、喧嘩相手の男も教員にどこかに連れていかれた。私は近場の学生に声をかける。
「何があったの?」
「え、知らない。多分、痴情のもつれ?」
 
その後色んな人に質問を重ね凡その概要を把握した。内海くんはどうやら喧嘩をした男の恋人と関係を持ち、その女性の妊娠が発覚し不貞が露になったらしい。男が問い詰め口論になってた頃、見物人の女性の一人が「私の友達も内海くんと関係を持ってるらしいけど…結局どっちなの?ヤリ散らかしてんじゃねーぞ」と食って掛かり、男は我を忘れ内海くんとの暴力沙汰に発展した。
 
思うところは色々ある。それはもう色々あるが、今は一先ず内海くんと直接言葉を交わすべきだと思い、保健センターに赴いた。デリケートな問題なので、また後日と取り合ってもらえず、それでも引かない私に受付は内海くん本人に確認を取ってくれた。しかし本人の口から「会いたくない」と言われたらしく、私は引き下がる事にした。
 
保健センターの裏口で、私は三時間待った。夕暮れ時、カラスの鳴く頃、内海くんが現れた。内海くんは私を見やり、賭けに負けた…そんな顔をした。
 
「君、やっぱストーカーの才能あるよ」
「ありがとう」
「病院行きたいんだけど。鼻折れてるって」
「後にすれば?」
 
それから私は内海くんと言葉を交わす。嘗てないほど膨大な言葉を。口火を切ったのは内海くんだ。
 
「聞いた?」
「諸々聞いたよ」
「失望した?」
「かなり」
「そうだよねぇ」
「そのキャラは何?」
「何って?」
「どっち?わたし用の偏屈くんか、友達用の爽やかくんか…それともさっきの泣き虫くんか」
「あぁ、どれだろ」
「色々聞きたいことがるんだけど」
「うん」
「逆に言いたいことは無い?」
「言いたいこと?そうだな…」
 
沈黙
 
「僕は、高野悦子になりたかったんだ」
「誰それ」
「僕がいなくなった時、香川さんが僕を高野悦子にしてくれると思ってた。マックス・ブロートみたいに。でも、結局勇気が無かったんだなぁ」
「私にわかる言葉で喋ってよ」
「ええと…はじめて会った時、僕緊張してたんだ。あんな少女漫画みたいな展開あるんだなって。だって、のっけから僕を好きでいてくれる人に、僕は生まれてこの方会ったことが無かったから。だから、これは失敗できないな、とも思ったし、応えなきゃ、とも思った」
「うん」
「でも、同じ大学まで来るとは思わなくて…嫌じゃなかった、でも距離感を見失った。香川さんとじゃなくて、僕自身への距離感を。それで色々…自分が分からなくなった。……。うん」
「……おわり?」
「うん」
「それだけ?」
「あー…香川さんが僕に現代音楽について教えてくれたことあったよね。あれから少し焦った。あ、香川さんはもう僕に無い知識を持ってるんだなって。どんどん知性を身に着けていく香川さんが、何だか怖かった」
「それで?」
「香川さんとの関係が怖くなった。僕自身、香川さんと関わっていくと、自分がどんどん俗っぽくなっていくような気がして…ごめん、これは言い方が悪い。多分香川さんが僕から何かしらの影響を受けたように、僕も香川さんから影響を受けてたんだ」
「悪影響だったんだ」
「違う、それは断じて。違うと思う。それは思春期特有のものかもしれないし、子どもから大人になる時期だったって話かもしれない。ただ僕は、とにかく、逃げ出すようになった。これが今の僕だ。ごめん」
 
沈黙。
 
「満足した?」
「満足した」
「じゃあ、よかった」
「聞かないの?いや、もう聞いたんだろうけど」
「どっちの子供なの?」
「知らない」
「どうするの」
「どうしよう」
「どうしたいとかないの」
「…思ったことはある」
「何?」
「大切なのは結果じゃなくて、物事が価値を変える瞬間なんだって。僕の価値観はまた変わった。変わる事が出来た。そのことに少し、喜びも感じてる」
「内海くんて、糞野郎だよね」
「うん。同時に、僕は泣くほどに怖い。どうしていいかわからない。それこそ死んじゃうほど怖い。こんな怖いことはきっと今生無い。僕は今恐怖そのものだ。怖い」
 
内海くんは泣き出した。惨めで、震えていて、情けない姿で、普通の男の子のように。当然だ。だって内海くんは、普通の男の子なのだ。
 
「……香川さん、僕を助けてくれる?」
「助ける?」
「絶望してる僕に、手を差し伸べてくれる?」
 
沈黙
 
「香川さん、僕が好きだよね」
 
内海くんは傷だらけの手を差し出す。
 
「僕を、助けてください」
「助けない」
 
沈黙。内海くんはその掌を見つめ、茫洋とした空を仰いだ。私も顔を上げる。茜色の滲んだ景色に、カラスの声が響いた。カラスって、本当に「あほー」って鳴くんだ…そう思うと、少し笑えて来た。微笑む私に内海くんは口を開く。それが内海くんが私に送る最後の言葉だ。中空に文字を書くように、穏やかに彼は言った。
 
「ありがとう」
 
そして内海くんは私の人生から姿を消した。
 
騒動の相手は卒業後結婚、出産したらしい。誰の子どもなのか、私には知る由もない。
 
あの時『助ける』と口にしたら。手を差し出していたら、未来は違ったかもしれない。私の隣には内海くんがいて、内海くんの隣には私がいる。そんな物語も生まれたかもしれない。でも私は過去をやり直せても、結局同じ答えを選ぶだろう。
 
それが、私と内海くんの恋話譚だ。


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