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責任の一端が欲しかった

兄がピアノ教室を開講するに当たり、隣人宅の西岡母娘が挨拶に来た。

兄が引きこもって二年、俺以外の人と対面するのはこれで二度目だ。この機会に兄は伸ばした髪を自分で切り揃え、奇妙なお河童頭になった。変態性は残るが、少なくとも清潔感はある。二人をリビングに案内し、レッスンについて大まかな取り決めを行った。レッスンのカリキュラム、受講日、受講料の諸々を。西岡瑞樹の母が尋ねた。

「レッスンは、先生宅で行いますか?」
「お宅にあるピアノをお伺いしても?」

俺はすかさず口を挟んだ。この点だけは口出しをすると決めていた。

「種類ですか?ヤマハです」
「グランド?それともアップですか?」

どういう訳か、彼女は俺の質問が理解出来ないようだった。娘の瑞樹が口を挟む。

「アップライトです」
「でしたら兄のピアノを使う方が良いでしょう。最近調律したばかりのアトラスのグランドピアノ、良い代物です。ああ、ですが…年端もいかないお子さんを隣家にやるのはやはり不安ですよね?」

ここは敢えて食い下がる。

「いえそんな、滅相も無いです」
「いえ、当然の考えです。不安ならお母さまも同伴して構いません。いいよね?」
「え、それは、勿論」

兄は戸惑っていた。恐らく、俺が急に場を回しだしたことに。娘の瑞樹は不満そうな顔をしてる。当然だ、思春期の女の子が母同伴でレッスンなんて嫌だろう。

「でも、それじゃあ瑞樹さんが集中できないか。う~ん、どうしようかな」

俺は悩むふりをふる。瑞樹の母は取り繕う。

「あの、全くお気になさらず、何も不安はありません。お二人の人柄は信頼してます。どうぞ娘をよろしくお願い致します」

受講料は一コマ2000円、二時間制、週に一度、俺達の家で行うことに取りまとまった。二人を見送った後、兄は俺に言った。

「俺、別にどっちでもよかったけど」
「大きな一歩って危険じゃん」
「というと?」
「例えば、登山は歩幅を小さく歩かないといけない。早く頂上に着こうと焦って大股で歩くと怪我や事故に繋がりやすい。だから、アンダンテに」
「へ~」

沈黙。兄は少し寂しそうな顔をしている。多分、俺はまた余計な事をした。兄の意思を尊重すべきと考えておきながら、また自分の考えを押し通した。何故か。『責任の一端が欲しかったから』だ。

兄の社会復帰を妨げるものは何だろう?考えないことにした。

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