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人は勝手に幸福になる

誰かの幸福を願うことが、誰かを傷付けるなら。
何も願わない事だ。俺はそう思った。
 
母は厳格な指導者だった。自身の幸福論を翳し、兄の青春をピアノで満たした。母のエゴを兄が一身に受けたお陰で、俺は自由を謳歌して生きていた。父はこの家を逃げ出した。歪な家庭に嫌気が差したのか、父なりの愛情故の思惑があったのか、結局のところ分からない。
 
そして俺は両親と同じ轍を踏んだ。独りよがりな幸福論を翳し兄の人生を台無しにした。兄に引きこもる事が出来る環境を与え、二年の隠遁生活を送らせた。俺は己の罪悪感を拭うための贖罪に兄の不幸を利用していたのだ。『兄の不幸の原因は全て俺にある』単純な事実に気付いた俺は、兄の人生から姿を消した。
 
その決断は間違ってなかったと、今日、兄の演奏を聴いて確信した。誰かの策略で俺と兄は再会した。ピアノラウンジで、兄はピアニストとして、俺は観客として。俺がいなくなった途端、兄の人生は華々しく回転しだした。二年ぶりに外に出て、見事な演奏を披露し、けたたましい拍手を浴びる。兄が享受すべき幸福がそこにあった。
 
演奏を終えた兄が俺のもとに歩いて来る。これから交わす会話を、兄との最後の思い出にしよう。最初に口を開いたのは兄の方だ。
 
「おひさ。元気?」
「うん。ヒッキー卒業おめでとう」
「あざっす。ちゃんと飯食ってる?」
「それ俺の台詞だよ」
「いやあ、どうでしたか俺の演奏は」
「前の奏者の方がよかったな」
「あれ、そお?」
 
酔っぱらった観客の一人が兄に声を掛けてきた。
 
「なあ、リクエストお願い」
「無理っす。腱鞘炎です」
「嘘つくなよ。オズのあれ、レインボー」
「あのぉ、ちょっと今大事なとこなんで…」
「いいじゃん、弾いてあげなよ」
 
俺は口を挟んだ。
 
「え?じゃあ、少しだけ…いいですか?」
 
店長は頷いた。空間が拍手に包まれ、次々にリクエストの声があがる。大した人気者だ。
 
「悪い、ちょっと待ってて」
「うん」
 
演奏に向かう兄の背中に声をかける。
 
「あのさ」
「ん?」
「兄貴は良いピアニストだと思うよ。誰よりも」
「今気付いたの?」
 
店内は温かい感嘆に溢れ、兄はバツが悪そうに笑う。そして煽情的に弾き出した。『Over
the Rainbow』いい演奏だ。この様子じゃ終電までは帰して貰えないだろう。兄の演奏を求める人々がいて、兄がそれに応えている。兄のあるべき姿がここにあった。細やかだが、十分満足だ。俺はお代を払い、店を後にした。
 
夜だ。
 
景色はすっかり暗くなっていた。夜風が冷たく頬を撫でる。時間を確かめに腕時計を眺めた。その時気付いたが、俺の手は痩せこけて老人の様になっていた。甲の骨が浮き上がっている。三十代を目前に、急に身体の老いを実感した。口の中にはウイスキーの香りが残っている。思えば味覚や嗅覚を随分久しぶりに感じた気がする。寒空の下、俺は俺自身の生命を実感していた。
 
歩き出した足取りは思いの外覚束無かった。体力の低下が原因だろうか、呼吸も荒かった。もしかしたら栄養失調が原因かもな、久しぶりのアルコールのせいかもしれない。漠然と俺の思考は巡り出した。
 
俺達家族はその在り方に失敗した。でも最悪な結末は避ける事が出来たんじゃないだろうか。家族を毛嫌いしていた俺も結局は家族愛という信仰に寄りかかっていた。ある共同体の中に幸福が生まれ得ないのなら、その枠の外で独りの個人が、独りの個人なりの幸福を享受するしかないのだ。俺という楔から解き放たれ兄は自由になった。同時に俺も家族という楔から自由になったのだ。
 
誰かの幸福を願うことが、誰かを傷付けるなら。何も願わない事だ。人は勝手に幸福になるのだから。人は勝手にしか、幸福になれないのだから。
 
独りよがりで厭世的な結論かもしれない。でもあながち的外れじゃ無い気もする。消えてゆく白い吐息を追い、夜空を眺めてみる。それは深い闇だった。これが俺が享受する自由らしい。
 
兄は、きっと幸福になれる。
俺は俺で、自由を謳歌する。
これが最低な家族が行き着いた結末だ。
悪くないんじゃないかな。
 

……俺は踏切を前に立ち止まった。
 

……。

 
「お客さん、忘れ物ですよ」
 
不意に声をかけられた。振り返ると、そこには息を弾ませた兄がいた。
 
「…あれ、演奏は?」
「やめてきた。いやぁ、中年ヒッキーにダッシュはキツイね」
「は?何やってんの」
「忘れ物を届けに」
「忘れ物って」
「…なんだっけ?…いや、言い忘れたことはちゃんとあるのよ」
「なに」
「まじで…今まで迷惑かけてごめん。ありがとう」
「……それ俺の台詞じゃん」
「あ、そうなの?」
「うん」
 
……確かに、これは俺の忘れ物だ。
 
「本当にごめん。今までありがとう」
「……え、何で?」
「いや何でって何だよ」
「あぁ、うん。何か色々言う事考えてたんだけど忘れちゃった」
「お前が忘れてんじゃねえか。早く戻れよ」
「いいんだよ、もう。いや、多分、勘違いだったらごめんだけど、今から、色々言うけどさ、いい?」
 
俺は少し緊張した。それでも頷く。
 
「俺、お袋の事嫌いじゃないのよ」
「……」
「親父の事も、全然。だからさ、お前も、無理矢理悪く思わなくていいと思う」
「どういうこと?」
「お前にとっていい母親で、お前にとっていい父親だったなら、二人の事を嫌いにならないでいいと思う」
 
……そんな風に考えたことは無かった。
 
「あと…正直言うとさ、俺ピアノ好きじゃないのよ」
 
……え?
 
「…じゃあ…だとしたら…俺が今までやって来た事って何だったの」
「あ、それ考えちゃう?」
 
当然だ。その前提が崩れたら俺が兄にしてきた事の全ては…。
 
「いや、最低じゃん俺。とんだ空回り糞野郎じゃん」
「ははは」
「何が面白いの」
「いや、良いパワーワードだなぁって」
「ヘラヘラしてんじゃねぇよ、怒れよ俺に!」
 
俺は生まれてはじめて兄に怒鳴った。自分勝手な自己嫌悪の憤怒を兄にあてつける。最後の最後まで、結局自らの手で兄を傷付けてしまう。それが俺という人間らしい。兄は俺に怒鳴られて…何故だか嬉しそうだった。
 
「いやぁ、ピアノそのものは別に好きじゃないんだけどさ。好きなピアノもあるのよ」
「なんだよそれ」
「知りたい?」
 
俺は睨みつける。兄は深呼吸した。
 
「…俺さ、お前が好きでいてくれる俺のピアノが、すげえ好きなの。俺の演奏をお前が聴いてくれる、その時だけ、俺は確かな幸せを感じる。ピアノやってて、この家族に生まれて良かったって思う」

遮断機が、音を立てて降りてきた。

「…あれ、俺のピアノ嫌い?」
「好きだよ」
「もはや生き甲斐でしょ」
「かもね」
「つまりさ、俺達二人の間で幸福のサイクルってもう完成されてる訳。天才じゃない?」
「なんだそれ」
「だからさ…」

電車が轟音を立てて通り過ぎる。その光の点滅が俺達の顔を照らす。兄は真剣な眼差しで俺を見据えていた。こんな真剣な顔を、俺ははじめて見た。電車が通り過ぎる。

「だから、俺達は一緒にいてもいいと思う」

遮断機が上がり、道は開けた。
……それは、馬鹿みたいな幸福論だなぁ。

「……兄貴、ホント単純だよね…」

俺は鼻頭を熱くする。

「あれ…泣いちゃう?三十目前にして泣いちゃう?」
「うぜえなぁ、もう」
「いやあ、泣き虫な弟を持つと大変だなぁ」
「泣き虫はお前だろ」

泣き虫の引きこもり中年と、泣き虫の家出中年。酷い兄弟だ。

「…なんか今日、すげえ綺麗だなぁ」

兄が夜空を見上げた。俺も見上げる。確かに綺麗だ。俺達兄弟は今、隣に並んで同じ夜を眺めている。兄がくしゃみをした。

「さむ…帰るか」
「うん」
「久々にあれ作ってよ、ムサカ」
「何それ?…あ、ラザニアの事か」
「え?ラザニアなの」
「ラザニアだよ」

その日の帰り道の会話はよく覚えていない。覚える必要もない。どうせこのくだらない会話はまだ暫く続くだろうから。

俺達兄弟は、今、幸せだと思う。
それでいいんじゃないかな。

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