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アート=宗教の下位互換

今日もまた、ロルバーンを持って家を出たのに、肝心の筆記具を忘れてしまった。書けない。

移動の合間につらつらと雑感を書き連ねることがデトックスになっているので、その時間がなくなったことが遺憾だ。自分のせいだけども。


仕方がないから、先日行った十和田市現代美術館の感想でも書いて時間を潰そう。



十和田市現代美術館は、アート好き界隈の中ではそこそこ有名な美術館だ。雑誌ではそのビジュアルがでかでかと掲載されていることが多く、とくに美術館入口に展示されているカラフルなお馬さんは非常にキャッチーで、何度も広告で目にしていたので、実物が眼前に現れると、たいへん感慨深かった。


カラフルうま


そしていざ中に入ると、有名な巨大オバサンがお出迎え。


でかい


その後も、現代美術館というだけあって、なかなかに写真映えするようなキャッチーな作品が続く。この美術館の常設展示はすこし変わった作りになっていて、1部屋に1作品が展示されている。小さな四角い部屋がいくつかあって、それぞれに作品が収められている。そのどれもが、いわゆるインスタレーションといわれるような展示方法で、額縁におさめられたTHE絵画!というようなものではない。だから作品数でいえば少ない。あっという間に見終える。

その中で、わたしが最も印象に残ったのは、ロケーション(5)という作品だ。

かなしい

一応公式のリンクを貼っておく。

真っ暗な部屋の中に入っていくと、そこは古びたダイナーのようになっている。客席(実際に座れる)は窓に隣接しており、そこから深夜の高速道路を見下ろしているかのような感覚が味わえる。

これが、まあ、なんともいえず悲しくなる作品だ。いや、たぶん、かなしい、というのは適切な表現ではない。

なんと言ったらいいのかな。なんか……遠い昔に、経験したことのあるような、圧倒的孤独感に包まれる感覚。この世に生まれる前に、こんなふうにひとりぼっちでいたような…、そんな感覚を呼び覚まされる。それは現世の記憶ではないのだけれど、なんとなく頭の隅っこのほうにそんな記憶が引っかかっているような気がしてくる。


圧倒的暗闇の中で、どこまでも続く、車1台通らない高速道路を見ていると、同じ空間にたくさんの来館者がいるにも関わらず、この世でひとりぼっちになったような感覚に襲われた。

この作者のアタマの中はいったいどんなふうになっているんだ?よくこんなものを作ろうと思ったな、と。


だいたい現代アートといえば、抽象表現と相場が決まっているのに、これはかなり具体的な事物を再現している。それだけに、作者の脳内にそのまま招かれたような感覚になった。


そうだ、写真を見ている感覚に近い。

作者の孤独な心象を投影して切り取られた1枚の写真の中に、ぽんと入り込んだような、そういう感覚だ。



話変わって。

先日、職場で「美術館は好きではない」といっている同僚たちの話に耳を傾けていたら面白いことを言っていた。

彼の主張は

・なんでお前ら(作者)のエゴにこちらが付き合わないといけないんだ
・効率的に生きていたい
・アートよりは写真のほうが現実のものだから好き

だった。(なんと、ルーブル美術館をものの数分で出たらしい)



私は、美術館によく行くのだが、なぜ行くのかと言われてもうまく答えられない。

まず、単純に美しいものを見たい、という気持ちがある。洗練された色使いや造形を見たい。

あとはたぶん、作品をみることで、作者、あるいは自分自身と対話をしたいんだと思う。

見ることは刺激だ。その刺激をうけて自分なりに何をどう感じたか、世界の解像度を上げていきたいのだと思う。

それは、直接的に現実世界の何かに役立つわけではないんだけど、この世界の成り立ちを理解するために、固い結び目をすこし紐解くような感覚だ。

現実主義者は、おそらく哲学的思考に時間を費やさない。

無駄だからだ。 

わたしはアートはつまるところ哲学だと思っている。本当は神に近接したい人間が生み出した宗教の下位互換だと思っている。


写真もつまるところ絵画と同じ側面をもっている。絵画鑑賞は抽象(作品)から具体を導いていく経験だし、写真鑑賞は具体(作品)から抽象に導かれる経験だ。


でもべつに、どちらも作者のエゴの展示であるという点において変わりない。


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